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初夜が…初夜が…越えれないッ

ライラはもう何度目の夜かと、天蓋ベッドのレースを見上げながら本気で数えるのを諦めていた。


たぶん二十回は超えた。三十回もいってるかもしれない。けれど、さすがにここまで繰り返すと「正確な回数」なんてどうでもよくなってくる。重要なのは、どれだけ積み重ねようと、この日の夜は必ずバッドエンドで幕を閉じる、という一点だけだ。


窓の外では、今日も夕陽がとろけるように赤く空を染めている。


城の高い塔から見下ろす庭園には、丁寧に刈り込まれた木々と、真ん中に大きな噴水。そこから流れる水が細い川となって、湖へと注ぎ込んでいる。湖面は夕陽を跳ね返し、金貨を撒き散らしたみたいにきらきら瞬いていた。


「はい、いつもの、地獄へのカウントダウン開始って感じね」


ライラは窓辺に肘をついて、やさぐれ気味に呟いた。

ドレスの裾がふわりと揺れ、鏡の中には、頬をほんのり染めた花嫁の顔が映っている。

ぱっと見は幸せいっぱいの花嫁。

中身は「死と回帰に疲れたループ被害者」である。


この部屋、この景色、この時間帯。


このあとノックの音が――


コンコン。


「……はい来た。デジャヴどころじゃないわね、これ」


「ライラ、入ってもいいかい?」


聞き慣れすぎた声が、扉の向こうから響く。


ええ、もちろん。どうぞ。だけどそのあとで私、あなたの知らないうちに殺されて、なぜか時間が巻き戻るんですよ。――などと本音を叫べるほど、ライラはもう壊れてはいなかった。ギリギリ常識は残っている。ギリギリである。


「どうぞ、エリオット」


扉が開くと、そこには今日も完璧な婚約者がいた。


金色の髪は夕陽を受けて柔らかく光り、深い藍色の瞳は真っ直ぐにライラだけを見つめている。

礼服は一糸乱れず、胸元にはライラの好きな白い花。

王都一の美男子、公爵家の跡取り、完璧な淑女を妻に迎えるにふさわしい男。


――すべての肩書きは、彼にぴったりだった。


ただひとつ、「婚約者が日替わりで殺されてタイムリープしていることを知らない鈍感王子」という肩書きだけは、本人の名誉のために黙っておいてあげたい。


「また窓の外を見ていたんだね」


エリオットが微笑み、近づいてくる。

その笑顔は何度見ても、胸がきゅっと締めつけられる。


「うん。夕陽、綺麗だなって」


「君はいつもそう言う。……でも、今日はいつも以上に綺麗に見えるよ。たぶん、君と迎える大切な夜だからだろうね」


さらっと、甘い台詞が投げ込まれる。


ライラの心臓がドキュンと跳ね、同時に胃がキリキリと痛んだ。

恋とストレスが同じ場所に同居するなんて、誰が許可したの。


「……エリオット、あのね」


「緊張しているのかな? それとも、不安かい? 大丈夫。僕は君を大切にするよ。今日から先、ずっと。約束する」


いやそうじゃなくて、とライラは脳内で土下座しながら否定する。


問題はそこじゃない。

エリオットが誠実なのは百も承知だ。

むしろ誠実すぎるくらいだ。

どれくらいかというと、過去のループで「では正式な婚姻手続きの条文を一緒に読み合わせようか」と言われ、婚約初夜のはずなのに二人で契約書を声に出して読んだ夜があるくらいには誠実だった。

あれはあれで楽しかったが、そういう問題ではない。


「エリオット。もし、もしよ? 万が一、縁起でもないけど、私が今日の夜、突然死んだらどうする?」


勇気を振り絞った質問に、エリオットはきょとんと目を瞬かせた。


「……? そんなこと、考えたくもないけれど。もしそんなことになったら、僕も後を追うだろうね」


「だからダメなのよ!!!」


反射的に叫んでしまい、ライラは自分で自分の口を押さえた。


「えっ」


「ち、違うの、そういう意味じゃなくて、その、えーっと、その……」


パニックになった脳みそが、毎度のことながらポンコツになる。

これだからループ被害者はつらい。


「エリオットが死んだら困るの! 世界的にも、私的にも! だから絶対に後追い禁止! いい!? これ婚約者としての命令!」


「え、ええと……? 命令、なのかい? いや、君がそう望むなら従うけれど……」


困り顔のエリオットに、ライラは胸のうちで全力で謝罪した。本当にごめん。いつか全部説明できたら、土下座して謝るから。


――そう思った瞬間。


視界の端で、夕陽が完全に沈みきった。


窓の外の世界が、すとん、と音を立てたかのように闇に沈み、室内のランプの光が一層際立つ。


夜が本格的に訪れた合図だ。


ライラの背筋に、嫌な汗がつうっと流れた。


(来た。フラグだ)


今までの経験から言って、この「完全に日が落ちた瞬間」から、彼女の死亡ルートは全力走り出す。


毒を盛られたことがある。

階段から突き落とされたこともある。

シャンデリアが落ちてきたこともあるし、庭に逃げたら謎の矢が飛んできたこともある。

演出のバリエーションがやたらと豊富なのは、誰の趣味なのだろうか。

神様? 脚本家? どっちにしても性格悪くない?


ただ、どのルートを辿っても共通していることがひとつ。


――エリオットと初夜を迎える前に、必ずライラが死ぬ。


「ライラ?」


「だ、大丈夫。ただの、ちょっとした悪寒」


「身体が冷えているのかな。暖炉の火をもう少し強くしよう」


エリオットが優しく微笑んで暖炉に向かう。

その背中を見送りながら、ライラは心のなかで指折り数えた。

ここから先の「死亡パターン一覧」である。


一、侍女が持ってくるハーブティーに毒。

二、ドレスの裾を踏んで階段ダイブ。

三、廊下で謎の黒ずくめに襲撃される。

四、庭園で上空から落ちてくる石像。

五、窓から見知らぬ魔法陣が侵入してきて爆発。


などなど。盛りだくさんだ。誰も頼んでないのに。


「……さて、今日はどれ?」


ライラは無意識に身構えた。


そこへ、ノックの音。


コンコン。


「お嬢様、ハーブティーをお持ちしました」


来た。パターン一。


「結構よ!!」


反射的に叫んでしまい、扉の向こうの侍女がびくりと声を詰まらせたのが分かる。


「え、えっと、お医者様が、初夜の前に温かいお茶を飲むとリラックスできると……」


「気持ちだけで十分だから! あ、ちょっと待って、エリオットは下がって!」


「え?」


ライラはつかつかと扉に近づき、そっと隙間を開けて、盆の上のティーカップを凝視した。


別に見た目は普通のハーブティーだ。香りも悪くない。

でもライラには分かる。

このあと飲んだら、必ず喉が焼けるように痛くなって、そのまま視界が暗転するやつだ。

もう何度味わったことか。

あの地獄の逆流感、二度と経験したくない。


「悪いけど、そのお茶は下げてちょうだい。今夜は必要ないの」


「で、ですが――」


「必要ないの」


笑顔を貼りつけて念押しすると、侍女は青ざめた顔で何度も頷き、盆を抱えて退散していった。


扉を閉めてから、ライラはふうっと大きく息を吐いた。


(よし、一つ回避)


勝利のガッツポーズを決めたところで、背後からエリオットの声がする。


「ライラ、今の……もしかして、あのお茶が嫌いなのかい?」


「え? ああ、ちょっと。前に飲んだ時、あんまり味が合わなくて」


ものすごく遠回しな表現で、過去の毒死体験をオブラートに包む。

オブラートというか、鎧というか、コンクリートというか。


エリオットは特に疑う様子もなく、「そうだったのか」と苦笑した。


「言ってくれればよかったのに。君が嫌がることを、僕はしたくないよ」


「……ありがとう」


こういうところが、やっぱり好きなのだ。だから困る。


(よし、毒は回避。階段ダイブも気をつければいい。黒ずくめが来たらエリオットを盾に――いやダメダメ、守らないと。石像は……うん、屋内にいれば落ちてこない。魔法陣は……窓を全部閉めてカーテンも引いておけば――)


頭のなかで今日の「生存ルート」を組み立てていると、エリオットがそっと彼女の手を取った。


「ライラ」


「な、なに?」


「今日は、君とゆっくり話をしたい。――もちろん、それだけじゃなくて」


言葉を濁し、耳まで赤く染める婚約者。ライラの方こそ心臓に悪い。


「で、でも、その前に! ちょっとだけ、お散歩しない?」


「……え? この時間に?」


「うん! 食後の運動は大事って、お医者様も言ってたし! ほら、ほら!」


言ってもいない医者をすべて巻き込みながら、ライラはエリオットの腕を引っ張る。室内にいれば安全な気もするが、逆に室内だからこそシャンデリアが落ちてきたこともある。油断は禁物だ。


廊下を歩きながら、ライラはまわりをキョロキョロと見回した。


天井。異常なし。

床。ワックスがけされていてツルツル。

壁。怪しい魔法陣なし。

影。黒ずくめの気配、なし。


「……怪しい」


「え? 僕が?」


「違うわよ」


あまりにも平和な空気が逆に怖い。

今までのループでは、わりと早い段階で何らかの「不穏」が顔を出した。今日は妙に静かだ。


(もしかして、今度こそいける?)


胸に小さな希望が灯る。


初めてループした夜――あの時は、すべてが初めてで何もできなかった。


二回目、三回目と回を重ねるごとに、原因究明に走った。


毒かと思えば違う日もあり。

使用人を疑えば、別ルートではまったく関係なかったりし。

暗殺者を捕まえてみれば、「今夜のターゲットはあなたじゃなくて、たまたま巻き込まれただけです」と言われたこともある。


「じゃあ私、何なのよ。巻き込まれ属性なの?」


思わず口に出したら、そばを歩いていたエリオットに聞かれて、「いや、なんでもない」と誤魔化したのも今や懐かしい思い出である。懐かしいけれど、そのあと結局死んだのでマイナス評価だ。


それでも、ライラなりに仮説は立ててきた。


――タイミングが悪いのかと思って、初夜を前倒しにしたループ。細かくに言えばエリオットが部屋にきたら即座に致そうとした。


結果:前倒しにしたその日、無事死亡。やり直し。


――ならばと、式を後ろにずらしたループ。


結果:ずらしたその日、夜に死亡。やり直し。


――「初夜」をなかったことにしようと、式の後に即座に婚約破棄を申し出たループ。


結果:無事に婚約破棄成立。その日の夕方。


馬車に乗ろうとした瞬間、車輪が盛大に吹き飛び、ライラは空を見上げながら「は?」と思ったところで意識が途切れた。

衝撃とともに、いつものベッドで目を覚ました時には、さすがに笑うしかなかった。


(あの時は本当に酷かったな……)


婚約破棄をすれば、エリオットの命は守れるかもしれない。それは本気で考えた。

彼はこの国にとっても、ライラにとっても大切な存在だから。


でも「婚約破棄しても即死亡」が確定した今、選択肢はだいぶ狭まっている。


「ふう」


無意識にため息をついたライラに、エリオットが心配そうな視線を向けてくる。


「やっぱり緊張しているんだね」


「え? あ、うん。まあ、そんな感じ」


「もし君が嫌なら、今日は無理をしなくてもいい。僕は、形よりも君の気持ちの方が大事だ」


やめて。そういうこと言われると、余計に好きになるでしょう。


ライラは心の中で頭を抱えながら、ふと気づいた。


――もしかして。


「ねえ、エリオット」


「うん?」


「たとえば、よ? 極端な話、私たち、ずーっとプラトニックな関係のままでもいいって言われたら、どうする?」


「ぷら……?」


エリオットが首をかしげる。純情公爵子息に、いきなり横文字はハードルが高かったかもしれない。


「その、ほら。結婚はするけど、添い寝まで、とか。手を繋ぐまで、とか。そういう、お子様仕様の清い関係」


「……」


一瞬、沈黙。


次の瞬間、エリオットの耳まで真っ赤になった。


「そ、それは、その……! 決して嫌なわけではない。むしろ、君が望むなら、いくらでも待つつもりだよ。ただ、僕も男だから……その、いつかは、ね?」


「いつか、でいいの!」


ライラは食い気味に返した。


「今日じゃなくていいの! 明日でも、来年でも、十年後でも! むしろ十年後でいい!」


「 十年!?」


さすがのエリオットも二度見した。


「ご、ごめん、そこまで待たせる気はないけど。ただ……」


ライラは言葉を選びながら、じっとエリオットを見つめる。


「私、どうしても今日の夜を越えられない気がするの。何度やり直しても、ここで終わっちゃうのね。だから、もし、もしもよ? “初夜を迎えない”って選択をしたら、運命がバグって、誰かが困って、死ななくて済むんじゃないかなって」


「……?」


エリオットは、完全についていけていなかった。そりゃそうだ。いきなり「運命がバグる」などと言われて、理解できる方が怖い。


「つまり、ライラは、僕と一緒にいたいけれど、今日の夜は不安だということ?」


「すごくざっくり言えば、そう」


「なら、答えは簡単だよ」


エリオットは微笑んだ。その笑顔は、今までライラが見てきたどの笑顔よりも柔らかかった。


「君が安心できるまで、僕は待つ。手を繋ぐだけでも、抱きしめるだけでも幸せだ。――君が僕のそばにいてくれるなら、それでいい」


胸がぎゅうっと締めつけられた。


(いや、それ私も同じなんだけど!! でも問題は、その「そばにいる」が毎回リセットされちゃうことなのよ!!)


叫びたい気持ちをぐっと飲み込みながら、ライラは半ば自棄気味に決意した。


(よし、決めた。今回のループは“プラトニックルート”でいく)


初夜は迎えない。誓いだけ立てて、あとは手を繋いで寝る。それで夜を越えられたら、何かが分かるかもしれない。そもそも、誰が何のために邪魔をしているのか。エリオットへの独占欲が強すぎるストーカーなのか、未来から来た子供なのか、はたまたやたら過保護な守護精霊なのか。


「……エリオット」


「うん?」


「お願いがあるの」


ライラは、正面から彼を見上げた。


「今夜、私はあなたの隣で眠りたい。けど、それだけで終わらせてほしいの。手を繋いで、一緒にいて、朝を迎えたいの」


「……」


エリオットの瞳が、大きく見開かれ、すぐに細められる。


「それが、君の望みなんだね?」


「うん」


「わかった。君の願いなら、何度だって叶えたい」


そう言って、エリオットはライラの手の甲にそっと口づけた。


その瞬間、ライラは内心で天を仰いだ。


(あああああ、やっぱり好き――!! ほんと誰よ、こんないい男との初夜を何度も潰してくる犯人! 出てきなさいよ!!)


叫んだところで、もちろん誰も出てこない。


その代わり――


ふっと、視界の端が揺れたような気がした。


廊下の奥。誰もいないはずの角。


空気が少しだけ、濃くなった。


「……?」


ライラが思わずそちらを見つめると、すぐに何事もなかったかのように元に戻る。気のせい、と言われればそれまでだが、ループを繰り返してきた彼女の勘が囁いた。


(今、誰かいた?)


エリオットには見えていないらしい。彼は相変わらず優しい顔でライラを見ている。


「どうしたんだい?」


「ううん、なんでもない」


ライラは首を振り、エリオットの腕にしがみついた。


(いいわ。今日こそ見てなさい。私は絶対、朝まで生き延びて、犯人を見つけてやるから)


そう心の中で拳を握りしめながら、ライラは新たなループの夜に挑む。


――初夜を諦めて、プラトニックラブに賭けるという、だいぶ斜め上の方向性で。


この選択が、運命のシナリオを書き換える一手になるのか。それともまた、いつものようにベッドで目を覚ますのか。


答えが分かるのは、ほんの少し先――

たった一晩、夜を越えた、その先の朝だった。

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