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気付けば執務室で普段通り仕事をしていた。

どうやって戻ってきたのか覚えていない。

ただ習慣として手足を動かしていたのだと思う。

翠嵐(すいらん)の体調不良は一過性のものだと思っていた。

なのに、改善されなかった。

最初に気付いたのは夕食に誘われた日だ。

食事を疎かにしたら身体に影響が出るだろうと触れたあの日は、微かな違和感だけだった。

だが、遠征で負った右肩の傷で確信した。

右手に触れた時、彼特有の温かさと霊力が分からなかった。

おそらく、その時には既に右上半身に上手く霊力が巡っていなかったのだろう。

だから戦場から外されて書類処理に回されていた。

子供みたいな駄々をこねても、本当の弱音は吐かない翠嵐に藤柯(とうか)の方が焦りが込み上げてしまった。

(そうだとしても、あそこで翠嵐を止めるのはダメだろう…)

公私混同と言われたら言い返す言葉もない。

でも、つい翠嵐に言いたくなったのだ。

…それをあんな態度で返してきた翠嵐がむかつく。

「あーもう…」

机に倒れこんだ藤柯に蓮葉(れんよう)が声をかける。

「どうした? 珍しいな。いつも仕事中は綺麗な姿勢で座ってんのに」

「あの馬鹿がむかつくだけです」

机に突っ伏したまま蓮葉に事情を話す。

半ばヤケクソだ。

年上の蓮葉に取って良い態度ではないと思うものの、一度頭を机に付けてしまうと姿勢を正す気力も起きない。

蓮葉に向けて頭に浮かんだ言葉を片っ端から口に出した。

支離滅裂な内容だ。

それにも関わらず、蓮葉は相槌を打って聞いてくれる。

ひとしきり話し終えて蓮葉の方を向くと、彼は顎に手を当てて神妙に呟いた。

「大事に思ってんだね」

「むかつくって話をしていただけでそんなことは言ってない!」

機敏な猫のようにさっと上体を起こした藤柯は、首がもげそうなほど振り回して否定する。

「大切だから、自身を蔑ろにする翠嵐に怒ってるんだろ」

子供に説明するように丁寧に話してくれるおかげで、耳に言葉はすんなり入ってくる。

ただ理解したくなくて、藤柯は否定しようとした。

「そんなことは…」

「そんで、突き放されて動揺したって事は、同僚程度の関係じゃなくて、もっと深い関係だと思ってたんだろ」

「......」

被せるように諭されると藤柯も閉口するしかない。

「藤柯は口が素直じゃないからなあ。あ、もう行くよ」

じゃあな、と手を振って去って行く蓮葉の言葉を反芻して口をへの字に曲げた。

口が素直じゃないのは自覚済みだ。



大事、とは。

例えばたった一本しかないペンが折れて書けなくなると困る。大事だ。

もし、この国の記録が残っている資料が燃えると大変だ。

数千、数百年前の記録なんて誰も細かい所まで復元できるわけがない。

後世に残すべき価値があるものは大事だ。

「そうじゃなくて…」

藤柯は首を振った。物で考えても仕方がない。相手は人間なのだ。

人間で考えたらどうだろう。

大事な人の筆頭と言えば……国王か。

……だめだ。比較対象の次元が違いすぎる。

「うーん…」

考えれば考えるほど、正常さを失くした思考回路では正解から遠ざかっていく気がした。



「藤柯。ここの勘定科目、間違った申請書を通してるよ」

先輩に書類を返される。

思考の大半を今あいつに奪われている。もう戦場に行ってしまった人間に対して、自分が出来ることなんか無いと分かってる。

それなのにちょっとした思考の隙間から這い出てくる翠嵐に、気付けばすぐに引っ張りこまれる。

せめて勤務時間だけはしっかり集中しないと。

翠嵐不在なら、それはもう素晴らしく仕事に集中できるはずなのに…。

一度こうなったらなかなか集中できない性格なのも厄介だった。

藤柯は席を立つと気分転換に散歩をすることにした。

しかし、藤柯は運が良くない。

こういう時に限って、気晴らしさせてくれない経験を何度もしている。

「今回の遠征は長いな。物資の要請がまた来たそうだ」

「この前食料もたくさん持っていっただろ?」

「食料じゃなくて衛生品の方らしい。」

「…どういう事だ? 相手は陽国(ようこく)だろ?」

「そうなんだが、今までと様子が違うらしい」

「どう違うんだよ?」

「負傷して帰ってきた者が言うには、以前の比にならないくらい手強いらしい。互角か、あるいは…」

「はあ?! こっちには霜月(しもつき)様もいるんだぞ」

「しっ、声が大きい。とにかく俺らは消毒、包帯、止血剤、鎮痛剤の類いを多めに用意しておこう」

医官が医務室から大きめの籠を持って出てくる。

その中には濃茶の布が入れられている。

所々白い箇所が見えるということは、元は白い布だったのか。

鼻をつく消毒液と鉄の匂いに思わず藤柯は顔を歪めた。

霜月様が軍部長官になってから、こんな状況になる事はなかった。

今、目の前を横切る医官は現実だろうか。

悪い夢じゃないのだろうか。

翠嵐が負ける訳がない。

そう思うのは自分の都合のいい妄想だろうか。

藤柯は自分の立っている足元がぐらりと歪んだような気がした。




「藤柯、酷い顔色だぞ。早退しなよ。先輩には伝えておくから」

トン、と蓮葉に肩を叩かれて藤柯はやっと目の前に書類があることに気付いた。

気晴らしに散歩に出かけたつもりが、不安を蓄積させただけだった。

「働かせて、ください」

仕事でもなんでも、他のことで頭をいっぱいにしておかないと自分の脳が何を考え始めるか分からない。

(大丈夫。心配ごとの九割は起こらない)

きっとそうだ。

翠嵐は普段通りけろっとしていて、遠征から帰ってきたらまた藤柯の周りをうろちょろする。

自分を宥めるように言い聞かせるけれど、同時に悲観的に考える自分もいる。

(もし、たった一割に当てはまったら? もし帰ってこなかったら?)

藤柯は自分の字が醜く歪んでいることに気付いた。

線もガタガタと震えていて到底読めるものじゃない。

ふと、頭の中で声がする。

あいつの声だ。

『藤柯の字、好きだな』

一つ思い出すと次々と脳内に溢れかえってきた。

『藤柯の髪、俺が結ってもいい?』

承諾すると優しく髪を梳きはじめる。

『また一緒に夕飯食べてくれる?』

藤柯の返答を聞いて嬉しそうにはにかんだ顔。

『藤柯』

頭の中に温かみのある彼の声が聞こえる。

聞きすぎて、どんな人混みの中でも聞き分けられる。

声さえ聞けば、姿が見えなくても間違いなく見つけられる。

どこに行っても視界に翠嵐が入ってくるのは、彼が藤柯を探しているからだと思っていた。

でも多分そうじゃない。

きっと藤柯も無意識に翠嵐を探していた。

彼の声が脳内に響くたび、藤柯の心臓が脈打つ。

(これじゃまるでーー)

藤柯は天井を仰ぎ、目元を手で覆った。

そうして暗くなった空間で思い出すのは、最後に向けられたあの温度のない視線だ。

己の身をかけて国を守る覚悟を持つ男に、よくあんな事が言えたものだ。

すでに軽蔑されているかもしれない。

ほんわか先輩の言っていたように、翠嵐は良い男だ。

それに比べ、今の自分に誇れるところがあるだろうか。

藤柯は肺に溜まった息を吐き切って、パシッと両頬を叩く。

藤柯は不器用ながらに髪を結って気合いを入れ直した。

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