あなたに会うために回帰する
蝶々を追いかけていた小さな足が、ぴたりと止まった。
庭のベンチ。並んで腰掛けているお母様とお父様が、肩を寄せ合って笑っている。
その光景を見た瞬間、胸の奥で何かがぱんっと弾けた。
(お母様とお父様が生きてる!! 笑ってる!! 頑張った私! 今回は成功した!!)
握りしめた小さな掌の中で、捕まえた蝶がばたばた羽を震わせる。
その感触で、今の自分が「六歳の娘」であることを、ようやく思い出した。
――でも、本当の“私”は知っている。
あの夜のことを。
轟く爆音。城を揺らす衝撃。熱と光、崩れ落ちる天井。
伸ばした手の先で、お母様とお父様の身体から、あっという間に温もりが抜け落ちていったあの瞬間を。
何度呼んでも返事はなくて、名前を叫ぶ声だけが喉を焼いた。
あの世界で、私は両親を失った。
だから禁忌魔術に手を伸ばした。
大人になった私は、誰も足を踏み入れない地下書庫で、埃をかぶった黒い魔導書を見つけた。
『大いなる回帰魔術』
代償:術者の命、および世界時間軸の歪み。
ページいっぱいに「やめておけ」と書いてあるようなものだった。
でも、その時にはもう、私の世界は一度終わっていた。これ以上失うものなんてない、と本気で思っていた。
血を捧げ、詠唱を重ね、魂を削るようにして時間を巻き戻した。
一度目。
爆発の原因となる魔導装置を壊した。代わりに別の場所で崩落が起こり、両親は瓦礫の下で息絶えた。
二度目。
二人を城から遠ざけた。城の崩壊に巻き込まれないように。
けれど今度は、遠出先の橋が落ち、濁流に飲まれてしまった。
三度目。四度目。五度目。
原因をつぶせば、別の理由で、別の形で死がやってくる。
まるで世界そのものが「この二人は死ぬ」と決めているみたいに。
何回、何十回と回帰を繰り返した頃には、指折り数える意味すら失われていた。
魔導書の最後の一文が、やけに鮮明に脳裏に焼きついている。
『過去を変えるための回帰は、やがて他時点に“余波”を生じさせる』
最初は、意味が分からなかった。
けれどある時、詠唱の最中、意識がふっとずれた。
本来飛ぶはずだった「両親の死の直前」から、少しだけ時間軸が滑ったのだ。
見えたのは、夕陽に染まる寝室。
若い二人。まだ“お母様とお父様”になる前の、ライラとエリオット。
初夜を迎えるはずの夜。胸を高鳴らせながらも、どこか怯えたように笑い合う二人の姿だった。
(……あ、ここ、知ってる)
あとで気づいた。
お母様がときどき話してくれた「妙な夢」の話。
「何度も同じ夕焼けを見るのよ」と笑っていた横顔。
お父様が、「初夜の前は、理由もなく怖かった」とおどけて見せた仕草。
あれは全部、私の回帰が生んだ“余波”だった。
両親の死を回避するために何度も何度も時間を巻き戻すたび、世界は軋み、耐えきれないひずみを、より過去の一点――二人の初夜付近に逃がした。
その結果が、あの夜のループ。
原因不明の胸騒ぎも、同じ夕陽も、初夜のたびにやり直される「不自然な違和感」も。
(あなたたちの夜を乱していたのは、他でもない、この私の魔術だった)
そう理解したとき、笑うしかなかった。
両親を救うために選んだはずの回帰が、両親の始まりの夜を、何度も壊していたのだ。
やがて、代償は限界を迎えた。
私の命は摩耗しきり、術式は「死の夜」まで飛べなくなった。
戻れるのは、もっともっと前。二人がまだ若く、そして――娘である“私”さえ生まれていないはずの時代。
でも、最終的に私が目を覚ましたのは、この身体だった。
六歳の娘として、お母様とお父様の間に生きている今。
何度も自分の時間を削り、世界をねじ曲げ、それでも届かなかった結末の、その先。
(だからきっと、ここが最後の世界)
小さな胸の奥で、何度も死んで何度も回帰した“私”が囁く。
もう術式を組む力は残っていない。禁忌を発動させる器も、この幼い身体にはない。
でも、それでいい、とどこかで思っている。
蝶を握る指先に力を込めながら、私は走り出す。
春の風が、頬を撫でる。草の匂い。花の香り。全部が眩しい。
(本当はね。両親を救いたかった、なんて綺麗な理屈じゃなかったの)
あの夜に戻るたび、私が願っていたのはただひとつ。
もう一度、お母様に会いたい。
もう一度、お父様に会いたい。
叱ってほしくて、撫でてほしくて、名前を呼んでほしくて。
救いたい「誰か」じゃない。
会いたい「あなた」だった。
だから私は禁忌を選んだ。
世界が軋みながらも回帰を許したのは、きっと、その身勝手さに、どこか同じ匂いを感じたからだ。
ベンチの前で立ち止まり、両手をぱっと開いて、蝶を見せる。
お母様が目を細めて笑う。
お父様が「よく捕まえたね」と私の頭を撫でてくれる。
その温もりに触れた瞬間、胸の奥で、長い長い回帰がようやく止まっていく音がした。
(――やっと、届いた)
いつかこの世界でも、二人はいつか死ぬだろう。私も、きっと。
それは変えられない。
でも、今は確かに、生きている。ここにいる。笑っている。
その現在形だけは、もう誰にも壊させない。
私は幼い顔で無邪気に笑いながら、心の底では、静かに真実を抱きしめる。
何度世界が歪んでも、何度時間が悲鳴を上げても、きっと私は同じ願いを選び続ける。
あなたに会うために回帰する。




