あなたに会うために回帰する
たった一晩、夜を越えた、その先の朝。
ライラは、まぶしい光に目を細めながら、それでも意地でも瞼を閉じまいと踏ん張っていた。
いつもなら、この瞬間にすべてが終わる。視界が白く弾け、次に目を開ければ、夕暮れの天蓋ベッド。
やり直し。地獄のスタート地点、ふりだし、ループ一日目。
けれど――今日は。
「……朝?」
ぽつりとこぼれた声が、自分のものとは思えないくらい震えていた。
天井には、見慣れない朝の光が差し込んでいる。いつもは夕焼けを浴びていたレースの天蓋が、あたたかい金色の光に透けて、ふわりと揺れていた。鳥のさえずりが聞こえる。遠くで、庭師が植木を剪定している音がする。
全部、全部初めて聞く“翌朝の音”だった。
「ライラ?」
すぐ隣から、低くて優しい声がした。
振り向けば、寝起きのエリオットがいた。金の髪はところどころ跳ねていて、いつもの完璧な公爵子息ではなく、少しだけ幼く見える。眠たげな藍の瞳が、ライラを見つめて瞬きをした。
「……おはよう」
「おはよう」
たったそれだけの挨拶なのに、胸がいっぱいになった。
喉の奥がつまって、言葉が出ない。涙が勝手にこぼれそうになって、慌てて枕に顔をうずめる。
(生きてる。朝までちゃんと、生きて――)
「ライラ、どこか具合が悪いのかい?」
「ちが……う……っ」
震える声で否定したつもりが、ぐずっと涙まじりになってしまう。エリオットが慌てて身体を起こし、寝ぼけたままの手つきでライラの背中を撫でた。
「ご、ごめん、僕、何か失礼を……!? 昨日、手を繋いで寝ただけだけど、もしかしてそれも早すぎたとか……!」
「あ、あのね、そうじゃなくて……昨日、ちゃんと朝が来てくれたから……!」
「朝は毎日来るよ?」
「私は来なかったのよ、ずっと!!」
勢いあまって叫んでしまい、ライラは自分で口を押さえた。
言っちゃいけないやつだコレ、と本能が全力で警報を鳴らす。
エリオットはぽかんとしたあと、困ったように笑った。
「……そんなに嬉しかったのなら、よかった。これからは、何度でも朝を迎えよう。君と一緒に」
(そういうことサラッと言うから好きなんだよ……!)
ライラは心の中で床を転げ回る自分を想像しながら、それでも涙に濡れた目元を笑顔でごまかした。
こうして、初めて「初夜の翌朝」を迎えた世界で、ライラとエリオットの激甘生活が始まった。
◇
激甘生活、と本人たちは自覚していない。問題はそこだった。
「ライラ、このジャム、君の好きなベリーを多めにしておいたよ」
「あら、本当? エリオットのトーストも、そのぶん少なくなっちゃってるじゃない」
「君が喜んでくれるなら、それが一番のご馳走だからね」
朝食の席で、さらっとそんなことを言う。
侍女たちが背中を向けたまま小さく悲鳴を飲み込む音が聞こえた。毎朝だ、これ。慣れろと言う方が無理である。
「エリオット、今日の予定は?」
「午前は執務、午後は視察だよ。君はどうだい?」
「新しく庭に植える花の相談を庭師として、それから刺繍を進めようかと。夜は……」
「夜は?」
「一緒に紅茶を飲みたいなって」
「もちろん。夜じゃなくても飲みたいけどね」
藍の瞳が嬉しそうに細められる。
ああ、好き。いや、知ってたけど、やっぱり好き。ライラはパンをもぐもぐしながら、心の中で毎朝同じ感想を繰り返していた。
日々は静かに、しかし確実に甘く転がっていった。
散歩に出れば、エリオットは当たり前のように彼女の手を取る。
階段を降りるときは、必ず一歩先に立ち、裾を踏まないように支える。庭で風に吹かれれば、「寒くないかい?」と肩に自分の上着をかけてくれる。
以前なら、そのどこかで必ず「死」が割り込んできた。
毒入りのお茶。
ぐらつく手すり。
落ちてくるシャンデリア。
闇から伸びてくる誰かの手。
それらはもう、どこにもなかった。
城の中は、こんなにも平和だったのかと、ライラは今さらながらに知った。
(……本当に、終わったんだ)
夜、天蓋の下で、エリオットの横顔を眺めながら何度も確認した。
手を繋いだまま眠り、朝日を浴びて目を覚ます。それが何日続いても、時間は巻き戻らない。
恐る恐る、少しずつ“新しいこと”にも挑戦した。
プラトニック、と決めたはずなのに、ある晩ふと、ライラは勇気を出してエリオットの胸元に顔を寄せた。
「こうしてると、落ち着くの」
「そうかい?」
エリオットは驚いたように目を瞬かせたあと、ぎこちない動きで腕を回し、そっと抱き寄せてくれる。
「僕も……とても、落ち着かないけれど幸せだよ」
「落ち着かないのね」
「君が可愛すぎるからね」
そんな他愛のないやり取りを重ねながら、二人の距離は少しずつ近づいていった。
ある日、鏡の前で髪を結っていると、侍女が遠慮がちに話しかけてきた。
「お嬢様」
「なに?」
「その……そのうち、ほんとうに、初夜のあとの“その先”にも進まれるんですよね?」
「……」
ライラは手を止めて、侍女の顔を見た。彼女は耳まで真っ赤になって、必死に視線を逸らしている。
「いえ、あの、失礼を承知で申し上げます。皆さまが、その、もう一年も経つのに、まったく……という噂を」
「一年!?」
思わず声が裏返った。
そうだ。朝を越えた日から、あっという間に季節が巡っていた。
春の庭に花が咲き、夏の強い日差しが石畳を白く照らし、秋には落ち葉が舞い、冬には暖炉の火の前で二人で肩を寄せ合った。
楽しくて、怖くて、幸せで。
あまりにも濃密で、時間の流れを感覚的に掴めていなかった。
「もう、そんなに経ったのね……」
「はい。でも、殿下もお幸せそうですし、わたしたちは――」
そこまで言って、侍女は口をつぐんだ。
昼も夜も、城の噂は同じ話題で持ちきりだった。
“あの公爵夫妻は、とにかく仲睦まじいが、いつまで経っても手を繋いで寝ているらしい”
“ライラ様が清らかすぎて、殿下が遠慮しておられるのよ”
“いいえ、殿下が純情すぎて、ライラ様が気を遣っておられるのですわ”
方向性の違う憶測が飛び交ったが、どれも半分くらい当たっているから困る。
ライラは鏡の中の自分を見つめた。
頬は柔らかく色づき、瞳は前よりもずっと穏やかだった。でも、その奥には、誰にも言えない影が残っている。
(私だけが、知ってる。あの夜までの世界を)
何度も死んだ感覚は、身体が覚えている。
毒が喉を焼いた熱さ。
背中から床に叩きつけられた衝撃。
視界が赤に染まっていく瞬間。
思い出すたびに、手のひらが汗ばんだ。
そんなライラの変化に、エリオットが気づかないはずがなかった。
夜、灯りを落とした寝室で、彼はふいに問いかけてきた。
「ライラ。君は、時々、とても遠くを見ているね」
「え?」
「僕の隣にいるのに、ずっと届かないどこかを見ている目をするんだ」
闇の中で、その言葉は静かに落ちた。
「……ごめんなさい」
「謝ってほしくて言ったわけじゃないよ。ただ、もし君を苦しめているものがあるのなら、僕は知りたい」
エリオットの手が、ライラの指をそっと包み込む。
その温もりに甘えたくなって、ライラはぎゅっと握り返した。
(言えたら、どんなに楽だろう)
何度もそう思った。あなたが知らないところで、私は何十回も死んだのよ、と笑い話みたいに言えたらどんなにいいか。
でも、実際に口に出してしまえば、きっと笑えない。重すぎる。暗すぎる。彼の優しさに、そんなものを乗せたくなかった。
「――大丈夫。今が幸せだから」
代わりに出てきたのは、いつもの誤魔化しの言葉だった。
エリオットは少しだけ困ったように笑い、それでも「そうか」と頷いてくれた。
その夜も、二人は手を繋いで眠った。
◇
真実が顔を出したのは、もっとずっと後のことだった。
初夜を越えてから、十年が経っていた。
季節は再び春。城の庭には、ライラが選んだ花々が満開で、そこを駆け回る小さな影が一つ。
「おかあさま!」
「あんまり走っちゃダメよ、こけちゃうわ」
「だって、あっちにちょうちょが!」
ライラとエリオットの間には、今では小さな娘がいた。
ふわふわの金髪に、ライラ譲りの瞳。庭を全力で駆け回りながら、ころころと笑い声を響かせる。
「……本当に、夢みたい」
ベンチに座り、娘の姿を眺めながら、ライラはふと漏らした。
朝を迎えられなかったあの頃には、想像もできなかった光景だ。
同じ一日を何度も繰り返していた時には、「その先」に子どもがいる未来なんて、遠すぎて輪郭すら掴めなかった。
エリオットが隣で頷く。
「僕もだよ。君と一緒に朝を迎えられた日から、毎日が贈り物みたいだ」
「――ねえ、エリオット」
「なんだい?」
「もし、あの夜を越えられてなかったら……今頃どうなってたのかしら」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。
ただ、春の風があまりにも穏やかで、心の隅に沈んでいた疑問がふわりと浮かび上がってきたのだ。
エリオットはしばし黙り込み、少しだけ遠くを見る目をした。
それは、いつか彼が言った「届かないどこか」を見つめる目によく似ていた。
「……実はね、ライラ」
「うん?」
「君には話していなかったけれど、僕も時々、妙な夢を見るんだ」
「夢?」
「同じ夜を、何度も繰り返す夢だよ」
ライラの心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
「それは……」
「君と初夜を迎えるはずの夜。君が笑っていて、少し緊張していて、夕陽が綺麗で……そこまでは毎回同じなんだ」
エリオットの声は穏やかだった。
ただ、その奥に微かな震えが混じっていることに、ライラは気づいてしまう。
「そして、その先で、君がいなくなる」
「……」
「毒だったり、階段だったり、闇の中だったり。僕にはどうすることもできなくて。ただ、君を呼ぶ声だけが喉にひっかかったまま、世界が巻き戻る」
世界が、巻き戻る。
その言葉に、ライラの背筋が冷たくなった。
「目を覚ますと、また同じ夜の初めに戻っている。君は何も知らない顔で微笑んで、僕の前に現れる。夢から覚めたはずなのに、どうしてか胸の奥が締めつけられて、怖くて、でも愛しくて」
エリオットは、かすかに笑った。
「僕はそれを、最初はただの悪夢だと思っていた。君を失うのが怖いあまりに、頭が勝手に見せている幻だと」
「……違ったのね」
思わず、ライラの口から零れた言葉を、エリオットは静かに受け止めた。
「違ったみたいだね。ある日、夢の中で、どうしても君を手放したくなくて――初夜の前に、心の中で強く願ったんだ」
エリオットの瞳が、ライラをまっすぐ射抜く。
「『この夜をやめて、また君に会いたい』って」
風が止まったような気がした。
「……それが、最初だった気がする。その願いを口にした時、世界がひしゃげて、時間が巻き戻る感覚があって……次の瞬間には、また君が扉を開けて、『どうぞ、エリオット』と笑っていた」
ライラの喉から、かすかな声が漏れた。
「それって……じゃあ、“邪魔”をしていたのは」
「僕なんだろうね」
エリオットは苦笑した。
その笑みには、自嘲と、どうしようもない愛しさが混じっていた。
「君を失いたくなくて、夜を終わらせるのが怖くて。初夜を迎えたら、君がいなくなってしまうような気がして……何度も、何度も『また会いたい』って願っていた」
心のどこかが、ぽきりと折れる音がした。
ライラはずっと、「誰か」が邪魔をしていると思っていた。
嫉妬深い誰か。運命をねじ曲げる何者か。過去か未来か、精霊か魔術師か、そんな存在を探していた。
まさか、となりにいるこの人自身だったなんて。
「もちろん、全部が僕のせいじゃないのかもしれない。運命とか、呪いとか、何か大きなものが絡んでいたのかもしれない。でも――少なくとも、僕の願いが、あの回帰の一部だったことは、きっと間違いない」
エリオットは、指先で自分の胸元をそっと押さえた。
「君がいなくなる世界より、君に何度も会える世界を選んでしまった。たとえ、同じ夜を繰り返すだけでも」
ライラの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
止めようとしても止まらない。勝手に頬を伝って落ちていく。
「それって……私のためじゃないじゃない」
震える声で言えば、エリオットが目を見開いた。
「君のために、って言えば聞こえはいいのかもしれない。けど、実際はちがうでしょう? 私の死が怖くて、私がいない朝が怖くて、自分が耐えられないから、夜を終わらせなかっただけでしょ」
喉が痛い。胸が痛い。
けれど、それでも言葉はあふれてくる。
「私、何度も死んだのよ。あなたの知らないところで。全部夢だったって言われるかもしれないけど、私の身体は覚えてる。毒の熱さも、落ちる感覚も、息ができなくなる苦しさも」
娘が遠くで笑っている。
その明るい声が、今だけやけに遠く感じた。
エリオットは、顔をくしゃりとゆがめた。
「……ごめん」
「謝ってほしくて言ってるんじゃないわ」
ライラは首を振った。涙が飛んだ。
「私だって同じだから」
「ライラ?」
「私も、あなたを失いたくなかった。だから、何度も何度も死にながら、生き延びる方法を探した。プラトニックに逃げたり、婚約破棄しようとしたり、あがき続けた」
「……」
「あなたが“また会いたい”って願って夜を巻き戻してたなら、私は“今度こそ朝を迎えたい”って願ってた。どっちも、自分のためよ。自分のわがまま。きっと、どこかでぶつかって、世界をぐちゃぐちゃにしてた」
自分で口にしてみて、少しだけ笑いが込み上げてきた。
(なにそれ。最悪に不器用な両思いじゃない)
初夜を迎える前の夜。
彼は「また会いたい」と願い、彼女は「今度こそ朝まで」と歯を食いしばる。
そのたびに、時間は引き裂かれ、ねじれて、形を変えた。
「……じゃあ、あの夜、僕たちが“何もしない”って選んだのは」
エリオットが、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「君は朝を求めて、僕は君を失うのが怖くて、それでも手を伸ばすのをやめた、ということなのかな」
「バグったのね、きっと」
ライラは涙声のまま微笑んだ。
「世界の方が、『お前らめんどくさいから、いったんプラトニックで様子見なさい』って言ってくれたのよ」
「世界の方が大人だったんだね」
二人して小さく笑いあう。
笑いながらも、涙は止まらなかった。
しばらくして、エリオットがそっとライラの手を握った。
「ライラ」
「なに?」
「それでも――僕は、あの回帰を、完全に後悔できない」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「君に、何度でも会えたから」
エリオットの声は、どこまでも優しくて、残酷だった。
「君がドレスの裾を気にしながら歩くところも、緊張してカップを持つ指が震えるところも、夕陽を見上げて『綺麗ね』って言う顔も。毎回、少しずつ違っていて、その全部が愛おしかった」
「……ずるいわ」
「うん。ずるいと思う」
彼はあっさり認めた。
「君に会うために、何度も夜を止めた。君は朝に行きたくて、僕は夜に閉じこもっていて。どれだけ君を傷つけていたのか、ちゃんと知ったのは、こうして朝を何年も過ごしてからだ」
娘の笑い声が、ふたたび風に乗って届いた。
この子がここにいるのは、あの夜を越えたからだ。
あの夜を越えられたのは、プラトニックという、ある意味逃げの選択をしたからだ。
「ねえ、ライラ」
「……なに?」
「それでも、今こうやって、君と朝を見ていられることを、僕は生涯かけて感謝したい」
エリオットは、ライラの額にそっと口づけた。
「君がどれだけ僕を恨んでもいい。あの回帰のせいで、君が傷を負ったことは消えない。でも――僕は、それでも君に会いたかった」
涙でにじむ景色の中で、ライラはやっと気づいた。
“邪魔”をしていたのは、誰か分からない第三者なんかじゃない。
初夜の先に進むことを恐れていた自分。
朝を迎えたあと、何かを失うのが怖かった彼。
互いの「怖い」と「会いたい」が絡まり合って、世界をぐるぐる回していた。
「ねえ、エリオット」
「うん」
「もし、また世界が勝手に回帰するとしたら、どうする?」
「また、同じ夜からやり直すのかな」
「そうね。きっとまた、あの夕陽から」
それは、考えたくない未来だ。
けれど、ゼロではないのかもしれない。
世界は気まぐれで、ときどき人の幸せを試してくる。
ライラは、目元をぐいっと拭った。
「その時は、きっと――」
エリオットが何かを言いかけたのを、ライラはそっと指で制した。
「いいえ、今は言わないで。だって、今はちゃんと朝だもの」
「……そうだね」
ライラは立ち上がって、庭で蝶を追いかける娘に向かって手を振った。娘が笑顔で振り返す。その光景を、エリオットと二人で並んで見つめる。
胸の奥の傷は、きっと一生消えない。
けれど、その傷の上から、何度でも幸せを塗り重ねていくことはできる。
次に世界が意地悪をしてきたら、そのときはちゃんと戦ってやる。
今度は夜に閉じこもったりせず、朝に行くのが怖いときは怖いと言って、会いたいときは会いたいと言う。
ライラは、エリオットの手を強く握りしめた。
「エリオット」
「なんだい?」
「私、たぶん何度生まれ変わっても、あなたのことが好きなんだと思う」
「僕もだよ」
エリオットは、迷いなく言った。
「何度世界が回帰しても、きっと君を探してしまう」
その言葉が、ひどく切なくて、ひどく嬉しかった。
もし、またあの夜に戻ることがあるのなら。
もし、また夕陽の差し込む天蓋の下で、彼が扉を叩くのなら。
その時は、きっと笑ってこう言う。
――また会えたわね、エリオット。
そして、もう二度と、自分ひとりで抱え込んだりしない。
怖いときは怖いと伝えて、会いたいときは会いたいと抱きしめる。
たとえ世界が何度でも回帰するとしても。
たとえ、そのたびにすべてをやり直しだとしても。
ライラはそっと目を閉じ、胸の奥で静かに言葉を結んだ。
「あなたに会うために回帰する」




