「不登式(ふとうしき)」
「また教室で会えたら嬉しいな^^」
「元気になったらおいでよ」
「休み時間いっしょに話そうね」……。
平日の夕方。担任の西山先生が、学校からの帰りで家に寄った。玄関先で母親と短く話をし、車に乗って去っていった。2人の会話中、立てたくないけれど聞く耳が立った。けれども部屋と玄関は遠いから、時折の笑い声以外は聞き取れなかった。
母親が笑顔を作って、自室の扉を開ける。「これ、クラスのみんながあなたのためにって」。手渡された薄い緑色の画用紙に、色とりどりのメッセージが並ぶーー二十九ある、言葉の塊。
画用紙の真ん中に、「〇〇さんへ」と太く濃い字で描かれている。明らかに、学級長の井上君の字だ。その井上君は、「〇〇さんへ」に最も近いところに言葉を綴ってくれている。
「〇〇さん、学校に来ることがしんどいと思うかもしれないけれど、僕たち2組のみんなは〇〇さんが朝、教室の扉を開けてくれるのを待ってるよ! 一緒に文化祭盛り上げられたら嬉しいな」
ひと月後に迫る文化祭。
先週、母親が冷蔵庫に貼った学年通信を見た。私の学年は美術の授業で描いた校舎の風景を展示し、クラス対抗の合唱コンクールにも出場するらしい。
当然、そんな絵は描いてない。合唱曲の名前は学年通信に書いてあったが、いま思い出すことはできない。
「みんな、待ってくれてるわよ」。母は寄せ書きを渡す時、そういった。
呟く。「みんな、善意だ」。わざわざ学校帰りに家に寄った西山先生も、おそらく寄せ書きを提案したであろう井上君も、応じたクラスのみんなも、このメッセージをざっと読んだであろう母親も。
まだ私が登校していた4月の中旬、私のクラスの学級目標は「31ー1=0」に決まった。30人いるクラスメイトと西山先生、誰かが欠けたら0になる。そんな意味だ。
こんな標語が黒板の上に、書道を習っている松波さんの字で、でかでかと掲げられていた。私はその文字を見るたび、美しいと思っていた。なぜだか。
母親は私のことを相談しに、何度か学校に行った。教室のロッカーに保管していた私の歯ブラシを持って帰ってきたことがあるから、美しい筆跡のあの標語を見たことがあると思う。
つまりあの教室は今、みんなにとって0なのだ。「0」。
「だけどさ」。もしも私が戻ったところで、それは「31」でないと思う。ていうか、「もともとね」。
善意の詰まった寄せ書きも、母からの言葉も、西山先生の行動も、この公式が統べている。
みんな、証明したいのだ。「31ー1=0」が、真であるということを。そして、私という「偽」の要素を排するために、あえて教室に取り込もうとする。
でも、二十九あるメッセージの主は、「偽」の私を「真」に塗り替える気はないはずだ。そう感じたから私は今、ここで過ごしている。そこまでわかっているから、
「この命題は正しくない」。証明の結論はいつも、揺るがない。




