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彩国は豊かな資源と高い霊力を誇り、小国ながら軍事力では群を抜いていた。
そんな国の宮廷文官試験に藤柯は最年少で合格したらしい。
が、実際の仕事は先輩文官から押し付けられる雑用がほとんどだ。
やっかみや無意味な争いを避け、穏やかに過ごしたい。そう思って三年がたった。
今まで波風立たずそよ風も吹かなかった文官生活なのに、ある男のせいで絶賛皆の注目の的になっている。
(平穏な生活って何だったかなあ...)
先輩や年上同期から押し付けられた書類を持ち、歩き慣れた廊下を進む。
ぼんやりと考え事をしていても、同僚とすれ違う時は体が勝手に挨拶をする。
頭を下げる瞬間に見えたのは、同僚の藤柯を見る目だ。哀れんでいそうで面白がっている。
最近皆から向けられる視線は大体がコレだった。
ーーただ一人を除いては。
「大変だな、また書類運んでるんだ。今日こっち通るの二回目だろ?」
「……」
その通り。よく見ている。ストーカーか?
いつの間にか平然と隣を歩く男に、引き気味の目を向ける。
藤柯の背丈を二十センチほど上回る彼は、黒髪の奥にある緑玉の瞳を緩めた。
『黙っていれば男前。藤柯を見つけてすっ飛んでく姿は大型犬』
周りからそう言われても、本人は特に気にしていない。
藤柯の髪色は藤色だから、視界に入りやすいんだと思うが、この男の藤柯に対する嗅覚はそんなレベルの話ではない。
「文官って執務室か資料室に籠ってばっかだと思ってたけど、藤柯は歩き回ってるんだな」
「……」
是非とも椅子に根を張った文官たちに言っていただきたい。
ふくよかな体を少しでも動かせと尻を蹴ってやってくれ。
書類の不備を見つけたのは大先輩方だというのに、藤柯に回ってきた理由は『そんなことで出歩くの面倒くさいから』だ。
一日二回で済むなら良いほうで、戻った途端に別の用件が飛んでくることも珍しくない。
「なあ、後でーー」
「……翠嵐にはこれを」
藤柯は書類の束から一枚取り出し、一人で話し続ける男ーー翠嵐の眼前に突きつける。
翠嵐は両手でそれを受け取るとようやく静かになり、まじまじと読み始めた。
「藤柯の字ってやっぱり綺麗だ。俺は好きだな」
かと思えばやっぱり口を開く。
こいつは口から生まれてきたに違いない。無言や沈黙を知らない男なのだ。
「文官ですから。私は不備のない書類の方が好きですね。大体この書類は何ですか? 軍遠征費の申請書ですよね? 『肉代(今月の給料なくなりました恵んでください)』とは? 草でも湯がいて食え」
「軍部でやると皆に取られそうだしなあ、執務室で湯がいて良い?」
「…お前を湯に突っ込んで良いなら」
「俺は草じゃなくて肉食動物だよ」
ニッと口角を上げて笑う馬鹿に、思わず深いため息が出た。
こんなに馬鹿でも翠嵐は軍部でも屈指の実力者だ。
優秀な人材が集った年の軍部試験で、首席合格を果たしたと聞いている。
藤柯は先輩補佐として同行した遠征で初めて彼を見た。その霊力の大きさと術の正確さに圧倒された記憶がある。
申請書作成の指導時も、新人によくある書き間違いや不備を説明するとすぐに修正できた。
若くて飲み込みが早く優秀。手を焼く必要もないと思って研修を終えたというのに。
気付けば最下位で合格した者よりも厄介な子に成長していた。
「はあ…」
呆れた視線を翠嵐に向ける。
これからも波風立てず、平穏に過ごす予定だったのに。
目の前の年下軍人はそんなことに気付くはずもなく、平然と隣で微笑んでいた。
「藤柯はいつ昼食とる?」
「書類が片付けば」
伸びかけた藤色の髪を翠嵐が器用に掬い上げる。
襟足がすっきりする感覚は悪くない。
だけど、ここは執務室だ。他にも先輩や同期がいる。
彼らはチラチラと何が言いたげに、あるいはビクビクしながら見てくる。でも、誰も声をかけてこない。
触らぬ神に祟りなしーーそんな空気が漂っていた。
翠嵐は、軍部の書類を届けに来るとその後一時間くらいは執務室に居座る。
何か仕事をするわけでもなく、手伝ってくれるわけでもなく、ただ藤柯にじゃれついてくる。
最初はとっとと帰れと思っていた。そして今も思っている。
でも便利な面もあった。
不器用な藤柯が髪を結ぶと、すぐに髪紐が落ちてしまう。でも翠嵐に任せると一日中崩れることがなく、大変楽だ。
首元がすっきりするのは嬉しい。
そう思いながら書類をめくっていると、また不備のある軍部の書類が出てきた。
「これ、桁が一つ大きくないですか?」
「ん? あ、多分そう。誰が作ったんだっけ。確認しておく」
翠嵐は顎に手を当て、誰の字だったか推測している。その体を無理やり出口に向かせ、背中を押す。
「はい、よろしく。今すぐ帰って、他の人に持ってきてもらってください。翠嵐は今後執務室に来なくていいですよ」
「分かった。一旦戻って、また来るね」
じゃあねと手を振って出ていく背中を見送る。藤柯は肺の中の空気を全て出し切るほど長いため息を吐いた。
ずっとこの調子で、突き放しても堪えた様子はない。
もしかしたら都合の悪い部分は耳に入っていない。
それが良いのか悪いのか、何を言われようとも気分を害すことはなく、むしろ常に上機嫌だ。
(誰とでも円滑な関係を築けるタイプなんだろうな。……軍人として、あんなので舐められたりしないんだろうか)
浮かんできた疑念を、藤柯は慌てて頭を振って追い払った。
「彼もすごいよねえ。前回の遠征も彼のおかげで無事に帰って来れたって」
「…大変だったんですか? 翠嵐は特に何もなかったって言ってたんですが…」
初耳だった。
ほんわかした先輩の言葉に、藤柯は首を傾げる。
前回の遠征は東隣の陽国が相手だ。
彩国よりも大国ではあるが、軍人の質が低い。
ただ数で押してくるのが厄介な国だ。
しかし、視察部隊の報告では危機が迫った様子は特になかったはず。
これもぺちゃくちゃ喋る翠嵐から聞いた話だけど。
「国境に平地があるだろう?」
先輩はいつものようにふわふわと話し始めた。
陽国と彩国の境に、平地とそれを囲むように丘陵が広がる地域がある。
見晴らしが良いがゆえに、策を弄しても最後は純粋に実力が高い方が勝つ場所だ。
「そこで挟み撃ちにあったって。後方部隊の物資あたりから崩そうとしたんだろうね。相手は無駄に人数が多いから」
「しかし…。人数頼りの陽国が力を分散させると双方とも弱体化しますよね...?」
「僕もそう思うんだけど、専門外だからねえ。その時、後方にいた翠嵐が霊力の矢でまとめて始末したみたい。前方は我が国の英雄、霜月様が打ち負かしてくれたそうだし。格好良いよねぇ」
「…そうですね」
頬に手を添えてうっとりしている先輩は見なかったことにしよう。
翠嵐は自分の功績をあまり語らない。廊下で軍人達に自慢話を聞かされても、翠嵐から自慢話を聞いたことはない。
だから、先輩から聞かなければ事実を知るのは大分後になっていただろう。
「翠嵐も素敵な男に育つだろうなあ。藤柯もそう思うだろう?」
「…………はい」
藤柯はしばらく考えた後、喉の奥から声を絞り出して答えた。
「陽国はまた仕掛けてくるかもしれないから、しばらくは遠征が続きそうだって。藤柯も気をつけてね」




