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結局、藤柯(とうか)翠嵐(すいらん)に会わずに執務室に戻ってきた。

文官たちの班師表彰の記録を一纏めにし、史官に提出するためだ。

その作業が終わらなければ記録係は解散させてもらえない。

さっさと終わらせようと意気込んでいる同僚と共に、藤柯も先輩に手帳を渡した。

藤柯の後半部分はおそらく使い物にならないので見ないでほしい。

そう念じている間に、先輩の眉間にびっしり皺がよる。

念じ始めたのが少し遅かったようだ。

それ以降、皆早く帰るために特に世間話もなく、必要事項だけを伝達し黙々と纏めていた。

清書してくれるのは勿論真面目そうな先輩だ。

藤柯の記録を見た時に、真っ先に清書候補から外したらしい。懸命な判断だと思う。

数時間後、まとめ終えた書類を持って先輩が席を立つ。

それに続くように他の文官たちも席を立ち、ようやくお開きになった。

窓から見える空は、最後に見た時よりもかなり暗くなっていた。

藤柯も立ち上がってぐっと伸びをすると、皆と同じように外へ向かう。

「藤柯」

「っ…!」

外に一歩踏み出したところで、急に声をかけられて肩が跳ねた。

今日はもう聞くこともないだろうと思っていた声だ。

「翠嵐…」

廊下の手すりに軽く腰掛けている彼がひらひらと左手を振っている。

その首元には、やはり白い包帯が巻かれていた。

翠嵐のもとまで歩いていき、人差し指の腹で恐る恐る包帯に触れる。

「傷はどれくらいなんですか」

「矢がかすっただけだよ。ここら辺だったかな」

王の前で触れた時と同じ箇所、右耳から指三本分ほど下を示す。

「包帯が大袈裟なんだよ。薬付きのガーゼが取れたらそのまま放置しそうだからって、怒りながらグルグル巻かれた」

そんなに能天気じゃないよ、と眉を下げて困ったように笑う翠嵐は、見たところ元気そうだ。

「痛んだりとか」

「鎮痛剤が効いてるから痛くない」

「出血が酷かったり、くらくらしたりとか」

「かすっただけだから、出血もそんなに」

藤柯って意外と心配性だね、と翠嵐が口角をあげて嬉しそうに笑う。

「私にも人の心はあります」

角度や深度が少し違えば、頸動脈が傷付いて出血多量で命を落としてしまいそうな怪我だ。

それを見て心配しない方がおかしい。

大広場で彼の首の包帯を見て、体から血の気が引き、心臓が凍りつきそうになった。

それに、まだ違う違和感がある。

指先が震えて仕方ない。

翠嵐は、気付かれないと思っているのか。

藤柯はこうやって話している今も、体内の熱が全て奪われるような感覚に陥っているのに。

「他に怪我しているところはないですか」

「擦り傷はあるかも。こんな感じ」

藤柯を落ち着かせるように、大したことないでしょ、と左手を見せてくる。

震える手で翠嵐の手を握ると、彼が少したじろいだのが伝わってきた。

手を握ったからといって藤柯に傷を癒せる霊力はない。

それでも触れることで分かるものがある。

「他は?」

藤柯の語尾が掠れた。

「……分かってて言ってるんでしょ」

藤柯の声を聞いて逃げられないと思ったのか、翠嵐は眉を下げ、力無く笑う。

藤柯は翠嵐の右手に向かって手を差し出す。

しかし、彼は動かない。

その代わり触れている左手が徐々に強張っていく。

「藤柯は変なところで勘がいいんだよなあ」

ぐいっと彼の左手に引っ張られ、藤柯はバランスを崩して彼の体に倒れ込んだ。

「こういうところは鈍感なくせに」

耳元に翠嵐の息がかかる。

彼の上から退けようと思うのに、びっくりした体はバクバクと鼓動を走らせるだけで咄嗟に動けなかった。

せめて言い返してやろうと顔を上げると、待ち構えていた翠嵐にキスされる。

「…ひどい顔」

「悪かったですね、見るに堪えない顔で」

「違う違う、ここにクマが」

翠嵐が左手の親指でクマをなぞる。

くすぐったくて目を瞑ると瞼にまで口付けされた。

「ちゃんと寝れなかったの? ずっと心配してくれてた?」

藤柯は「違う」と否定しそうになった。

『口は素直じゃないんだから』

蓮葉の言葉が、藤柯を思いとどまらせる。

本当にそうだと思う。

違うと突っぱねてしまっても、翠嵐は藤柯の意図を汲んでくれるだろう。

でも、それは藤柯の甘えだ。今は逃げたくなかった。

「そうです。なのに、こんな怪我して、帰ってきて…」

詰まりながら話しても、翠嵐は黙って聞いてくれる。

だらりとして力の入らない彼の右手を優しく握る。

遠征前は微かに感じられた彼の霊力が、もうそこには一切感じられない。

王に呼ばれた時、おかしいと思った。

呼ばれるのは長官や上位の役職の者が普通だ。

若い翠嵐は手立てを立てても呼ばれるはずがなかった。

それなのに呼ばれたのは、あの戦いが軍人としての最後の仕事だったと判断されたからかもしれない。

軍人にとって、利き手が動かなくなるのは、役割を果たせなくなったことと同義だ。

翠嵐は、周囲から適当そうに見られるが、実際は軍人としての使命感が強い。

そんな彼は今、一体何を思っているのだろう。

「なんでこんな…」

冷たい彼の手を温めるように両手で包んでも、ちっとも温まらない。

「……矢が首を掠った時、ちょうど霊力が使えなくて。死ぬかもなって思った。けど、そしたら藤柯に怒られるなって」

ポツポツと喋り始める翠嵐の言葉を黙って聴く。

手に痛いほど力を込めて握っても、抗議の声は上がらない。


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