ポケットの底
「こちらには、不思議な品物がいろいろあると伺ったのですが」
男は、膝に置いた包みから手を離さずに言った。
窓際の席には冬の薄い日が差していた。外を歩く人は襟を立て、虹色Caféの扉が開くたび、足元へ冷たい空気が流れ込んでくる。
ルファは男の前に紅茶を置いた。
「ええ。どういったものをお探しですか」
「探しているのではなくて」
男は包みを見下ろした。
「引き取っていただけないかと思いまして」
紐をほどくと、布の中から濃い灰色の上着が現れた。厚い毛織りで、丈は膝に届くほどある。肩にはまだしっかりと形が残っていたが、袖口の縁は擦れ、襟のボタンが一つ取れていた。
「お金はいりません」
男は急いでつけ加えた。
「ここに置いていただけるだけで、いいんです」
カウンターで硝子の欠片を並べていたライトが、椅子を降りた。
「これ、魔法の服?」
「いいえ。そんな大層なものじゃありません」
男が上着を持ち上げたとき、裾から何かが落ちた。
さら、と小さな音がした。
床に、薄茶色の粒が散っていた。
「ああ……すみません」
男は上着を膝へ戻し、懐から布を取り出した。床へ屈む手が早かった。ライトもしゃがみ、指先で一粒を拾う。
「砂だ」
「何度も払ったんですが」
男は布の端で砂を集めた。
「まだ、残っていたんですね」
ルファが平たい盆を持ってきて、隣の空いた椅子に載せた。
「こちらへ。床はあとで掃除しますから」
男は礼を言って身体を起こした。上着を盆に置く前に、折れていた襟を指で直した。
*
右のポケットには、底に穴が開いていた。
袋の布が縫い目に沿って裂け、指が一本入りそうになっている。その下を探ると、手は上着の表地と裏地のあいだへ入った。
「ここから落ちたんですね」
ルファが言った。
「ポケットの砂が裾まで入り込むと、なかなか全部は出ないものです」
「俺もある」
ライトは自分のズボンのポケットに手を入れた。
「出したつもりでも、あとからまた落ちてくるんだよな。洗ったあとにも」
男は少年を見て、少しだけ口元を緩めた。
「ええ。最初は、私もそう思っていました」
ルファは上着の裾を指で挟んだ。裏地の内側に、ざらざらしたものが触れる。布を少しずつ持ち上げると、砂は縫い代に引っかかりながら、片側へ寄っていった。
右の裾には、短く縫い直された跡があった。ほかより糸が白く、針目の間隔が揃っていない。
「ここを、ほどいても?」
「かまいません。そこは私が縫いました。一度、開けて砂を出そうとしたんです」
ルファは糸を数本切り、開いたところを盆へ向けた。
細い砂の筋が落ちた。
裾を軽く叩くと、もう少し出た。出なくなったので上着を返すと、反対の折り目から、また数粒がこぼれた。
「ほらな」
ライトは盆を覗き込んだ。
「こっちにも溜まってた」
男はうなずいた。けれど、砂の山を見ても、困った顔のままだった。
ルファは襟から裾へ、手のひらをゆっくり滑らせた。布の中に残った粒を探し、縫い代を開くように指で押す。ライトが袖を持つと、肩のほうからも、かすかな音がした。
やがて、何も落ちなくなった。
盆の上には、ひとつまみほどの砂があった。小さな白い粒に、黒い欠片が混じっている。
「川の砂でしょうか」
ルファが尋ねると、男は少し間を置いて答えた。
「たぶん。川に、落ちたものなので」
「この上着が?」
「……持ち主が」
ライトは持っていた袖を下ろした。
男の視線が、その袖口へ移った。
*
「ニールという男でした」
男は言った。
「一緒に商売をしていたんです。布を仕入れて、町や村を回って売っていました。若い頃から、ずっと」
ルファは上着を畳まず、盆の上に広げておいた。
「先月、川で亡くなりまして」
男は紅茶へ手を伸ばしかけ、膝へ戻した。
「水が増えていたんです。雨が続いていましたから。流されて、もう……」
言葉が途切れた。
ライトは上着を見た。袖の先が、椅子からはみ出していた。床につかないように持ち上げると、折り返しの内側に青い糸が見えた。
「ここも、直してある」
「それは、ずいぶん前です」
男が手を伸ばした。
ライトが袖を渡すと、男は青い糸のところを親指でなぞった。
「私が短くしたんです。彼がこれを買ったとき、袖が長すぎたので」
「服、縫えるんだ」
「少しだけ。売り物の端を始末したり、袋を繕ったりするくらいですが。あいつは駄目でしたね。針に糸を通すだけで、ひどく時間がかかって」
男は小さく笑った。
「待っていられなくて、そんな時はいつも私がやっていました」
袖口を元の形へ戻す。その手つきには、迷うところがなかった。
「寒がりなやつだったんです」
男は言った。
「まだ誰も厚着をしていない頃から、これを着ていました。寒くないかと聞くと、寒くないって答えるんです。こんなに着込んでいるからだろうと言ったら、それもそうだって」
ライトは少し笑った。
男も笑いかけたが、口元が途中で止まった。
「冬の市では、焼いた栗を買って、このポケットに入れていたんですよ。手を温めるために。売り物の布に栗の匂いがつくからやめろって、何度も言ったんですが」
男の指が、ポケットの口に触れた。
すぐに離れた。
「最初の頃は、宿代も惜しくて、荷車で寝ることがありました。夜中に目が覚めると、これが私の上に掛かっているんです。あいつは荷台の向こうで、売り物の毛布にくるまっていて」
男はそこで顔を伏せた。
「自分だって、寒かったでしょうに」
椅子の下で、靴の先が少し動いた。
男は懐の布を目元へ当てた。さっき砂を集めたのと同じ布だった。途中で気づいたらしく、きれいな面を探して折り直した。
ルファは何も言わなかった。
ライトも、袖から手を離した。
窓の外を荷車が通り過ぎた。車輪が石畳の溝を踏む音が、しばらく店の中まで聞こえていた。
「……大事な人だったんだな」
ライトが言うと、男は布を握ったままうなずいた。
「ええ」
少ししてから、もう一度言った。
「ええ。そうです」
ルファが冷めかけた紅茶を見た。
「淹れ直しましょうか」
「いえ。どうぞ、おかまいなく」
男は顔を上げた。目元が赤くなっていた。
「水が引いてから、この上着だけが見つかったんです。身体は、まだ」
ルファは男を見た。
「上着だけが戻ってきたのですね」
「はい」
男は灰色の布へ目を落とした。
「私には、もう着られません。見ていると、あいつの顔を思い出してしまって」
袖を揃え、両方を胸のところへ折り重ねた。
「でも、捨てられないんです」
ライトは返す言葉が見つからず、盆にこぼれた砂を見ていた。
*
「それでは、私はこれで」
男が立ちかけた。
ルファは顔を上げた。
「お引き取りするかどうか、まだお返事をしていませんが」
「ああ、そうでしたね」
男は腰を戻した。さっきより少し、扉のほうへ椅子が向いていた。
「珍しいものを集めていらっしゃると聞いたので、つい」
「この上着の、どんなところが珍しいのでしょう」
男は黙った。
暖炉の中で、薪が小さく鳴った。
「砂が、出るんです」
「ええ」
「実は、何度出しても出てくるんです。裾を開けて、裏地をひっくり返して、縫い目のところまで指で確かめたんです。それでも、朝になると」
男は右手の人差し指を曲げた。爪の脇に、細かな傷があった。
「最初は、上着を振るたびに落ちてくる程度でした。でも、そのうち、椅子の下に溜まるようになって」
ルファは折り重ねられた袖を広げた。
「もしかして、この水もですか」
「はい。何日も干しました。乾いたと思って取り込むと、次の朝には、ポケットだけ湿っているんです」
「今朝も?」
男はうなずいた。
「包む前には、乾いていました」
ルファは右のポケットを裏返した。穴の縁に湿った砂がついていた。指で払うと、布に黒い筋が残った。
ライトが盆を引き寄せた。
「さっき、ここも見たよな」
「ええ」
ルファは乾いた布で水気を吸わせた。裏地の開いたところから、今度は細長い刷毛を入れ、縫い代に残っていた粒も落とした。
穴の周りを指先で確かめてから、針と糸を持ってきた。
「袋の底を繕っておきましょう。これで、裏地のほうからは落ちなくなります」
男は縫っている手元を見ていた。針が布を抜けるたび、唇が少しずつ固くなっていく。
ルファが糸を切った。
右のポケットには、もう穴がなかった。ライトは外から底をつまみ、空であることを確かめた。
そのとき、盆で音がした。
こつん。
ルファが上着を持ち上げると、下に黒い石が落ちていた。親指の先ほどの、丸い石だった。
「これも入ってたのか」
ライトが拾おうとして、手を止めた。
石の周りに、水が広がっていた。
ルファは上着を吊るすように持った。右のポケットの下が、濃く濡れている。
縫ったばかりの袋の底から、赤みがかった水滴が落ちた。
一滴。
もう一滴。
砂を集めた盆の上に、丸い跡が増えていく。
店の窓は乾いていた。男の靴にも、床にも、雨の跡はなかった。
「……その石は」
男が言いかけた。
ルファが顔を向ける。
「何か?」
「いえ」
男は首を振った。
「もう、嫌なんです」
両手を膝のあいだに挟み、身体を折るように俯いた。
「夜中にも、音がするんです。ごり、ごりって。裏地の中を、何かが動いているみたいに」
灰色の上着の裾が、小さく揺れた。
ライトは手を引き、膝の上に置いた。
*
ルファは上着を木のハンガーに掛け、暖炉から少し離れた衝立へ吊るした。下には盆を置いた。
男は椅子から動かなかった。ハンガーに掛かった肩の形を、横から見ている。
「首のところのボタンは、いつ取れたのですか」
ルファが尋ねた。
「……わかりません。見つかったときには、もう」
襟元には、切れた糸が二本残っていた。
ルファは棚の引き出しを開け、小さな布張りの箱を取り出した。中には、硝子のボタンがいくつか並んでいる。
選んだのは、指先に載るくらいの、花の形をしたものだった。
銀色の細い縁の中に、赤、青、黄、緑の硝子が組み合わされている。花弁の先には紫があり、中央の小さな金具には、糸を通す穴が二つ開いていた。
ルファが持ち上げると、指の腹に七色の光が落ちた。
「これを、つけてもかまいませんか」
「新しいものを?」
「少し、確かめたいことがあるのです」
ルファは男の返事を待った。
「ニールさんのあと、この上着を着た方は?」
「いません。私も、一度も袖を通していません」
男は上着から顔を背けた。
「着る気には、なれなくて」
「このボタンに光を通すと、最後にその服を着ていた人の、残された姿が見えます」
男が振り向いた。
「姿が?」
「服の中に、その人がいたときの形が映るのです。お話をしたり、こちらに触れたりはできません」
「……あいつが、見えるんですか」
ルファはうなずいた。
「それで、この上着を置いていただけるか、決めてくださるんですね」
「ええ。まず、確かめさせてください」
男は扉へ目を向けた。それから、膝に載せた空の包み布を見た。
「映るだけ、なんですね」
「ええ」
男はしばらく上着を見ていた。
それから、ゆっくりと手を伸ばし、左の袖口を直した。青い糸が内側へ隠れる。
「お願いします」
声は小さかった。
ルファは切れた糸を抜き、硝子のボタンを縫いつけた。
ライトが卓上の灯りを寄せた。窓の日はすでに弱く、灯りを近づけると、硝子の花弁に暖かな色が戻った。
ボタンから細い光が広がった。
襟の内側に、白いものが見えた。
初めは、下に着るシャツの布かと思った。けれど、その上に顎があり、少し開いた唇があった。
濡れた髪が、頬に貼りついていた。
上着の肩が、人の肩の形に沿って見えた。光の届いたところだけ、首と頬の輪郭が浮かんでいる。
「……ニール」
男が言った。
一歩、近づいた。
右手が上がった。頬に触れようとするように、指が開く。その手は、途中で止まった。
ニールは答えなかった。
濡れた髪の下に、こめかみの黒い傷があった。片方の襟が折れ、首の脇へ貼りついている。
男は、襟を直そうとしたが、布を持ち上げたところで、手が止まる。灯りがボタンの下を照らした。
上着の前に、二つの手首が重なっていた。
細い紐で、縛られている。
ルファは男へ目を向けた。
「この手は……」
「あああ、それは。もう、止めましょう」
男は上着の前をつかんだ。
「もう、いいです」
襟を寄せるようにして、映った顔を隠した。手の甲がボタンに重なると、ニールの姿が消えた。
男はそのまま、動かなかった。
上着の裾から、水が落ちていた。
「つらいんです」
男は言った。
「あんな姿を見るのは、もう」
ルファは灯りを少し遠ざけた。
「最後に会ったのは、いつでしたか」
「……先月です。今、話したとおり」
「どこで?」
男は答えなかった。
こつん、と音がした。
もう一つ、石が落ちていた。さっきのものより大きく、端に白い筋がある。
男がそれを見た。
喉が動いた。
「まだ……」
ルファは何も言わず、待った。
「まだ、全部は出ていないんです」
ライトは男を見た。
ルファの手が、灯りの取っ手から離れた。
「入っていた石に心当たりがあるのですね」
男は口を開いた。
息を吸ったが、言葉は出てこなかった。
*
ニールは、二人分の帳面を持ってきた。
川沿いの倉庫に、まだ荷を下ろしていない布があった。男はそこで話そうと言った。店では人が来るから、と。
仕入れのために残しておいた金が、足りなくなっていた。売上を書いた帳面と、男がニールに渡していた帳面では、数字が違っていた。
金を使ったのは男だった。
初めは少しだけだった。戻せると思っていた。戻す前に、また抜いた。
ニールは帳面を広げた。
「いくら残ってる」
男は答えなかった。
「全部、話してくれ」
倉庫の戸口から、川の匂いが入っていた。
男は、ニールが差し出した帳面を見た。若い頃から知っている字だった。売れた布の幅も、食べた昼飯の代金も、同じ字で書かれていた。
その晩、ニールは水際に倒れた。
こめかみから血が流れていた。男はそばにしゃがみ、肩を揺すった。
呼吸は、あった。
目が開き、男を見た。
唇が動いた。
男の名だった。
男は、その口をふさいだ。
ニールの指が、男の袖をつかんだ。その手首から、短く直した袖口の青い糸が覗いていた。
男は指を一本ずつ外した。
灰色の襟をつかんだとき、首元のボタンが一つちぎれた。
川は暗かった。
その先を、男は誰にも話していなかった。
ニールの手を縛ったことも、上着のポケットに石を詰めたことも。
最後に、沈みきらないニールの顔を水の下へ押したことも。
顔は見なかった。
腕に伝わっていた動きがなくなるまで、手を離さなかった。
*
「……捨てられないんです」
虹色Caféで、再びその言葉を男が言った。
ライトは椅子の背につかまっていた。
「水が引いたあと、岸に引っかかっているのを見つけました。誰かに拾われたらと思って、持って帰ったんです」
ルファは黙って聞いていた。
「乾かして、砂を出して。それから、捨てました。包んで、ごみと一緒に」
男は上着をつかんでいた手を離した。
「次の朝には、椅子に掛かっていたんです」
上着は衝立の前に吊るされていた。下の盆には、水と砂と、二つの石があった。
「川へ戻したこともありました。それでも、また。だから……誰かが持っていてくれれば、私のものではなくなれば」
男はルファを見た。
「お願いです。引き取ってください」
ルファは上着のボタンに布を掛けた。
「ニールさんは、どこにいるのですか」
「わかりません」
「最後にいた場所を、教えてください」
男は首を振った。
「もう、いないんです」
ルファは返事をしなかった。
「あいつは、もう……」
男の目から涙が落ちた。
濡れた左の袖へ手を伸ばし、折れているところを直した。青い糸を内側へ押し込む。さっきと同じ、手慣れた動きだった。
「こんな上着、一枚くらい」
男は小さな声で言った。
「ここなら、ほかにもあるんでしょう。こういうものが。置いておいてくださればいいじゃありませんか」
「その前に、ニールさんが最後にいた場所へ、案内していただけますか」
ルファの声は低かったが、荒くはなかった。
「ここで待っていてください。人を呼びましょう」
ルファがそう付け足すと、男は扉を見た。
ライトが動くより早く、男は膝の包み布をつかんだ。椅子が後ろへずれ、床を擦った。
「結構です」
男は言った。
「誰も、呼ばなくていい」
そのまま扉へ向かった。
ルファが名前を尋ねたが、男は振り返らなかった。扉の鈴が激しく鳴り、冷たい空気が店の奥まで流れ込んだ。
ライトは扉の前で足を止めた。
男の背は、もう通りの人影に紛れていた。
ルファは向かいの店の主人を呼び止め、街の見回りへ知らせを頼んだ。
ライトが振り返ると、テーブルには、手つかずの紅茶が残っていた。
その隣に、男が使った布が落ちていた。涙を拭いたところに、砂が数粒ついている。
ライトは布を拾いかけ、手を止めた。
ルファは戻ってくると、上着から硝子のボタンを外した。
細い糸が切れる音がした。
*
男は、遠回りをして家へ帰った。
人通りのある道を選び、店先の灯りが消えるたび、少し歩くのを速めた。片手には包み布だけがあった。握り直しても、その中に上着の重さはなかった。
家の扉を開けると、中は冷えていた。
男は鍵を掛けた。
戸に耳を寄せたが、外からは誰の足音も聞こえなかった。
息をつき、卓上の灯りに火を入れた。
椅子に、上着が掛かっていた。
灰色の肩。
短く直した袖。
襟のボタンが、一つない。
男は灯りを持ったまま、ただ立ちすくんだ。
やがて上着を取り卓上へ置くと、底が木に当たって、小さく鳴った。
椅子の下に、砂が溜まっていた。床板の継ぎ目へ細く入り込み、脚の周りに浅い山をつくっている。
さら。
上着の裾から、また落ちた。
男は包み布を床へ広げた。
椅子から上着を引き下ろし、その上へ置く。右の裾を持ち上げ、反対の手で布を叩いた。
砂が落ちた。
もう一度、叩く。
縫い代の奥から、少し遅れて、また砂が出た。
男は強く振った。肩を持ち、上下を逆にし、袖の中まで指を差し入れた。まだどこかに残っているのだと思った。布を重ねたところや、折り返したところに。
それを全部、出してしまえば。
上着を返したとき、右のポケットが膨らんでいるのに気づいた。
底に、何かがあった。
男は卓上の灯りを、足元へ降ろした。
片手でポケットの口を広げ、もう片方を差し入れる。底の角をつまんで、袋ごと外へ引き出そうとした。
指先が、冷たいものに触れた。
濡れた布の感触ではなかった。
冷たい指。
男が手を引くより早く、その指が掴む。
人差し指のあいだへ、一本。
薬指のあいだへ、もう一本。
爪を立てて握ってきた。
男は上着を床へ押しつけ、腕を引いた。右のポケットだけが引き伸ばされ、縫い目がぎしりと鳴った。
手が抜けない。
内側の指が、さらに深く爪を立てた。
男は息を詰めた。左手で袋の口をつかみ、思いきり広げる。
灯りが、そこへ差した。
暗い水。
水の中に、白いものが二つ並んでいた。
目。
大きく見開かれた目が、ポケットの底から、男を見上げていた。
あの夜、見ようとしなかった目と、目が合った。
了




