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「うわ、今日は何か特別な用事でもあるのか?」
驚いた声をあげたのは蓮葉だった。
同期の中で歳が近いこともあって、かつては兄のように面倒を見てくれた人だ。
今では上司が違い、距離もできてしまったが、それでも時々こうして声をかけてくれる。
「違います何でもないです本当に」
「そんな早口で否定しなくても」
必死な否定に蓮葉が苦笑しながら肩を叩く。
あやされているようで複雑だ。
とにかく経緯を仔細に話すと「あーそういうこと」とすぐに納得した声が返ってくる。
「いや、有名だし。将来有望な軍人が執務室の近くをうろついてるって。力じゃ敵わないし、怖い怖いって先輩が震えてた」
(…あんなんでも根は真面目なのに。そこまで怯えなくても)
藤柯が気付かなかっただけで、ほんわか先輩以外の誰もが翠嵐の一挙手一投足に緊張し、恐々と盗み見ていたのかもしれない。
そう言われると、室内に漂うぎこちなさがあったような気もしてきた。
そしてその原因の一端は自分にもある。
(どうにかして執務室に入ってこないようにしないと)
その日、藤柯は頭が痛くなるほど考えた。
どうやって翠嵐を執務室から遠ざけるか。
しかし、考えもまとまらないうちに名前を呼ぶ声が聞こえる。
「藤柯!」
耳が慣れすぎてどんな雑踏でも拾ってしまう自分が悔しい。
あいつの声が通るのか、もしくは聞きすぎて藤柯の耳が作り変えられたのか。
視線を向けると、やっぱり翠嵐がいた。
「もう帰るのか? それなら一緒に帰ろう」
「…忘れ物をしました」
踵を返す藤柯を追いかけるように翠嵐が付いてくる。
「俺も寄るところがあって、執務室の前も通るから一緒に行こうよ」
逃げ道を塞がれ、しっかりと腕を掴まれる。
軍人の歩く速度は速く、小走りになりそうで腕を引っ張ると翠嵐が顔を覗き込んできた。
「ゆっくり歩いてるつもりなんだけど、これでも速いかな?」
翠嵐は足が遅いよと茶化したり笑うことなく、藤柯が頑張らなくても歩ける速度まで足を緩めてくれる。
「……今は大丈夫です」
「そう、良かった」
気付けば彼の足取りは驚くほど穏やかだった。
おそらく彼はこんな速度で宮廷内を歩いたことがないだろう。なのに、ちらちらと藤柯を見ながら世間話をして笑っている。
自分の歩調に他人がこんなにも自然に合わせてくれたことなどあっただろうか。
……調子が狂う。
そのまま強引に翠嵐オススメの飲食店に拉致され、カウンター席に座らされた。
立ち寄った執務室は本当に怖かった。
定時後に翠嵐を自ら招き入れる形になり、残業組には何してくれてるんだと大層睨まれた。もちろん翠嵐には見えないところで。
「これ美味しいよ」
野菜と鶏の甘酢炒めを翠嵐が取り分けてくれる。
「ありがとうございます」
渡された甘酢炒めは酸味と甘味が疲れた体によく沁みた。
「美味しいです」
思わずそう漏らすと再び甘酢炒めが渡される。
「もう結構です! 翠嵐の分がなくなります」
「いつも夜はあんまり食べないから大丈夫だよ」
頬杖をついて微笑む顔は酒のせいでほんのり赤く、いつもより幼く見える。
片手に酒、もう片方は無意味におしぼりを突いている。
箸すら持っていないことが気になって、思わず翠嵐の口に鶏肉を突っ込んだ。
「軍人が食べなくてどうするんですか! 栄養不足で野垂れ死にますよ!」
軍人は文官よりカロリー消費量が多いのに、食べなければ体が回復しないじゃないか。
思わずガシッと翠嵐の肩を掴む。
僧帽筋は発達し、二の腕も太すぎも細すぎもしない。ちょうど良い筋肉のハリがある。ひとまず安心したが、この生活が続けばいつ影響が出るか分からない。
なので、これからも精進するように。……ん?
「と、藤柯」
「何ですか?」
口籠る翠嵐に二の腕を掴んだまま促すと、観念したように口を開く。
「…また一緒に食べてくれる?」
不意を突かれ、藤柯はポカンとした。
そんなことで躊躇うのか。
都合が良ければ普通に行くし、断ることもない。
…いや、三回に二回は断るかも。
(あ。ちょうど良い機会だ)
少し考えて、藤柯はにこりと微笑んだ。
「良いですよ。その代わり執務室に無断で入らない、人に迷惑をかけないと約束してください」
途端に翠嵐の体はビクリと強張る。母の言いつけを守らないとご褒美にありつけない子供みたいだ。
その顔が妙に可笑しくて、藤柯は声をあげて笑った。
翌る日から藤柯の暮らしは妙に静かだった。
翠嵐がいないと執務室が一気に真面目な仕事場に見える。
廊下で紀和と会い、翠嵐が遠征に行ったと知った。
「先輩がいないと本当に平和ですね」
本当に。嵐が過ぎ去ったような感じだ。
首を大きく縦に振って同意しかけた時、不意に紀和が尋ねてきた。
「ところで、先輩とはどんな関係なんですか?」
「……は?」
藤柯の間抜けな声が廊下に響いた。聞き間違いかと思ったが、紀和は返事を待っている。
「軍人と文官です」
「…それを先輩が聞いたら悲しみますね。もっと良い表現はないんですか?」
…何でいきなりこんな質問をされているんだ?
藤柯は頭を捻り、無理やり答えを探す。
「……知り合いと友人の間ですかね」
「あんまり良いようには聞こえませんねぇ」
良いように答えたらどうなるというのか。
図太い紀和は納得いかない顔で首を傾げている。
その視線はもっと面白い答えをくださいよ、と言っているようなものだ。
(なんか、似なくていいところが似てきたな…)
「知ってますか、先輩酔うと可愛いんですよ」
「そうなんですね」
「反応が薄いですね?」
紀和が不思議そうに眉を上げる。
翠嵐の可愛さなど知ってどうするんだ。
正直酔っ払いなら可愛いかどうかより、自分の足で帰ってくれる方が好ましい。
「先輩との関係は?」
「…友人ですかね」
藤柯の答えに紀和はやっぱり不満そうな顔をしていた。
「先輩方はそろそろ戻って来るそうですよ」
紀和は何事もなかったように話題を逸らした。
藤柯も翠嵐との仲をあれこれ聞かれるより、そっちの話題の方が良い。
「そう言えばなぜ紀和は宮廷に残っているんですか?」
「都を守るため、少しは戦闘員を残しておくんです。遠征の間に溜まる書類の処理も任されるので、正直遠征に行きたいです」
紀和は疲れた表情で苦笑した。
事務仕事が得意な軍人は稀だ。
三人集まれば勝手に模擬戦を始めるような脳筋バカしかいないのに、一体誰が率先して書類に手を伸ばすというのか。
「帰って来る前に未処理の書類を片付けて、帰ってきたら遠征の書類を片付けて…」
「あー…頑張ってください」
話していくうちに紀和の顔から表情が消え、目が虚ろになっていく。
そして肩を落として消えるように軍部に帰っていった。可哀想に。
藤柯は優しい言葉をかける代わりに心の中で両手を合わせた。




