・ナナニ・ロイマー(レイネーレの舟渡し・女)の仕事について III
なかなかにぞっとした答えであったものの、居なくなる理由を聞くともっと怖いものがあった。
一言では言えないものらしいのだ。居なくなる理由が幾つもあるのだとか。
例えば、良い理由であれば、偶然良い金持ちに見初められて、奥方に納まったり、愛人関係になれるというものがあるらしい。
他にも、舟渡し以外の美味い商売を見つけたというのも、まあ良い方なのだとか。
ただし、そこは上手く行く行かないもあるだろうし、何とも言えないとナナニ・ロイマーは語っていた。その点は賛成である。
何はともあれ、舟渡しで無くなったのだから、顔を見なくなる。そういう理由も勿論、居なくなると表現出来るだろう。偶然、それが重なるというのも妙であるが、外野からはとりあえず祝福など送っておけば良いという話でしかあるまい。
一方、悪い理由で居なくなるというのも勿論ある。客が取れなくなって廃業とかだろうかと尋ねた我が輩であるが、ナナニ・ロイマーは、不思議とそれは無いと答えてくれた。
神掛かった舟渡しが客を取れなくなる事は無い。それ以外の理由で居なくなるのだと。
つまり、客と揉め事を起こしたり、組合との仲が悪くなるなどで、舟渡しを続けられなくなったという理由でだ。
この手の問題は、むしろ客を良く取れる様になってから発生するのだとか。
また、本当に、突然居なくなるという事もあるらしい。
昨日まで顔を見ていた同業者が、次の日、仕事用の小舟だけを残して居なくなる。そういう小舟はまだ使えるものが多く、目敏い組合が見つけて、新参に売り払ったりする事もあるそうだ。そうなって初めて、そういえば本来の小舟の持ち主である、あの娘を見なくなったと、他の舟渡しが気付いたりもする。
神掛かりが神隠しにでも繋がったかと冗談を言いたくなった我が輩であるが、真剣そうに語るナナニ・ロイマーの前では憚られた。嘘の話というわけでは無いとそれだけで分かる。
何らかの、恐ろしい事件にでも巻き込まれた可能性も考えているのだろう。単なる妄想でも無く、実例があるのだから尚更だ。
我が輩がそれを考えた時、ナナニ・ロイマーも同じ考えに至った様子である。
ここで書いておこう。殴殺ボニー事件についてだ。
現在、北方のレイネーレから南方のナンニシアに至るまで、知らぬ者がいれば余程の世捨て人か物知らずと言えるくらいに、巷間にも広まった事件である。
事件はまさにレイネーレで起こっており、最初の犠牲者であるレイネーレの舟渡しボニー・スミルマの名前を借りてそう呼ばれている。
これも事件の名前通りであるが、ボニー・スミルマという舟渡しが、当人の小舟の上で撲殺されたのである。
ボニー・スミルマはまだ若く、またレイネーレの舟渡しの中では新参とされていた事から、ルール破りの仕事をしていた結果、怪しい客を取り、その客に寄って無残な姿へと変えられてしまった。などという噂は我が輩も聞いた事があるが、実態としては少し違うとナナニ・ロイマーは語ってくれた。
確かに若く、それで美人でもあったらしいボニー・スミルマであるが、怪しい客を取ってしまったというよりも、急に客入りが増えたのだという。さらに言えば、その前後に合わせて、妙な事を言い始めたのだとか。
曰く、川の正しい流れが分かってきただとか、人も川も一緒だとか、その手の良く分からない話を他の舟渡しにしてきたと思ったら、はっとした表情でなんでも無いなどと言い始める。
それらを見た周囲の舟渡しは、あれはもしや神掛かったかと噂し始めたそうだ。
頻繁にでは無いが、たまに見るという認識が舟渡しの間であったからか、それはそれだけで終わる話でもあった。
客を良く取る舟渡しという事で、同業者としては要警戒であったものの、神掛かった舟渡しは早い段階で消えていく。そういう話もされて来たから、ボニー・スミルマに対する敵愾心というのも大して無かったらしい。
事実として、ボニー・スミルマは舟渡しとしてはこの世から消え去る事になったわけだ。その命を失う形で。
レイネーレの舟渡しにとって、この様な事件は恐るべきものであるが、一方、ボニー・スミルマが犠牲になった事件というのも、神掛かりと同様に、多くは無いがあるという話も聞けた。
命を奪われるのはさらに稀であるが、客から暴力を振るわれる事とて、ままある事なのだそうだ。
レイネーレの舟渡しを続けられる人間というのは、顔立ちが良いとか話し振りが上等とかより先に、そういう客を避ける目があるかどうかであるとは、ナナニ・ロイマーの言である。
ナナニ・ロイマーもその類かと尋ねてみたわけだが、経験は積んでいるが、まだちゃんとした目がどうかは分からないと、意外に自信無く返してきた。
それもやはり仕方あるまい。殴殺ボニー事件が何故有名になったかと言えば、この事件はボニーだけの話では無く、複数名の舟渡しが犠牲になったからだ。
既に過去になりつつあるとは言え、事件を起こした凶悪な犯人と同じ様な者がまた現れ、その犠牲者にナナニ・ロイマーがならないとは限らない。不安になり、警戒している方が余程マシであろう。
それに事件とは関係無い形で、今後、ガラの悪い客は増えるだろうし、一方でそういう客を取っていかなければならない事情というのも今後はあるはずだ。剣呑な空気にも、いずれは慣れる必要があるとも、ナナニ・ロイマーは語ってくれた。
この手の仕事は、どうしたって大変である。そう以前から考えていた我が輩であるが、そんな心配をナナニ・ロイマーの前でしていると、ナナニ・ロイマーの方が笑ってきた事を憶えている。
今後、国全体が大変な事になろうと、レイネーレの舟渡しの客入りが悪くなる事は無い。それが唯一、この仕事の利点なのだから、心配されるのは御免だと言うのだ。
むしろ、我が輩の方が大丈夫かなどとすら聞かれた。
どうにもこのナナニ・ロイマー、我が輩の前職がどういう類のもので、また、今、その職を失っている事に気付いたらしい。
誓って言うが、ナナニ・ロイマーの話を聞き始めた時点で、我が輩とは初対面であった。向こうもそうだと言っているのだから、確かだろう。
だが、我が輩が話を聞いている間、ナナニ・ロイマー側も、我が輩を探っていたらしい。我が輩自身に探られた記憶は無いのであるが、それでも相手の短い言葉の裏から、相手の立場を察する技能というのが、レイネーレの舟渡しにはあるらしかった。
そうでなければ、客を気分良くする事なんて出来ないのだぞと言うのだ。
そんな目線から、ナナニ・ロイマーは逆に心配してきたのである。そちらは今後、大丈夫なのかと。
大きな世話だ。だが、一杯喰らわされたのは事実であろうから、その時は潔く負けを認めた。
素直に言ったのである。今後、どうなるかは分かったものでは無く、不安は不安だと。
今、この様に本を書いている我が輩であるが、これがどれだけの反響を呼ぶか、それとも、何の意味も無く、時代に埋もれていく類のくだらない本となるか。それは我が輩には分からぬ事である。
だが、素直にそれを吐き出してみたところ、不思議と心は軽くなった。そもそも、その様な言葉を吐き出せた事自体、やや驚きではある。
恐らく、これもまた、レイネーレの舟渡しの技能なのだろう。
身体を使ったあれやこれやは、レイネーレの舟渡しにとってあくまで一連の仕事の一つでしか無く、この様に相手を察し、何か凝り固まった物を吐き出させ、明日への活力へ繋げさせる事こそ、仕事の本分と言えるのかもしれない。
ある意味では、金銭を払っただけの対価を、向こうは見せてきたのだ。それだけの価値があったなと我が輩が言うと、ナナニ・ロイマーは笑い、今後もご贔屓にと返し、次の客を取るために舟を漕ぎ始めていた。
舟から降ろされた先にある水路沿いの道から、ナナニ・ロイマーの背中を見送っていると、それはもう随分と、美しさ以上に逞しさを感じさせられたものである。
レイネーレの舟渡しとは、ずっと昔からこの街に存在していた。この様な仕事がサントクマルク王国にはあるのだと我が輩が残さずとも、これからもまたこの仕事、生活、風景は続いていくのかもしれない。それこそ、遡るレイネーレの川が、ずっとそうであったのだから。




