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日が暮れて、書物庫で静かに資料を読んでいる時だった。
外から馬の蹄と談笑している声が聞こえてきた。
今回の遠征も勝利したようだ。
外の様子が気になって藤柯がそっと扉を開けると、馬を連れた翠嵐と目が合う。何て運が悪いんだ。
「あ、藤柯!」
「お前はこっちだ」
霜月様がすかさず拳骨を落とし、翠嵐は強制的に列に戻されていく。
『黙っていれば男前。藤柯を見つければすっ飛んでく大型犬』
それは上官の前でも健在らしい。ああもう馬鹿。本当に馬鹿。そう思っていると霜月様と視線が交わってしまった。
一瞬にして背中に冷たいものが走り、背筋がピシッと伸びて頭が下がる。身に染み付いた挨拶はどんな時でも同じ動きを繰り返す。
一行が去るまで藤柯は頭を下げ続けた。
驚いたせいで心臓もバクバクしている。
特に悪いことは何もしていないはずのに、藤柯は怒られた気になった。
(さっさと帰ろう)
一旦深呼吸して書物庫から出ると、医務室の明かりが目にとまった。
普段は静かな部屋だが、今夜は影が忙しなく動いている。
負傷者の手当てで医官も手一杯なのだろう。
そして、室内から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ちょっ! ちょっと! 痛い! 痛いんだけど!」
悲痛な大声が月夜に響く。
ヒイヒイ言ってるが、大怪我をしたとは思えない。
普段から丈夫でピンピンしている男が、何を大袈裟に喚いているんだろう。
少し消毒液を垂らされたとか、きっとそれくらいのことで騒いでいるに違いない。
(...気になってる訳じゃないんだけど)
藤柯は言い訳しつつ医務室に近寄った。
「はい、もう終わったから。今日は帰って、明日も来るように。傷が開かないように大人しくするんだよ」
優しいおじいちゃん医官が、孫に言い聞かせるように口を酸っぱくして伝えている。
前科持ちなんだろうか。いや、相手は翠嵐だから十分あり得る。
「分かってます分かってます」と早口で逃げる翠嵐の声が近づいてくる。
(盗み聞きがバレる…!)
藤柯はすぐに踵を返し、寮まで脱兎の勢いで駆け戻った。
軍人だから、戦って怪我するのは日常茶飯事だ。
いちいち気にしていたらキリがない。
……なのに。
部屋に戻っても脳裏には彼の姿がちらついて離れない。
その理由が分からず、藤柯は顔を顰めて髪をかき上げた。
翠嵐との約束を果たすべく、夕食を共にしたのだが、隣に座る彼は怪我人とは思えないほど普段通りだ。
どこを怪我したのか見当も付かない。
そのせいで、不用意にどこか掴んだり押したりすると、怪我した部分を突いてしまいそうだ。
…そう思って大人しくしていたのに、いつも以上に構われている。
「どこを怪我したんですか」
だから思い切って聞くことにした。
はぐらかされたくなくて、逃がさないようにと翠嵐の袖をほんの少し掴んでみる。
その手を見て翠嵐は苦笑する。
「耳が早いね。ここだよ」
右の鎖骨から肩にかけて、指先で怪我の場所を示してくれた。
ただ、それだけだ。
痛いとも、安静を言い渡されたことも、何も言わない。
服で覆われている傷は、深さも大きさも分からない。
本当に平気なのか、それとも藤柯に弱音は吐きたくないのか。
どちらにせよ壁を隔てられているようで藤柯は胸が塞がった。
夕飯の誘いに乗ったのは、彼にしっかり食事をとらせなければならないと思ったからだ。
「今日仕入れた葡萄の蒸留酒なんだって。度数二十らしいよ」
しかし、怪我の回復を優先するならば断った方が良かったかもしれない。
いつの間に頼んだのやら、彼は酒がなみなみに注がれた杯を持っている。
「怪我してるんだから、酒はやめておきなさい」
「大丈夫。二十度くらい大したことないよ」
血の巡りが良くなって傷口から出血したらどうするんだ。
藤柯がいくら説得しても、彼の興味は未知の酒に向けられている。
「だから駄目だって言ってるでしょう」
酒を口に運ぼうとする翠嵐の腕を掴む。
「一口だけ、一口で満足するから」
「一気に飲み干す、の間違いですよね」
違うって、と軽く返す彼を無視し、杯の上に手をかぶせる。
禁酒なんて言われなかったと口を尖らせる翠嵐の瞳を覗き込んだ。
「私は、翠嵐の傷が開くのを見たくない」
傷が開いても翠嵐は死なないだろうが、店内や帰り道で大出血なんて、間違いなく事案だ。
血を見る機会なんてそうそう無い一般人は大騒ぎするに決まっている。
そうなれば、飲ませた藤柯もこってり絞られる。
色々考えると藤柯は眉も目尻も下がり、悲痛な顔になった。
その一瞬、翠嵐の杯を掴む力が緩んだ。
藤柯はすかさず杯を奪い、さっと飲み干す。
まろやかで口当たりもよく、とても美味しい。
(これは飲んだら止まらなくなるやつだ)
「あ…」
翠嵐は藤柯を見て口をあんぐり開けている。
少しずつ意識がふわふわしてきた藤柯にはそれすら面白かった。
翠嵐が再度酒を注文する前に席を立ち、懐を漁る。
「ふふ、気分が良いから奢ってあげます」
財布はどこだったっけ。思い出せない。
手探りであちこち探していると、翠嵐が財布の場所を当ててくれる。
翠嵐もたまには役に立つみたいだ。
「酔うの早くない…?」
上手く小銭を出せなくて、ちゃりちゃりと音を立てて机の上に散らばる。そのお金を一つ一つ摘んで翠嵐が数えてくれた。
「酔ってないです。気分が良いだけです」
ふわふわした感覚で一歩踏み出すと、床が綿のような感触だった。足も軽い。
地面を踏んでいる感覚がない。
「それを酔ってるって言うんだよ」
後ろでブツブツと言っている翠嵐を置いて藤柯は先に店を出た。




