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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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偽聖女として三年がんばりましたが、そろそろ辞めたいので、自分の化けの皮は自分で剥がします 〜ついでに私を担ぎ上げた大司教様と王太子殿下も道連れです〜

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/10/16

奇跡の最中に、袖の中で花がすべり落ちていく。


まずい、と思ったときには、白い花びらが手首をくすぐって、袖口からこぼれかけていた。


大聖堂を埋めた何百という目が、祭壇に立つわたしの両手を見つめている。


心臓が、喉もとまでせり上がった。


この花が落ちたら終わりだ。

三年かけて塗り固めてきた嘘が、たった一輪の花のせいで崩れてしまう。


そのとき、背後で誰かが動いた。


護衛騎士のローランだった。


わたしが聖女になった日から、三年間ずっとそばに付いている聖女付きの騎士だ。

いつも祭壇の段の下に控えていて、無愛想で口数が少なく、必要なこと以外はほとんど話さない。


いつの間にか段を上がった彼が、衣の乱れを整えるような仕草で、わたしの袖口を押さえる。

こぼれかけた花は、大きな指に押しこまれて袖の奥へ戻った。


吐く息が震えないように、お腹に力を入れた。

いつもの笑顔を貼りつけて、両手をゆっくり開く。


そうすると何もないはずの手から、白い花があふれ出した。


わあっ、と歓声が上がる。

最前列の男の子が、口をぽかんと開けて花びらを見上げていた。


この顔を見るときだけは、少しうれしい。

市場で銅貨を消していた頃から、わたしはこれが見たくて手品をしてきた。



「さすが聖女様!」「今日の奇跡もすごいなあ」


これは奇跡でも何でもない、ただの手品だ。

でもこの手品を、大司教様は聖女の奇跡と謳って人を集めている。


わたしは聖女なんかじゃない。


先代の聖女様が亡くなった神殿に、大司教様が市場から拾ってきた孤児院育ちの娘。

それがわたしだ。十六の春からこの仕事を始めて、もう三年になる。


正直、そろそろ辞めたい。

でも、辞めたいと言った聖女がどうなるのか、わたしは知らない。


祭壇を下りるとき、すれ違ったローランは、いつもの無愛想な顔で何も言わなかった。





中庭では、もう札売りが始まっていた。


長机に積まれた加護札には、わたしの名前が金の字で刷ってある。

一枚で銀貨一枚、下町の家なら何日分ものパン代だ。そこに並んでいるのは、継ぎは当たっていても、きれいに洗った服の人たちばかりだった。


何の力もない紙だと、一番よく知っているのはわたしだ。

見るたびに、胸が苦しくなる。


列の脇では、大司教グレゴール様が人々に手をかざしていた。

金糸の法衣に、親指の爪ほどもある紫の石の指輪。その顔には、慈悲深い笑みが浮かんでいる。


その列を割って、痩せた女の人が飛び出してきた。

その手には、くしゃくしゃの加護札が握りしめられていた。


「大司教様……っ。この札があれば、あの子の熱は下がるって……薬代を、札に回したんです。なのに、あの子は……」


声が裂けた。女の人は、法衣の裾にすがりついた。


「どうして、あの子は死んだんですか!」


中庭が、しんと静まった。

耳の奥で、自分の心臓だけがどくどく鳴っていた。


大司教様は、少しも笑みを崩さなかった。


「それはお気の毒に。ですがご婦人、加護は信じる者にこそ届くのですよ。……信心が足りなかったのでしょうな」


昼下がりの天気の話でもするような声だった。


「次のお子のためにも、もう一枚お求めなさい。今度は二枚お持ちになるとよろしい」


女の人の顔から、表情がすとんと抜け落ちた。


大司教様が指先を動かすと、神殿兵が彼女の両腕をつかんで引きずっていった。その手から落ちた札が、わたしの名前を上にして、石畳に貼りついた。


駆け寄って、ごめんなさいと言いたかった。

でも、本当のことを口にした瞬間に孤児院がどうなるか、わたしは知っていた。


唇を噛んで横を見ると、ローランが女の人の背中を見送っていた。

顎の線が、石みたいにこわばっていた。



その夜、わたしは大司教様の書斎に呼ばれた。


葡萄酒の匂いがむっと押し寄せる中、暖炉の前の椅子に、王太子ジュリアン殿下が脚を組んで沈みこんでいた。

聖女は王太子の婚約者になるという古い約束のせいで、わたしの婚約者ということになっている方だ。


「来たか、拾い物」


殿下は、わたしを見もしなかった。


脇で葡萄酒を注いでいた少年の侍従が、一滴を殿下の袖に跳ねさせた。

次の瞬間、銀の杯が少年の額に飛んでいた。


「下がれ。目障りだ」


よろめき出ていく少年を、わたしは見ていることしかできなかった。

握った手のひらに、爪が食いこんだ。


「リラ。次の大祭で読む神託が決まりました」


机の向こうから、大司教様が紙を差し出した。



『公爵令嬢エリザベートは魔女なり。北の修道院塔へ送るべし』


その紙に書かれている文を読んだ途端、身体がすっと冷えていく。


エリザベート様。

宰相閣下のひとり娘で、わたしが聖女になるまで、殿下の婚約者だった方だ。


魔女と告げられた者は、弁明も許されずに、雪に閉ざされた北の塔へ送られる。

戻ってきた人を、わたしは知らない。


「エリザベート様が……何を、なさったんですか」


「殿下の軍資金の行き先を、宰相閣下にご報告なさるおつもりだったとか」


大司教様が楽しげに目を細め、殿下が鼻で笑った。


「宰相がわめこうが、父上が渋い顔をしようが、神託は覆らん。賢しらな女は、塔で一生祈っていればいいさ」


「……できません」


「わたしの手品は、人を笑わせるためのもので……傷つけるためのものじゃ……」


殿下がようやくこちらを見て、腹を抱えて笑い出した。


「手品!聞いたか大司教、こいつは自分を手品師だと思っているぞ」


立ち上がった殿下に、手首をつかまれた。

骨がきしむほどの力だった。


「お前は、大司教が市場で拾った道具だ。道具は、言われたとおりに鳴ればいい」


手を放すと、殿下は手袋を外して床に放った。


「汚い脂がついた。捨てておけ」


頬が、かっと熱くなった。喉の奥が、焼けるように痛かった。



大司教様が机を回りこみ、指輪を付けた手でわたしの顎をつかんだ。

紫の石が、頬骨に冷たく食いこむ。


「お前の育った孤児院は、まだあの崩れかけた屋根のままでしたな。異端の巣として取り潰すのは、容易いこと……冬の路地で子どもが何人生き残るか、試してみますか」


息が止まった。


「お前の前にも、一人いたのですよ。聖女をやめたいと泣いた娘が。名前は……はて、何だったか……」


大司教様は少し考えた後、ふっと笑った。


「忘れました。今も北の塔にいるはずですよ。生きていれば……ですがね」


足もとの床が、ぐにゃりと柔らかくなった。


亡くなったと聞かされていた先代の聖女様は、わたしと同じように拾われて、袖に花を仕込んでいた女の子だったのだ。

その名前を、この人はもう覚えてもいない。


「わ……わかりました」


「よろしい」


差し出された右手の前に、わたしは膝をついた。

それは毎晩の決まりだった。紫の石に唇を押し当てると、冷たくて、香油の匂いがした。


机の端に、黒い帳簿が開いたままになっていた。

挟まれた覚え書きの一枚が、わたしの袖のすぐ先にはみ出している。


気がついたときには、手が動いていた。


市場で覚えた、悪い癖だった。



書斎の扉を閉めかけたとき、中から声が漏れてきた。

わたしは、その場から動けなくなった。


「殿下、神託の文面も、事が済んだあとの始末も、殿下のお手で一筆いただけますかな。あとで私ひとりに罪をかぶせられては、敵いませんのでな」


「ふん、坊主のくせに用心深いことだ。……前夜祭の夜会で渡す」


殿下が、あくびまじりに続けた。


「それと、神託を読ませたら、あの偽聖女も先代と同じく塔へやって、死んだことにしておいてくれ。ついでに孤児院も潰せ。孤児が何人消えようが、誰も困らんだろう?」


「ええ、わかりました。次の娘には、もう目星をつけてありますから、代わりはいくらでも」


両手で口を押さえて、崩れそうになる体に必死で力を入れた。


廊下の角に、ローランが立っていた。

黙って歩き出した彼の拳は、白くなっていた。



翌日は、孤児院への慰問の日だった。


門をくぐると、湿ったかびの匂いが鼻をついた。

礼拝室の床に桶が並び、雨だれがぽたん、ぽたんと鳴っている。


隅の寝台では、小さなトマが湿った毛布にくるまって咳きこんでいた。


「神殿からの寄付は、この冬もほとんど届いていないんですよ。でも、幸いなことに、パンが切れたことはないの。こちらの名乗らないお嬢様が、毎月お代を置いていってくださって」


院長のベルタ先生が、隈の濃い目で奥の部屋を指した。


灰色の地味な服の女の人が、子どもたちに石板で字を教えていた。

その横顔に、わたしは立ちすくんだ。


それはエリザベート様だった。

宮廷で遠くから何度も見た、いつも背筋を伸ばして、にこりともしない方。


彼女はわたしに気づくと、すっと表情を消して立ち上がった。


「聖女様。寄付金がここへ届いていないことを、まさかご存じなかったわけではありませんわね」


何も言い返せなかった。

わたしの名前で札が売られているのだ。大司教様の仲間だと思われて当然だった。


それでもエリザベート様は、咳きこむトマの前に膝をついて、手巾で口もとを拭ってやった。その手つきだけは、ひどく優しかった。


「わたくしがここへ来ていることは、どなたにもおっしゃらないでくださいませ。殿下のお耳に入れば、ここが困りますので」



帰りの馬車で、わたしは泣いた。


声を殺そうとしても、しゃくりあげるたびに喉がひくっと鳴った。

握りしめた手の甲に、涙がぼたぼた落ちた。



ここで子どもたちに銅貨の手品を見せて暮らせたら、それだけでよかったのに。


あの人を、わたしの声で塔へ送るの?トマに、雨漏りの下で咳をさせたまま?



お腹の底から、熱いものがせり上がってきた。

悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか。きっと、ぜんぶだ。




……聖女なんか、辞めてやる。



でも、黙って逃げたら次の娘が拾われるだけ。

わたしの声が神託になるというのなら、わたしの声で、本当のことを読んでやる。


書斎で抜き取ったあの覚え書きが、役に立つかもしれない。



その夜、部屋の前でローランを呼び止めた。

手のひらが汗ばんで、何度も口を開いては閉じた。


「昨日は、花をありがとう。あの……わたし、聖女を辞めたいの。本当は、聖女なんかじゃなくて——」


「手品だろ」


ローランは、窓の外を見たまま言った。


「そんなの最初から知ってたさ。近くで見たらわかった。最初の奇跡の日、祭壇の裏に花が一輪落ちてたんだ。ああ、次の朝…きちんとあんたの衣装箱に戻しておいたさ」


わたしは、ぽかんと口を開けた。

わたしが感じていた違和感は、昨日だけじゃなかったのだ。


一輪足りなくて夜通し探して、翌朝なぜか衣装箱にあった花。

ずっと、自分の数え間違いだと思っていた。



「……なんで、黙ってたの」


「あんたの奇跡で笑うやつはいたが、泣くやつはいない」


ローランが、ようやくこちらを向いた。


「札を売ってるのは大司教だ。悪いのはあんたじゃない」


何かが、ぷつんと切れた。


視界がぐにゃりと歪んで、涙が止まらなくなった。


嘘がばれてしまうと不安で、夜中に何度も目が覚めたこと。

偽物の札を買っていく人たちの背中。

昼間の女の人。床に放られた手袋。

名前も覚えてもらえなかった、先代の聖女様。


子どもみたいに泣くわたしの前で、ローランはおろおろと手を上げ下げして、結局、不器用にわたしの頭に手のひらを乗せた。


それは大きくて、硬くて、あたたかい手だった。



泣きやんでから、わたしは袖からあの覚え書きを出した。


「殿下が大司教様に渡す一筆と、これ。二つそろえば、あの人たちが何をしてきたか、大祭でみんなに見せられる。一筆は、夜会で殿下の上着から抜くわ。それから最後に、わたしの種明かしも、わたしがする」


「……危ないぞ」


「わたしは手品師よ。人のポケットから物を抜くのは、市場でさんざん練習したんだから」


涙でぐしゃぐしゃの顔で笑ってみせると、ローランがふっと息を吐いた。



「……俺は、何をすればいい」


「祭壇で、わたしが読み終わるまで、誰にも邪魔させないで」


大祭までの夜は、段取りを練って過ごした。

息抜きに銅貨の手品を教えてみたけれど、ローランの大きな手の中で、銅貨は少しも消えてくれない。


指の間からこぼれて、寝台の下へ転がっていく。


「……難しいな」


寝台の下に腕を突っこんだまま真顔で言うから、わたしはお腹を抱えて笑った。笑いすぎて、泣いたときとは違う涙が出た。


それから毎晩、ローランは銅貨を一枚持って帰るようになった。




大祭の前夜、王宮で前夜祭の夜会が開かれた。


見せ物の踊りが始まるなり、殿下はわたしの指を握りつぶすように力をこめて、耳元で囁いた。


「笑え。皆が見ている。……明日はしくじるなよ、拾い物。読み終えたら、お前の役目もおしまいだ」


それがどういう意味か、わたしは知っている。

知っているから、にっこり笑った。


「はい、殿下。精一杯、務めさせていただきます」


殿下は右利きだ。紙をしまうなら、上着の左の内側。

体を回すたび、そこがわたしの右手の前を通る。


一度目。二度目。三度目に殿下の体が大きく傾いた瞬間、わたしの指先は上着の合わせ目に滑りこんでいた。


折りたたんだ紙を二本の指で挟んで抜き、袖に仕込んだ同じ大きさの白紙を落としこむ。


心臓の音が、楽団の音楽より大きく聞こえた。

殿下は退屈そうに、シャンデリアを見上げていた。


曲が終わると、殿下は広間の隅で、上着から出した紙を大司教様に押しつけた。


大司教様は、それを開かずに法衣の懐へしまった。

夜会のあと、大司教は司祭たちと聖堂で夜通し祈るしきたりだ。人前で、密書は開けない。


それでも、あの白紙が開かれたら全てが終わる。



大祭の朝、人で埋まった大聖堂に、ステンドグラスの光が赤や青のまだらを落としていた。


正面の高い席に、国王陛下とジュリアン殿下。

貴族の最前列には、宰相閣下とエリザベート様が並んでいた。


人垣の中に、中庭で引きずられていったあの女の人の顔も見えた。


祭壇で、大司教様が封蝋の巻物をわたしの手に握らせた。

顔には慈悲深い笑み。唇だけが、わたしにしか聞こえない声で動く。


「しくじれば、今夜のうちに孤児院が燃えますよ」


懐の紙を、この人はまだ開いていないようだった。

開いていれば、わたしは今ここに立っていない。


わたしは、にっこり笑ってうなずいた。

段の下には、いつもより半歩近くにローランが立っている。


封蝋を割った。

指先が冷たくて、自分の指じゃないみたいだった。


でも、人前で手品をしくじったことは一度もない。

ローランに拾ってもらった分を除けば。



巻物を広げる動きにまぎれて、巻物は袖の中へ。

袖の中の紙は、両手の中へ。


大聖堂じゅうの目の前で、誰ひとり気づかなかった。


「神託を、告げます。……大司教グレゴールへ」


隣で、大司教様の喉がひゅっと鳴った。指輪の手が、わたしの紙へ伸びてくる。


その手首を、横からつかんだ手があった。

段をひと息に上がってきたローランだった。


「お下がりください、大司教様。聖女様の神託の最中です」


大司教様の顔から、笑みが消えた。


わたしは、読み続けた。


「大祭の神託は、次の文面のとおりに記せ。『公爵令嬢エリザベートは魔女なり。北の修道院塔へ送るべし』」


最前列で、宰相閣下が腰を浮かせた。

その袖を、青ざめたエリザベート様の指がぎゅっとつかんでいる。


「あの女が軍資金の件を宰相に知らせる前に、片をつけろ。神託を読ませたのちは、偽聖女は先代と同じく塔へ送り、死んだことにせよ」


偽聖女。その三文字を、わたしは自分の声で読んだ。


「孤児院は潰せ。孤児が何人消えようと、誰も困らん」


最後の一行は、顔を上げて読んだ。


「王太子、ジュリアン」


大聖堂が、しんと静まり返った。


誰かの咳をきっかけに、ひそひそ声が波のように広がり、大聖堂じゅうを揺らすどよめきになった。


「黙れ! その女を祭壇から引きずり下ろせ!」


殿下が、椅子を蹴って立ち上がった。


「ジュリアン、座れ」


隣の席から、国王陛下の低い声が落ちた。

それだけで、どよめきがすうっと引いていく。


「聖女よ、その紙をこちらへ」


ローランが運んだ紙を、陛下は長いあいだ見つめていた。


「父上、それは偽物です!誰かが私の字を真似て——」


「余は、そなたが初めて筆を持った日から、そなたの字を見てきた。……宰相」


震える手で紙を受け取った宰相閣下が、かすれた声で答えた。


「殿下のご筆跡に、相違ございません」


殿下の唇が、わなわなと震えた。

視線が、大司教様へ泳ぐ。


「大司教です、父上! その女と…大司教がそそのかしたのです!」


「軍資金の穴を埋めてくれと泣きついてこられたのは、殿下のほうではございませんか!」


「黙れ、この強欲坊主が!」


「強欲はどちらです!毎月毎月、誰の尻ぬぐいをしてきたと!」


満座の前で、王太子と大司教が罪をなすりつけ合う。

貴族席の誰かがたまらず吹き出し、その笑いが冷たい嘲りになって広がっていく。


「へ、陛下! その紙が何であれ、本物の神託は私が封をした巻物にございます。まずはそちらを——」


我に返った大司教様の目が、祭壇の上を探した。巻物は、どこにもない。


わたしは、袖から巻物を抜き出した。


「こちらですか」


大司教様の顔が、紙のように白くなった。


巻物を受け取った陛下が、殿下の紙と並べる。


「……一字一句、同じだな」


「陛下、もう一枚ございます」


わたしは、帳簿の覚え書きを差し出した。

陛下が、低い声で読み上げる。


「加護札、売り上げ。王太子、賭場払い。……孤児院寄付金。大司教私室」


「あの札の、お金で……」


人垣の中から、かすれた声が上がった。

中庭で引きずられていった、あの女の人だった。


「あの子の薬の代わりに買った札のお金で……賭け事を……っ」


最後は、ほとんど悲鳴だった。


誰かが、手にしていた加護札を祭壇へ投げた。一枚。また一枚。次の瞬間には、何百という札が宙を舞っていた。


わたしの名前を金の字で刷った紙が、ステンドグラスの光を受けて、雪のように大司教様と殿下の上へ降りそそいだ。



まだ、ひとつ残っている。


膝が、がくがくと震えた。三年間、ずっと隠してきたことだ。


段の下で、ローランが小さくうなずいた。

それだけで、足の震えが少しおさまった。


わたしは祭壇を下り、人垣の中のあの人の前で立ち止まった。


「ごめんなさい。その加護札は、ただの紙です」


袖を裏返す。仕込みの花が、ぱらぱらと足もとに落ちた。


「わたしは、聖女ではありません。この三年の奇跡は、全部手品です」


人垣が、ざわっと息をのんだ。

そばにいた小さな男の子が、足もとの花を拾い上げる。


「じゃあ、この花、お姉ちゃんが出してたの? すげえ」


わたしは振り返り、祭壇の上の大司教様を見上げた。


「市場で銅貨の手品をしていたわたしを拾って、袖に花を仕込む練習をさせたのも、作った神託を読み上げるように指示していたのも、大司教様です」


「で、でたらめだ!私も騙されていたのです!」


「騙されていた方が、わたしの名前で札を刷って、そのお金を私室へ運ぶのですか?」


大司教様の口が、ぱくぱくと動いた。何も出てこなかった。


わたしは、立ち尽くす殿下の前まで歩いていった。


「殿下。最後に、手品をひとつだけ」


殿下の耳の後ろに手を伸ばし、指を引く。


そこには、いちばん安い銅貨が一枚あった。

わたしはそれを、殿下の手のひらに載せた。


「孤児が何人消えても誰も困らないと、殿下はお書きになりました。殿下にとって、わたしたちの値打ちは、きっとこのくらいだったんでしょうね。……お返しします」


殿下の手のひらで、銅貨がかたかたと鳴った。手が、震えているのだ。


陛下が、ゆっくりと立ち上がった。


「ジュリアン。神託を偽り、宰相の娘を陥れようとし、民の施しで賭場の借りを払った。この場で王太子の位を剥ぎ、北の修道院塔へ送る。……お前がエリザベートのために用意した場所だ。お前が使え」


殿下の膝が、床に落ちた。


「ち、父上、お待ちください!」


殿下は這うようにして、エリザベート様の足もとにすがりついた。


「エリザ、頼む、取りなしてくれ!俺たちは婚約者だっただろう!」


エリザベート様は、静かに裾を引いた。


「それだけ憎いから、わたくしをあの塔へ送りたかったのでしょう?その汚い手で、わたくしに触れないでくださいませ」


それきり、彼女は殿下を見なかった。

近衛兵に引きずられながら、殿下はわたしに向かってわめいた。


「孤児風情が……お前のせいだ!」


ローランが、わたしの前に一歩出た。

殿下の視線は彼の背中にさえぎられ、わめき声は扉の向こうへ遠ざかって、消えた。


「大司教グレゴール。神託を偽り、聖女を偽り、施しを盗んだ。法衣を剥いで牢へ。加護札の金は、一枚残らず買った者たちへ返させる。その者の手で塔へ送られた者は、すべて呼び戻す」


神殿兵が、ついさっきまで仕えていた男の腕をつかんだ。

金糸の法衣が、肩から引き剥がされる。


指輪を抜かれまいと大司教様が暴れ、紫の指輪が床を転がって、わたしの足もとで止まった。


三年間、毎晩口づけさせられた指輪だった。


わたしは、それを拾わなかった。


「リラ!拾ってやった恩を忘れたか!私がいなければ、あの孤児院など——」


「大丈夫です。あなたがいなくなれば、寄付はちゃんと届くようになりますから」


大司教様の口は、何か言いかけたまま、扉の向こうへ消えた。


床一面に、わたしの名前の札が散らばっていた。


「そして、聖女を名乗った娘よ」


陛下の目が、わたしに向いた。

わたしは、両手を前にそろえて差し出した。


「はい。わたしも、相応の裁きを受けます」


声は、もう震えていなかった。

震えていたのは足のほうで、ぷつりと糸が切れたように体がかしいだ。


床にぶつかる前に、ローランの腕が抱きとめてくれた。


「……よく、やった」


耳もとでそう言われて、また涙が出た。



裁きの日、わたしは孤児院にいた頃と同じ麻の服で、王宮の広間に立った。


証人に立ったエリザベート様は、この方がいなければ自分は今ごろ北の塔の中だったと陛下に告げ、それからわたしに向き直った。


「孤児院での非礼を、お詫びしますわ」


にこりともしないはずの方の口もとが、ほんの少しゆるんでいた。


「神を騙った罪は、軽くはない。だが、神を騙ろうとした者たちを暴いたのも、そなただ。……神殿からの永久追放と、そなたの育った孤児院での奉仕を命じる。期限は、定めぬ」


神殿には、もう二度と戻らなくていい。孤児院で、ずっと暮らしていい。

罰の形をした、わたしがいちばん欲しかったものだった。


「……謹んで、お受けします」




孤児院の屋根が直ったのは、それからしばらくしてのことだった。


大司教様の私室から出てきたお金で、孤児院を修理することができた。


塔から戻った先代の聖女様の名前を、わたしは一度で覚えた。


彼女の名はマリエ。

マリエさんは今、ここで子どもたちの髪を編んでくれている。


屋根の上で金槌を振るっていたのは、騎士をあっさり辞めたローランだ。


聖女がいないのに、聖女付きの護衛騎士はいらない。

ある朝、大工道具を担いで門の前に立って、雨漏りを直しに来た、とだけ言ったのだ。


最後の瓦を打ちつけて、ローランが梯子を下りてきた。

もう咳をしていないトマが、誰よりも大きな声ではしゃいでいる。


ローランは、わたしの前に立った。

いつもの無愛想な顔なのに、耳が赤い。右手を握ったまま、背中に隠している。


「……手品を、ひとつ見てくれ」


彼は、わたしの耳の後ろに手を伸ばした。

握った指の隙間から、銀色のものがはっきり見えていた。


毎晩銅貨で練習していたくせに、ちっとも上手くなっていない。


指が開いた瞬間、銀の指輪がぽろりとこぼれ落ちた。


「あ」


二人同時に声が出た。

子どもたちが、落ちたー、と大はしゃぎする。


真っ赤になって指輪を拾い、土を払ったローランは、観念したようにわたしの前に片膝をついた。


紫の石なんかついていない、飾りのない銀の指輪だった。


「……俺と、結婚してくれ」


ずるい、と思った。

あんなに下手な手品のあとで、そんなに真剣な顔をするなんて。


胸の奥がぎゅうっと痛くなって、目の前がぼやける。

わたしは両手で口を覆って、思いきり目を丸くしてみせた。


「すごい……どこから出てきたの?」


声が震えた。涙も、勝手にこぼれていた。


驚いたふりをしたのは、生まれて初めてだった。

種が丸見えでも、胸が跳ねたのは本物だった。




「……もちろん、喜んで!」


泣き笑いのまま、わたしは左手を差し出した。


手品は、人を笑わせるためのもの。傷つけるためのものじゃない。

それが、わたしの決まりだった。


今日から、もうひとつ足そうと思う。この人の下手な手品には、一生、ちゃんと驚いてあげること。



【終】

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