偽聖女として三年がんばりましたが、そろそろ辞めたいので、自分の化けの皮は自分で剥がします 〜ついでに私を担ぎ上げた大司教様と王太子殿下も道連れです〜
奇跡の最中に、袖の中で花がすべり落ちていく。
まずい、と思ったときには、白い花びらが手首をくすぐって、袖口からこぼれかけていた。
大聖堂を埋めた何百という目が、祭壇に立つわたしの両手を見つめている。
心臓が、喉もとまでせり上がった。
この花が落ちたら終わりだ。
三年かけて塗り固めてきた嘘が、たった一輪の花のせいで崩れてしまう。
そのとき、背後で誰かが動いた。
護衛騎士のローランだった。
わたしが聖女になった日から、三年間ずっとそばに付いている聖女付きの騎士だ。
いつも祭壇の段の下に控えていて、無愛想で口数が少なく、必要なこと以外はほとんど話さない。
いつの間にか段を上がった彼が、衣の乱れを整えるような仕草で、わたしの袖口を押さえる。
こぼれかけた花は、大きな指に押しこまれて袖の奥へ戻った。
吐く息が震えないように、お腹に力を入れた。
いつもの笑顔を貼りつけて、両手をゆっくり開く。
そうすると何もないはずの手から、白い花があふれ出した。
わあっ、と歓声が上がる。
最前列の男の子が、口をぽかんと開けて花びらを見上げていた。
この顔を見るときだけは、少しうれしい。
市場で銅貨を消していた頃から、わたしはこれが見たくて手品をしてきた。
「さすが聖女様!」「今日の奇跡もすごいなあ」
これは奇跡でも何でもない、ただの手品だ。
でもこの手品を、大司教様は聖女の奇跡と謳って人を集めている。
わたしは聖女なんかじゃない。
先代の聖女様が亡くなった神殿に、大司教様が市場から拾ってきた孤児院育ちの娘。
それがわたしだ。十六の春からこの仕事を始めて、もう三年になる。
正直、そろそろ辞めたい。
でも、辞めたいと言った聖女がどうなるのか、わたしは知らない。
祭壇を下りるとき、すれ違ったローランは、いつもの無愛想な顔で何も言わなかった。
中庭では、もう札売りが始まっていた。
長机に積まれた加護札には、わたしの名前が金の字で刷ってある。
一枚で銀貨一枚、下町の家なら何日分ものパン代だ。そこに並んでいるのは、継ぎは当たっていても、きれいに洗った服の人たちばかりだった。
何の力もない紙だと、一番よく知っているのはわたしだ。
見るたびに、胸が苦しくなる。
列の脇では、大司教グレゴール様が人々に手をかざしていた。
金糸の法衣に、親指の爪ほどもある紫の石の指輪。その顔には、慈悲深い笑みが浮かんでいる。
その列を割って、痩せた女の人が飛び出してきた。
その手には、くしゃくしゃの加護札が握りしめられていた。
「大司教様……っ。この札があれば、あの子の熱は下がるって……薬代を、札に回したんです。なのに、あの子は……」
声が裂けた。女の人は、法衣の裾にすがりついた。
「どうして、あの子は死んだんですか!」
中庭が、しんと静まった。
耳の奥で、自分の心臓だけがどくどく鳴っていた。
大司教様は、少しも笑みを崩さなかった。
「それはお気の毒に。ですがご婦人、加護は信じる者にこそ届くのですよ。……信心が足りなかったのでしょうな」
昼下がりの天気の話でもするような声だった。
「次のお子のためにも、もう一枚お求めなさい。今度は二枚お持ちになるとよろしい」
女の人の顔から、表情がすとんと抜け落ちた。
大司教様が指先を動かすと、神殿兵が彼女の両腕をつかんで引きずっていった。その手から落ちた札が、わたしの名前を上にして、石畳に貼りついた。
駆け寄って、ごめんなさいと言いたかった。
でも、本当のことを口にした瞬間に孤児院がどうなるか、わたしは知っていた。
唇を噛んで横を見ると、ローランが女の人の背中を見送っていた。
顎の線が、石みたいにこわばっていた。
その夜、わたしは大司教様の書斎に呼ばれた。
葡萄酒の匂いがむっと押し寄せる中、暖炉の前の椅子に、王太子ジュリアン殿下が脚を組んで沈みこんでいた。
聖女は王太子の婚約者になるという古い約束のせいで、わたしの婚約者ということになっている方だ。
「来たか、拾い物」
殿下は、わたしを見もしなかった。
脇で葡萄酒を注いでいた少年の侍従が、一滴を殿下の袖に跳ねさせた。
次の瞬間、銀の杯が少年の額に飛んでいた。
「下がれ。目障りだ」
よろめき出ていく少年を、わたしは見ていることしかできなかった。
握った手のひらに、爪が食いこんだ。
「リラ。次の大祭で読む神託が決まりました」
机の向こうから、大司教様が紙を差し出した。
『公爵令嬢エリザベートは魔女なり。北の修道院塔へ送るべし』
その紙に書かれている文を読んだ途端、身体がすっと冷えていく。
エリザベート様。
宰相閣下のひとり娘で、わたしが聖女になるまで、殿下の婚約者だった方だ。
魔女と告げられた者は、弁明も許されずに、雪に閉ざされた北の塔へ送られる。
戻ってきた人を、わたしは知らない。
「エリザベート様が……何を、なさったんですか」
「殿下の軍資金の行き先を、宰相閣下にご報告なさるおつもりだったとか」
大司教様が楽しげに目を細め、殿下が鼻で笑った。
「宰相がわめこうが、父上が渋い顔をしようが、神託は覆らん。賢しらな女は、塔で一生祈っていればいいさ」
「……できません」
「わたしの手品は、人を笑わせるためのもので……傷つけるためのものじゃ……」
殿下がようやくこちらを見て、腹を抱えて笑い出した。
「手品!聞いたか大司教、こいつは自分を手品師だと思っているぞ」
立ち上がった殿下に、手首をつかまれた。
骨がきしむほどの力だった。
「お前は、大司教が市場で拾った道具だ。道具は、言われたとおりに鳴ればいい」
手を放すと、殿下は手袋を外して床に放った。
「汚い脂がついた。捨てておけ」
頬が、かっと熱くなった。喉の奥が、焼けるように痛かった。
大司教様が机を回りこみ、指輪を付けた手でわたしの顎をつかんだ。
紫の石が、頬骨に冷たく食いこむ。
「お前の育った孤児院は、まだあの崩れかけた屋根のままでしたな。異端の巣として取り潰すのは、容易いこと……冬の路地で子どもが何人生き残るか、試してみますか」
息が止まった。
「お前の前にも、一人いたのですよ。聖女をやめたいと泣いた娘が。名前は……はて、何だったか……」
大司教様は少し考えた後、ふっと笑った。
「忘れました。今も北の塔にいるはずですよ。生きていれば……ですがね」
足もとの床が、ぐにゃりと柔らかくなった。
亡くなったと聞かされていた先代の聖女様は、わたしと同じように拾われて、袖に花を仕込んでいた女の子だったのだ。
その名前を、この人はもう覚えてもいない。
「わ……わかりました」
「よろしい」
差し出された右手の前に、わたしは膝をついた。
それは毎晩の決まりだった。紫の石に唇を押し当てると、冷たくて、香油の匂いがした。
机の端に、黒い帳簿が開いたままになっていた。
挟まれた覚え書きの一枚が、わたしの袖のすぐ先にはみ出している。
気がついたときには、手が動いていた。
市場で覚えた、悪い癖だった。
書斎の扉を閉めかけたとき、中から声が漏れてきた。
わたしは、その場から動けなくなった。
「殿下、神託の文面も、事が済んだあとの始末も、殿下のお手で一筆いただけますかな。あとで私ひとりに罪をかぶせられては、敵いませんのでな」
「ふん、坊主のくせに用心深いことだ。……前夜祭の夜会で渡す」
殿下が、あくびまじりに続けた。
「それと、神託を読ませたら、あの偽聖女も先代と同じく塔へやって、死んだことにしておいてくれ。ついでに孤児院も潰せ。孤児が何人消えようが、誰も困らんだろう?」
「ええ、わかりました。次の娘には、もう目星をつけてありますから、代わりはいくらでも」
両手で口を押さえて、崩れそうになる体に必死で力を入れた。
廊下の角に、ローランが立っていた。
黙って歩き出した彼の拳は、白くなっていた。
翌日は、孤児院への慰問の日だった。
門をくぐると、湿ったかびの匂いが鼻をついた。
礼拝室の床に桶が並び、雨だれがぽたん、ぽたんと鳴っている。
隅の寝台では、小さなトマが湿った毛布にくるまって咳きこんでいた。
「神殿からの寄付は、この冬もほとんど届いていないんですよ。でも、幸いなことに、パンが切れたことはないの。こちらの名乗らないお嬢様が、毎月お代を置いていってくださって」
院長のベルタ先生が、隈の濃い目で奥の部屋を指した。
灰色の地味な服の女の人が、子どもたちに石板で字を教えていた。
その横顔に、わたしは立ちすくんだ。
それはエリザベート様だった。
宮廷で遠くから何度も見た、いつも背筋を伸ばして、にこりともしない方。
彼女はわたしに気づくと、すっと表情を消して立ち上がった。
「聖女様。寄付金がここへ届いていないことを、まさかご存じなかったわけではありませんわね」
何も言い返せなかった。
わたしの名前で札が売られているのだ。大司教様の仲間だと思われて当然だった。
それでもエリザベート様は、咳きこむトマの前に膝をついて、手巾で口もとを拭ってやった。その手つきだけは、ひどく優しかった。
「わたくしがここへ来ていることは、どなたにもおっしゃらないでくださいませ。殿下のお耳に入れば、ここが困りますので」
帰りの馬車で、わたしは泣いた。
声を殺そうとしても、しゃくりあげるたびに喉がひくっと鳴った。
握りしめた手の甲に、涙がぼたぼた落ちた。
ここで子どもたちに銅貨の手品を見せて暮らせたら、それだけでよかったのに。
あの人を、わたしの声で塔へ送るの?トマに、雨漏りの下で咳をさせたまま?
お腹の底から、熱いものがせり上がってきた。
悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか。きっと、ぜんぶだ。
……聖女なんか、辞めてやる。
でも、黙って逃げたら次の娘が拾われるだけ。
わたしの声が神託になるというのなら、わたしの声で、本当のことを読んでやる。
書斎で抜き取ったあの覚え書きが、役に立つかもしれない。
その夜、部屋の前でローランを呼び止めた。
手のひらが汗ばんで、何度も口を開いては閉じた。
「昨日は、花をありがとう。あの……わたし、聖女を辞めたいの。本当は、聖女なんかじゃなくて——」
「手品だろ」
ローランは、窓の外を見たまま言った。
「そんなの最初から知ってたさ。近くで見たらわかった。最初の奇跡の日、祭壇の裏に花が一輪落ちてたんだ。ああ、次の朝…きちんとあんたの衣装箱に戻しておいたさ」
わたしは、ぽかんと口を開けた。
わたしが感じていた違和感は、昨日だけじゃなかったのだ。
一輪足りなくて夜通し探して、翌朝なぜか衣装箱にあった花。
ずっと、自分の数え間違いだと思っていた。
「……なんで、黙ってたの」
「あんたの奇跡で笑うやつはいたが、泣くやつはいない」
ローランが、ようやくこちらを向いた。
「札を売ってるのは大司教だ。悪いのはあんたじゃない」
何かが、ぷつんと切れた。
視界がぐにゃりと歪んで、涙が止まらなくなった。
嘘がばれてしまうと不安で、夜中に何度も目が覚めたこと。
偽物の札を買っていく人たちの背中。
昼間の女の人。床に放られた手袋。
名前も覚えてもらえなかった、先代の聖女様。
子どもみたいに泣くわたしの前で、ローランはおろおろと手を上げ下げして、結局、不器用にわたしの頭に手のひらを乗せた。
それは大きくて、硬くて、あたたかい手だった。
泣きやんでから、わたしは袖からあの覚え書きを出した。
「殿下が大司教様に渡す一筆と、これ。二つそろえば、あの人たちが何をしてきたか、大祭でみんなに見せられる。一筆は、夜会で殿下の上着から抜くわ。それから最後に、わたしの種明かしも、わたしがする」
「……危ないぞ」
「わたしは手品師よ。人のポケットから物を抜くのは、市場でさんざん練習したんだから」
涙でぐしゃぐしゃの顔で笑ってみせると、ローランがふっと息を吐いた。
「……俺は、何をすればいい」
「祭壇で、わたしが読み終わるまで、誰にも邪魔させないで」
大祭までの夜は、段取りを練って過ごした。
息抜きに銅貨の手品を教えてみたけれど、ローランの大きな手の中で、銅貨は少しも消えてくれない。
指の間からこぼれて、寝台の下へ転がっていく。
「……難しいな」
寝台の下に腕を突っこんだまま真顔で言うから、わたしはお腹を抱えて笑った。笑いすぎて、泣いたときとは違う涙が出た。
それから毎晩、ローランは銅貨を一枚持って帰るようになった。
大祭の前夜、王宮で前夜祭の夜会が開かれた。
見せ物の踊りが始まるなり、殿下はわたしの指を握りつぶすように力をこめて、耳元で囁いた。
「笑え。皆が見ている。……明日はしくじるなよ、拾い物。読み終えたら、お前の役目もおしまいだ」
それがどういう意味か、わたしは知っている。
知っているから、にっこり笑った。
「はい、殿下。精一杯、務めさせていただきます」
殿下は右利きだ。紙をしまうなら、上着の左の内側。
体を回すたび、そこがわたしの右手の前を通る。
一度目。二度目。三度目に殿下の体が大きく傾いた瞬間、わたしの指先は上着の合わせ目に滑りこんでいた。
折りたたんだ紙を二本の指で挟んで抜き、袖に仕込んだ同じ大きさの白紙を落としこむ。
心臓の音が、楽団の音楽より大きく聞こえた。
殿下は退屈そうに、シャンデリアを見上げていた。
曲が終わると、殿下は広間の隅で、上着から出した紙を大司教様に押しつけた。
大司教様は、それを開かずに法衣の懐へしまった。
夜会のあと、大司教は司祭たちと聖堂で夜通し祈るしきたりだ。人前で、密書は開けない。
それでも、あの白紙が開かれたら全てが終わる。
大祭の朝、人で埋まった大聖堂に、ステンドグラスの光が赤や青のまだらを落としていた。
正面の高い席に、国王陛下とジュリアン殿下。
貴族の最前列には、宰相閣下とエリザベート様が並んでいた。
人垣の中に、中庭で引きずられていったあの女の人の顔も見えた。
祭壇で、大司教様が封蝋の巻物をわたしの手に握らせた。
顔には慈悲深い笑み。唇だけが、わたしにしか聞こえない声で動く。
「しくじれば、今夜のうちに孤児院が燃えますよ」
懐の紙を、この人はまだ開いていないようだった。
開いていれば、わたしは今ここに立っていない。
わたしは、にっこり笑ってうなずいた。
段の下には、いつもより半歩近くにローランが立っている。
封蝋を割った。
指先が冷たくて、自分の指じゃないみたいだった。
でも、人前で手品をしくじったことは一度もない。
ローランに拾ってもらった分を除けば。
巻物を広げる動きにまぎれて、巻物は袖の中へ。
袖の中の紙は、両手の中へ。
大聖堂じゅうの目の前で、誰ひとり気づかなかった。
「神託を、告げます。……大司教グレゴールへ」
隣で、大司教様の喉がひゅっと鳴った。指輪の手が、わたしの紙へ伸びてくる。
その手首を、横からつかんだ手があった。
段をひと息に上がってきたローランだった。
「お下がりください、大司教様。聖女様の神託の最中です」
大司教様の顔から、笑みが消えた。
わたしは、読み続けた。
「大祭の神託は、次の文面のとおりに記せ。『公爵令嬢エリザベートは魔女なり。北の修道院塔へ送るべし』」
最前列で、宰相閣下が腰を浮かせた。
その袖を、青ざめたエリザベート様の指がぎゅっとつかんでいる。
「あの女が軍資金の件を宰相に知らせる前に、片をつけろ。神託を読ませたのちは、偽聖女は先代と同じく塔へ送り、死んだことにせよ」
偽聖女。その三文字を、わたしは自分の声で読んだ。
「孤児院は潰せ。孤児が何人消えようと、誰も困らん」
最後の一行は、顔を上げて読んだ。
「王太子、ジュリアン」
大聖堂が、しんと静まり返った。
誰かの咳をきっかけに、ひそひそ声が波のように広がり、大聖堂じゅうを揺らすどよめきになった。
「黙れ! その女を祭壇から引きずり下ろせ!」
殿下が、椅子を蹴って立ち上がった。
「ジュリアン、座れ」
隣の席から、国王陛下の低い声が落ちた。
それだけで、どよめきがすうっと引いていく。
「聖女よ、その紙をこちらへ」
ローランが運んだ紙を、陛下は長いあいだ見つめていた。
「父上、それは偽物です!誰かが私の字を真似て——」
「余は、そなたが初めて筆を持った日から、そなたの字を見てきた。……宰相」
震える手で紙を受け取った宰相閣下が、かすれた声で答えた。
「殿下のご筆跡に、相違ございません」
殿下の唇が、わなわなと震えた。
視線が、大司教様へ泳ぐ。
「大司教です、父上! その女と…大司教がそそのかしたのです!」
「軍資金の穴を埋めてくれと泣きついてこられたのは、殿下のほうではございませんか!」
「黙れ、この強欲坊主が!」
「強欲はどちらです!毎月毎月、誰の尻ぬぐいをしてきたと!」
満座の前で、王太子と大司教が罪をなすりつけ合う。
貴族席の誰かがたまらず吹き出し、その笑いが冷たい嘲りになって広がっていく。
「へ、陛下! その紙が何であれ、本物の神託は私が封をした巻物にございます。まずはそちらを——」
我に返った大司教様の目が、祭壇の上を探した。巻物は、どこにもない。
わたしは、袖から巻物を抜き出した。
「こちらですか」
大司教様の顔が、紙のように白くなった。
巻物を受け取った陛下が、殿下の紙と並べる。
「……一字一句、同じだな」
「陛下、もう一枚ございます」
わたしは、帳簿の覚え書きを差し出した。
陛下が、低い声で読み上げる。
「加護札、売り上げ。王太子、賭場払い。……孤児院寄付金。大司教私室」
「あの札の、お金で……」
人垣の中から、かすれた声が上がった。
中庭で引きずられていった、あの女の人だった。
「あの子の薬の代わりに買った札のお金で……賭け事を……っ」
最後は、ほとんど悲鳴だった。
誰かが、手にしていた加護札を祭壇へ投げた。一枚。また一枚。次の瞬間には、何百という札が宙を舞っていた。
わたしの名前を金の字で刷った紙が、ステンドグラスの光を受けて、雪のように大司教様と殿下の上へ降りそそいだ。
まだ、ひとつ残っている。
膝が、がくがくと震えた。三年間、ずっと隠してきたことだ。
段の下で、ローランが小さくうなずいた。
それだけで、足の震えが少しおさまった。
わたしは祭壇を下り、人垣の中のあの人の前で立ち止まった。
「ごめんなさい。その加護札は、ただの紙です」
袖を裏返す。仕込みの花が、ぱらぱらと足もとに落ちた。
「わたしは、聖女ではありません。この三年の奇跡は、全部手品です」
人垣が、ざわっと息をのんだ。
そばにいた小さな男の子が、足もとの花を拾い上げる。
「じゃあ、この花、お姉ちゃんが出してたの? すげえ」
わたしは振り返り、祭壇の上の大司教様を見上げた。
「市場で銅貨の手品をしていたわたしを拾って、袖に花を仕込む練習をさせたのも、作った神託を読み上げるように指示していたのも、大司教様です」
「で、でたらめだ!私も騙されていたのです!」
「騙されていた方が、わたしの名前で札を刷って、そのお金を私室へ運ぶのですか?」
大司教様の口が、ぱくぱくと動いた。何も出てこなかった。
わたしは、立ち尽くす殿下の前まで歩いていった。
「殿下。最後に、手品をひとつだけ」
殿下の耳の後ろに手を伸ばし、指を引く。
そこには、いちばん安い銅貨が一枚あった。
わたしはそれを、殿下の手のひらに載せた。
「孤児が何人消えても誰も困らないと、殿下はお書きになりました。殿下にとって、わたしたちの値打ちは、きっとこのくらいだったんでしょうね。……お返しします」
殿下の手のひらで、銅貨がかたかたと鳴った。手が、震えているのだ。
陛下が、ゆっくりと立ち上がった。
「ジュリアン。神託を偽り、宰相の娘を陥れようとし、民の施しで賭場の借りを払った。この場で王太子の位を剥ぎ、北の修道院塔へ送る。……お前がエリザベートのために用意した場所だ。お前が使え」
殿下の膝が、床に落ちた。
「ち、父上、お待ちください!」
殿下は這うようにして、エリザベート様の足もとにすがりついた。
「エリザ、頼む、取りなしてくれ!俺たちは婚約者だっただろう!」
エリザベート様は、静かに裾を引いた。
「それだけ憎いから、わたくしをあの塔へ送りたかったのでしょう?その汚い手で、わたくしに触れないでくださいませ」
それきり、彼女は殿下を見なかった。
近衛兵に引きずられながら、殿下はわたしに向かってわめいた。
「孤児風情が……お前のせいだ!」
ローランが、わたしの前に一歩出た。
殿下の視線は彼の背中にさえぎられ、わめき声は扉の向こうへ遠ざかって、消えた。
「大司教グレゴール。神託を偽り、聖女を偽り、施しを盗んだ。法衣を剥いで牢へ。加護札の金は、一枚残らず買った者たちへ返させる。その者の手で塔へ送られた者は、すべて呼び戻す」
神殿兵が、ついさっきまで仕えていた男の腕をつかんだ。
金糸の法衣が、肩から引き剥がされる。
指輪を抜かれまいと大司教様が暴れ、紫の指輪が床を転がって、わたしの足もとで止まった。
三年間、毎晩口づけさせられた指輪だった。
わたしは、それを拾わなかった。
「リラ!拾ってやった恩を忘れたか!私がいなければ、あの孤児院など——」
「大丈夫です。あなたがいなくなれば、寄付はちゃんと届くようになりますから」
大司教様の口は、何か言いかけたまま、扉の向こうへ消えた。
床一面に、わたしの名前の札が散らばっていた。
「そして、聖女を名乗った娘よ」
陛下の目が、わたしに向いた。
わたしは、両手を前にそろえて差し出した。
「はい。わたしも、相応の裁きを受けます」
声は、もう震えていなかった。
震えていたのは足のほうで、ぷつりと糸が切れたように体がかしいだ。
床にぶつかる前に、ローランの腕が抱きとめてくれた。
「……よく、やった」
耳もとでそう言われて、また涙が出た。
裁きの日、わたしは孤児院にいた頃と同じ麻の服で、王宮の広間に立った。
証人に立ったエリザベート様は、この方がいなければ自分は今ごろ北の塔の中だったと陛下に告げ、それからわたしに向き直った。
「孤児院での非礼を、お詫びしますわ」
にこりともしないはずの方の口もとが、ほんの少しゆるんでいた。
「神を騙った罪は、軽くはない。だが、神を騙ろうとした者たちを暴いたのも、そなただ。……神殿からの永久追放と、そなたの育った孤児院での奉仕を命じる。期限は、定めぬ」
神殿には、もう二度と戻らなくていい。孤児院で、ずっと暮らしていい。
罰の形をした、わたしがいちばん欲しかったものだった。
「……謹んで、お受けします」
孤児院の屋根が直ったのは、それからしばらくしてのことだった。
大司教様の私室から出てきたお金で、孤児院を修理することができた。
塔から戻った先代の聖女様の名前を、わたしは一度で覚えた。
彼女の名はマリエ。
マリエさんは今、ここで子どもたちの髪を編んでくれている。
屋根の上で金槌を振るっていたのは、騎士をあっさり辞めたローランだ。
聖女がいないのに、聖女付きの護衛騎士はいらない。
ある朝、大工道具を担いで門の前に立って、雨漏りを直しに来た、とだけ言ったのだ。
最後の瓦を打ちつけて、ローランが梯子を下りてきた。
もう咳をしていないトマが、誰よりも大きな声ではしゃいでいる。
ローランは、わたしの前に立った。
いつもの無愛想な顔なのに、耳が赤い。右手を握ったまま、背中に隠している。
「……手品を、ひとつ見てくれ」
彼は、わたしの耳の後ろに手を伸ばした。
握った指の隙間から、銀色のものがはっきり見えていた。
毎晩銅貨で練習していたくせに、ちっとも上手くなっていない。
指が開いた瞬間、銀の指輪がぽろりとこぼれ落ちた。
「あ」
二人同時に声が出た。
子どもたちが、落ちたー、と大はしゃぎする。
真っ赤になって指輪を拾い、土を払ったローランは、観念したようにわたしの前に片膝をついた。
紫の石なんかついていない、飾りのない銀の指輪だった。
「……俺と、結婚してくれ」
ずるい、と思った。
あんなに下手な手品のあとで、そんなに真剣な顔をするなんて。
胸の奥がぎゅうっと痛くなって、目の前がぼやける。
わたしは両手で口を覆って、思いきり目を丸くしてみせた。
「すごい……どこから出てきたの?」
声が震えた。涙も、勝手にこぼれていた。
驚いたふりをしたのは、生まれて初めてだった。
種が丸見えでも、胸が跳ねたのは本物だった。
「……もちろん、喜んで!」
泣き笑いのまま、わたしは左手を差し出した。
手品は、人を笑わせるためのもの。傷つけるためのものじゃない。
それが、わたしの決まりだった。
今日から、もうひとつ足そうと思う。この人の下手な手品には、一生、ちゃんと驚いてあげること。
【終】




