始まりは一杯のコーヒーから
ザザァン…
白い砂浜に波が寄せては返っていく。太陽の光が海面を照らし、反射して煌めく。波の音に波打ち際に倒れていた凛は目を開けた。
「ここは…どこ…?」
砂浜を踏みしめる足音が響く。目の前に現れた男性に凛は目を見開く。揺れる尻尾。まるで本物の様に時折、ぴくりと動く猫耳。スーツを着た紳士的な男性が凛に近寄って来た。
「ああ、また人間が迷い込んだのか。お前さん、立てるかい?」
猫耳の男性が手を伸ばす。凛は戸惑いながらその手を借り、立ち上がる。
「あの…私、船で旅行中に嵐にあって…それで…」
(そうだ、思い出した。私、海に投げ出されたんだ)
凛の足元にボストンバックがあった。革製のバックには、ワッペンが沢山貼られている。
「うんうん、お前さんが戸惑うのも無理は無い。詳しい話は僕の喫茶店で話そうじゃないか。荷物を持っておいで」
男性が指差したのは、海辺の近くにある喫茶店だった。白い壁に青い屋根の喫茶店。看板には「ミラコスタ(海を眺める)」と書かれている。
(とりあえず、ここがどこか知りたい。ついて行ってみよう)
凛は迷いながら猫耳の男性について行った。喫茶店の中へ入る。窓の近くには光を浴びて揺れる鑑賞植物。ジャズが流れる店内には誰もいない。アンティーク調の机と椅子。どこか懐かしい雰囲気の喫茶店に緊張で強張っていた身体から力が抜ける。凛はカウンター席に腰掛け、白い猫耳の男性に向き合う。
「それで…お前さんはどこから来たんだい?」
「私は東京から来ました。あの、ここはどこなんですか?それに…その…」
(何で猫耳付けているんですか?とは聞けない…)
口籠る凛の前にコーヒーが置かれる。
「まずはこれでも飲んで落ち着くといい。何、代金は取らないさ。サービスだよ」
男性はウインクして明るい声で言った。湯気とコーヒーのいい匂いに少し気持ちが落ち着く。
「いいんですか?いただきます」
「砂糖はそこにある。ミルクはいるかい?」
男性が砂糖瓶を指差す。凛はミルクと砂糖を入れてスプーンでかき混ぜた。
「ここはお前さんの知る世界では無い。獣人が支配する世界さ。人間はここではペットとして飼われる」
スプーンをかき混ぜる手が止まった。
「は!?今、聞き捨てならない言葉が聞こえたんですけど!?」
「信じがたいだろうが本当だ」
凛は深呼吸してから男性の言葉を待つ。彼の青い瞳が宥める様に凛を見つめて細められる。
「お前さんはもし、震えている子猫が1匹でいたらどうする?」
「保護しますかね」
「それと同じ感覚なのさ。この世界の獣人からしたらね」
彼はそう言って肩をすくめた。
「じゃあ、貴方も…?」
「お前さんを放っておけなかったのは本当さ。でも、僕はもう人間を飼うつもりは無いよ」
彼はそう言って写真立てに目を向ける。そこには彼と老人が写っていた。
「奴とは趣味が合ってね。一緒に酒を呑んだり、将棋を指したりした。…けど、寿命で僕を置いて先に逝ってしまった。だから僕はもう、人間を飼うつもりは無いんだ」
その声には懐かしむ様な、愛しさと悲しみが滲んでいた。
「そうだったんですね…すみません、私…」
「いや、お前さんが謝ることじゃないさ。湿っぽい話をしたな」
切り替える様に笑顔になり、男性は言った。
「この世界に迷い込んだ人間は、元の世界に帰るか、ここで暮らすかのどちらかなんだが…お前さんはどうしたい?」
「私は…帰りたいです」
凛の言葉に男性は頷く。
「だが、帰るには特別な手順を踏む必要がある。満月の日に王宮にある扉を潜れば帰れる。だが、人間は見つかれば保護されてしまう」
「そんな…どうしたら…」
男性が胸を張る。
「実は僕は喫茶店と探偵を仕事にしていてね。お前さんの依頼を受けるよ」
凛は目を輝かせ、身を乗り出す。
「いいんですか!?助かります!…でも私…この世界の通貨を持ってなくて」
「それなら、ここで働くってのはどうだい?満月まで後二週間あるからね」
「二週間…分かりました!」
凛が頷くと、彼は店の裏に戻り、何かを出して来た。
「人間であることがバレない様、これを付けなさい」
「ね、猫耳カチューシャ…」
凛は受け取り、頭に付ける。
「後、それからこのコロンも。獣人は鼻が効く。匂いで人間だとバレるからな」
コロンを振りかけられる。ふわっといい香りが鼻をくすぐる。
「ありがとうございます。これからよろしくお願いします!」
彼の目尻が優しく下がる。
「ああ、僕の名前はスイだ。短い間だが、よろしく頼む」
こうして、凛の不思議な世界での生活が始まった。
「凛、すまんが買い出しに行ってくれるかい?」
「はーい!行って来ます!」
凛はスイに返事をして裏口から出る。あれから数日、凛はこの世界に馴染んでいた。それはスイの影響が大きい。
「え〜と、メモメモ…」
凛はメモを見ながら大通りを歩く。屋台が並び、獣人達で賑わっている。
「すいません、リンゴを三つ」
「はいよ」
艶々光るリンゴを受け取り、凛は石畳の道を歩く。
「わっ、すいません!」
獣人とぶつかり、凛は慌てて頭を下げた。ぶつかった獣人は体格の良い犬耳と尻尾の男だった。
「テメェ…どこ見て歩いてんだ。その目は飾りか?えぇ?」
低い声で男が唸る。凛は青ざめた。
(ど、どうしよう…!怖い人にぶつかっちゃった…!)
凛は震えながら後ずさる。
「す、すみませ…」
「謝って済むなら警察はいらねぇよなぁ!?」
「ひっ!?」
凛の肩が跳ねる。その時、路地裏から黒い影が現れた。しなやかな動きで凛達の前に姿を見せる。
「おい、カタギに手ェだすなっつっただろ」
現れた黒い尻尾の男性に男が目を見開く。
「ボ、ボス…!」
「言ったことも守れねぇのか」
黒豹の獣人は不機嫌そうに尻尾を揺らす。肩にジャケットをかけ、シャツの襟を緩めている。金色の鋭い目が男を射抜く。
「す、すいやせん!」
「謝って済むなら警察も、使えない駒もいらねーんだよ」
地面を蹴った黒豹の獣人が空中で男を回し蹴りする。男が地面に倒れるのと同時に、男性も着地した。
「あ…」
凛が思わず声を漏らすと、彼の黒い耳がピクリと動く。
「あ?まだ居たのか」
凛の肩が震える。後ずさるが、壁に阻まれた。
「…ん?お前…」
「へ!?」
男性がぐっと顔を寄せる。くん、とすぐ近くで匂いを嗅がれた。
「…人間の匂いがしたと思ったが…気のせいか」
男性の身体が離れる。
(…!この人、危険だ。これ以上近くに居たら人間だってバレるかも)
凛の本能がこの男は危険だと警告する。その時、男性がふらついた。
「…チッ、また偏頭痛が…」
頭を押さえて男性が呟く。よく見ると彼の目元に隈がうっすらとあった。
「あ、あの…大丈夫ですか?」
「あ?」
金色の目で睨まれる。
(しまった!思わず声かけちゃった…!)
凛はパニックになりながら慌てて話す。
「心配になって…あ、いや!すみません、急に…」
「…変な奴だなお前。さっきまで震えていたくせによぉ」
男性が呆れた様に凛を見る。ため息をつくと、彼は手を伸ばして紙袋の中に入っていたリンゴを一つ掻っ攫っていった。
「助けた礼にこれはもらっていく」
意地悪く笑ってそう言った彼はもう興味を無くしたかの様に背を向けて去って行く。リンゴを齧りながら。
「あ!り、リンゴ…!」
凛はリンゴを盗られたことに項垂れた。その後、喫茶店に戻った凛は先程起こった事をスイに話した。
「ふぅむ。その黒豹の獣人はチェスかもね。マフィアのボスさ」
「マ、マフィア!?」
紙袋を受け取り、スイは頷く。
「ああ、この辺りを支配してる。騎士団とは犬猿の仲さ」
スイはそう言って何やら考え込む。
「どうしたんですか?」
凛が首を傾げて問いかける。スイは首を振った。
「いや、彼の様子が少し引っかかってね。もしかしたら…彼は人間セラピーが必要な状態なのかも知れない」
「に、人間セラピー?」
初めて聞く単語に凛は戸惑った。スイは真剣な顔で頷く。
「ああ、アニマルセラピーって言うだろ。そんな風に彼も癒しが必要なんだろう。話を聞いた限り…彼は獣人としての本能が強いのかもしれんな」
凛はチェスの様子を思い出す。好戦的で凛の正体にも気づきかけていた。
「人間だと言うことはバレない方がいいだろう。囲われる可能性もある」
凛は青ざめながら頷く。
「ま、獣人は番にも執着するから惚れられない様にも気をつけた方がいいぞ」
「番…?」
凛が尋ねるとスイが説明する。
「人間で言うところの恋人…夫婦の方が表現として近いか。嫉妬深くなり、巣に閉じ込められることもある」
「巣に…?」
「僕らは自分の用意した場所に番を呼ぶんだ。その場所を巣と呼ぶのさ」
凛は納得して頷いた。
「なるほど。教えてくださってありがとうございます」
その時、店の扉が開き、来客の訪れを鈴が告げた。騎士団のバッチを付けたオオカミの耳と尻尾の男性が近寄って来る。彼のマントが揺れる。腰には剣を差していた。
「お、お前の彼女か?」
赤い瞳が凛の方を向き、スイに尋ねる。
「違う、違う。新しい従業員さ。喫茶店の仕事にも慣れて来たし…探偵の仕事の手伝いも任せてみようと思っているよ」
「探偵の仕事…どんなお仕事内容なんですか?」
凛の問いかけにスイは明るく答える。
「迷子のペット探しや恋人の浮気調査が多いな」
オオカミの獣人が笑って言った。
「今日はコーヒーを飲みに来た訳でも、依頼をしに来た訳でも無い」
彼は真剣な顔になる。
「実は数日前、人間がこの世界に来たと王宮お抱えの占い師が告げた。国王は保護すべきとお考えだ。もし、人間を見かけたら教えてほしい」
スイは笑顔で頷いた。
「もちろんさ」
「ああ、頼む」
彼はスイと凛に微笑みかけた。
「次はゆっくりコーヒーを飲みに来よう。では、失礼する」
そう言って彼は店を出て行った。
「今の人は?」
「オオカミの獣人で騎士団団長のアッシュだよ。真面目な男さ。この店の常連でもある」
「へぇ、そうなんですね」
凛は答えながら考える。
(この街にはマフィアと騎士団がいるんだ…)
凛の思考を読んだかの様にスイが言った。
「ちなみにここは中立さ」
(な、なんか…とんでもないところに来たのかも…)
凛は残りの数週間が不安になった。




