・ナナニ・ロイマー(レイネーレの舟渡し・女)の仕事について II
あそこで商売を始める事は出来るが、客入りが少ない。あそこは仲の悪い組合の目がある。あの場所に客は居るだろうが、その質が酷いものになりがちだ等々。
舟渡しはレイネーレという街に対して向ける目が広いというか、驚く程に事情通なのだが、それくらいでなければ、金を稼ぐなど出来ないという事なのかもしれない。
そんなナナニ・ロイマーと我が輩が出会ったのも、ナナニ・ロイマーが考えに考えて場所取りをした、水道橋下の影。彩り豊かな小舟の先端を影から出しておくというのが、客寄せをしているという合図であるらしい。
ナナニ・ロイマーはそんな川に浮かべた舟に立ち、客を待つ。
直接金を払う段になる前に、その手の客が来る事が分かるとナナニ・ロイマーは豪語していた。
橋の下を覗き、ナナニ・ロイマーを値踏みしている客というのは、気付かれない様にしていても、見られる側は分かるのだそうだ。
そういう意味では、我が輩が近づいた時は、普通の客では無いと警戒したらしい。顔や身体をじろじろ見ないで近づいてくる客というのは、なかなか居ないという事だろう。
だから安心などと言える程に、ナナニ・ロイマー自身、世間を甘く見ていないはずだ。我が輩が警戒された事はそれで納得しておく。
仕事の内容や考え方、普段の生活を事細かに尋ねるだけの客というのも稀であろうし。
また、レイネーレの舟渡しなら誰でも良いという考えの元で近づいてくる客など、大半はろくでもない動機を抱えているはずで、我が輩もその手の人間かと思われたのだ。その点も残念ながら、理解出来る話であった。
ナナニ・ロイマーは幸運にも遭遇していないらしいが、後述する殴殺ボニー事件なども記憶に新しく、近寄ってくる相手に不用心になれないというのも仕方ないわけだ。
今ここで書いている様な話を聞き出すのにも時間が掛かり、一通り話を聞き終えるには一度では無く、二度ほど、彼女の客として金を出す必要があった。勿論、その手の行為抜きにしても正規の値段は取られた。
世間体の悪さというのは勿論気にはしたが、時代が時代なので、そこまで気にする必要も無かったかもしれない。
今の世の中においても、レイネーレの舟渡しという仕事は、客さえ選べば食っていける類の仕事であるわけで、我が輩一人が舟渡しの客として寄ったところで、何をどう言われる事もあるまい。
それに、レイネーレの舟渡しが扱う舟は、必ず小舟の上に色や絵で染められた布と木細工で作られた、外界の視線を遮る空間が配置されている。
さすがに男女のそういう行為を外に見せるなどという事は、どういう場所でも憚られるので、それを隠すのが決まりになっているのだ。
おかげと言うべきか、単に話を聞くための空間としても利用出来たし、誰かにそれを見られる事も無かったと思われる。
一旦客として小舟に乗った者は、まずその空間の内にある椅子へ座る。
金銭については先払い。払わない者はそもそもその椅子には座れない。
そうして、我が輩がそうであった様に、小舟の漕ぎ手である舟渡しとの会話が始まる。
ムード作りというものらしい。そういう行為を始める前に、擬似的に男女間の関係性というのを、その場で作ってしまう……と愚考するのであるが、我が輩とてその手のやり方に詳しくは無い。
さらに我が輩の場合は、艶っぽさの欠片も無い話を聞き続ける側であったため、作られていくムードとやらを体験する事すら出来なかった。
若い頃の無茶は良い経験になると訳知り顔で言うのは憚られるが、それはそれとして、我が輩自身の若き頃については、色々と冒険をしておけば良かったと思う。
この様な本を書く上で良い経験になってくれたであろう。正しく後悔というやつだ。
そんな我が輩の後悔ばかりの半生を、ここに書き綴るのは諸君の望むところでは無いだろうから、ナナニ・ロイマーの話しを続けよう。
舟に乗り、椅子に座り、続く会話の中でムードを盛り上げた後の話だ。
ナナニ・ロイマーだけの話では無く、こう書くのは何かおかしくもあるが、レイネーレで真っ当に舟渡しをしている者は、備えなければならない技能がある。盛り上がるムードと川の流れを合わせるという技能だ。
具体的には、その手の行為を始めるタイミングが必ず決まっているらしい。
レイネーレ川の支流では無く、街の中央を流れる本流へと向かい、さらに内地方向へと進んでいく。そのタイミングだ。
相応に広い川なので小舟が一艘、その上で隠れながら何かをしていても、特に目立たないという理由もあるらしいが、面白い話を聞けたのでここに書き残しておこう。
というのも、本流に至り、その手の行為をするというのは、ちゃんとした決まり事としてもあるらしい。
組合所属や個人の舟渡しのうち、真っ当に仕事をしている人間程に守っているという決まりだ。
聞いていると、ある種の信仰や宗教の様にも思えてくるが、ナナニ・ロイマー自身が特殊な神を崇めているという事も無い様子だった。
とにかく、行為には始めるタイミングや終わらせるタイミングへの決まりであり、多くの舟渡しはそれを守っている。守っていない舟渡しはろくでも無い舟渡し、いや、守っていないからろくでも無い舟渡しになるのだと、そう言うのだ。
理屈では無いのはまだ良いが、理屈では無いのに、それはルールとして確かにあり、それでも意味が明確化されていない事を、その時の我が輩は不思議に感じた。
例えば何かしらの神なり精霊なりがそうしろと命じているのだとなればまだ分かりやすいのだ。それへの信仰が決まり事を作り、守らせる恐怖や畏怖となる。
事実、ナナニ・ロイマー自身は信心深かった。舟渡しの多くもそうらしいが、何かしらの神への護符を持っていたり、印章なりを舟のどこかに刻んでいる。
ナナニ・ロイマーの場合、川の神であるキャンデラの印が意匠として用いられたアクセサリーで自らを着飾っていた。流線型で美しさもあり、実用と信仰を兼ねたものだろう。
舟渡しは体力がいる仕事であり、尚且つ明日の生活を常に気にする仕事であるから、信心深くもなってしまうという事だろう。自分は後ろ暗い事をしているという意識とてあるのやもしれない。
何はともあれ、舟渡し達の多くは、実際に神を信仰しているのだ。
だが、ある種のルールは、その神に起因するものでは無い。そこが妙でもあった。
信仰に根ざしていないならば何故、自らルールを守ろうとするのかという話である。
人というのは基本的に勤勉では無く、不真面目である。いらないと感じたものを何時までも残しておくには、相応の理由や強制力があるはずなのだ。
故に、皆がルールはルールだと思って、実際に守ってもいる場合、実際にそれが利益になっている、もしくはルールを破った場合の不利益が確かに存在するという話になるだろう。
我が輩がナナニ・ロイマーの話そっちのけでその事について考えていたところ、ナナニ・ロイマー当人からのサービスであったのか、さらに話を聞けた。
神様がどうとかでは無いが、古くからの信仰には繋がっているはずと言うのだ。
なんでも、レイネーレの舟渡しには時折、神掛かった者が現れるのだとか。一応、神掛かったと表現されたが、神様では無い。どちらかと言えば、心の平衡を崩した状態と言えば良いのか。
これはキツい仕事柄、あり得る症状の類では無いかと我が輩は思ったのだが、ナナニ・ロイマーもその事は否定せず、順序が逆だと注意してきた。
舟渡しの心がおかしくなるのではなく、古くはその様な人間がレイネーレの舟渡しとなったのだと。
レイネーレの周辺には、そういう精神の均衡を崩した人間が、他の地域よりは多く現れていたのではないかなどと、らしくも無くナナニ・ロイマーが語っていた事を思い出す。これに関しても実感が混じっているのやもしれぬ。
これが恐らく、根だと我が輩も感じた。
細かな辻褄合わせなんぞは後世の学者に任せる事にするが、神掛かった者を神掛かったと言い現している。それが根なのだと。
つまり、その手の人間が、有用な言葉か行為を残したが故に、それはある種の、畏怖やら信仰やらすべき存在となり、今に至るまで、根拠の無いルールとなり得ているのではないか。
試しにナナニ・ロイマーに、今も神掛かりはあるのか。もしあるのであれば、今はどう扱われているかを尋ねてみたところ、偶にそうなる、なっている舟渡しを見る事はあるが、ナナニ・ロイマーがそれを見たと感じたすぐ後に、居なくなるのだとの答えがあった。




