第9章 消えた横綱 小野川 才助(1830-1873)
小野川才助は今は亡き京都相撲の初代横綱だが、現在は東京相撲の横綱以外は横綱として認められていないため、その名を知る者は少ない。久留米藩お抱えの福岡出身力士ということもあって、地元久留米でこそその名は知られていても、博多の方ではよほどの好角家でもない限り、郷土力士であることすら無視されているのが実状である。
「小野川」というのは由緒ある四股名で、谷風梶之助の連勝を六十三(歴代二位タイ)で止めた第五代横綱小野川喜三郎が有名である。
近江(滋賀県)出身の小野川は大阪相撲で初土俵を踏み、最初は相模川と名乗っていたが、師匠小野川才助の養子となった後、江戸に下り人気力士になった。横綱に推挙された後は義父の名を継いで才助と改名しているが、一般には小野川喜三郎で通っている。引退後は大阪原町に水茶屋を経営し、文化三年(一八〇六)に没した。
この小野川の名跡を継いで京都相撲初の横綱となったのが、筑後国山東郡高畑村(福岡県久留米市善道寺町)出身の小野川才助である。本来なら二代小野川才助として相撲史にその名を刻んでもおかしくないほどの存在なのだが、日本相撲協会では一部の大阪横綱を除いては江戸・東京相撲の系統を引く横綱だけを歴代横綱と認めているため、京都横綱小野川の名は歴史の闇に埋もれてしまっているのが現状である。
それでも地元久留米市では、幻の郷土横綱に敬意を表して、毎年、市内の児童による小野川才助顕彰ちびっこ相撲大会が催されている。
小野川才助こと森光幾蔵は子供の頃からずば抜けて大きく、十歳で当時の大人並みの体格だったという。一人っ子で甘やかされて育ったせいか、人見知りの出不精だったが、村一番の大男ということで奉納相撲に引っ張り出されると、軽く突いただけでも相手が土俵から飛び出してしまうほど強く、家業の農業を継ぐより力士になるよう周囲から勧められた。
筑後地方は相撲が盛んな土地柄で、雲龍、梅ヶ谷の二横綱を輩出しているが、全盛時六尺三寸(一九一センチ)三十六貫(一三五キロ)に達した小野川は彼らをゆうにしのぐ巨漢だった。この時代にこれだけの体格の持ち主であれば、少々気が弱いところがあるといっても、田舎の力自慢連中の手に負えるものではない。幾蔵が京都にのぼり、都灘部屋に入門したのは嘉永二年(一八四九)、十八歳の時だった。
嘉永六年(一八五三)には郷土の英雄、雲龍のいる江戸の追手風部屋に移り、大岬大五郎の名で幕下に付け出される。すでに京都相撲の下地がありこの体格である。出世は早く、安政四年(一八五七)冬場所、新十両の場所に八勝一敗一分で優勝。十両二場所で入幕している。この頃に徳島藩のお抱えになり、虹ヶ嶽杣右衛門の四股名を与えられた。
藩主蜂須賀斉裕は大の相撲好きで知られ、虹ヶ嶽の他にも鬼面山、陣幕、大鳴門といった強豪力士を傘下に置いていた。この四力士は俗に「阿波四天王」と謳われ、鬼面山と陣幕は後に横綱に推挙されている。
万延二年春場所前に筑後久留米藩主有馬頼咸が徳島藩から虹ヶ嶽を貰い受けることになった。
当時の徳島藩は藩政改革の最中にあり、力士の扶持の削減は緊縮財政政策の一環だったため、阿波四天王も一旦はお抱えから離れるのだが、職業力士としての給金だけでは生活が成り立たない。
結果、虹ヶ嶽と陣幕は出身藩に移譲、大鳴門も翌年古巣の大阪相撲に帰参したが、鬼面山だけは二君に仕えるのをよしとせず孤高を守り続けたため、蜂須賀侯に呼び戻されている。
財政が逼迫していた久留米藩が虹ヶ嶽を召抱える気になったのは、江戸相撲最強の雲龍が出身地である筑後柳河藩のお抱えということで、隣接藩の大名に対する強いライバル意識もあってのことだろう。虹ヶ嶽にとっては幸いであったが、遊興費には金を惜しまなかったことで、有馬頼咸は愚鈍な藩主の烙印を押されてしまったのは気の毒だった。
移籍後に有馬侯の命で小野川才助に改名させられたのは、かつての横綱小野川が久留米藩のお抱えだったことによるものだ。先代小野川は近江出身だったので、有馬侯は正真正銘の地元出身力士に横綱の夢を託したものと推察する。
虹ヶ嶽改め小野川となった最初の場所(万延二年二月)は、これまで味方だった阿波の強豪たちと相まみえることになり、苦しい土俵が続いた。前頭筆頭で六勝二敗一休は立派な成績だが、この二敗は鬼面山と陣幕に喫したもので、以後もかつての同胞に苦戦を強いられたことが三役で足踏みを続ける要因となった。
新三役(小結)で迎えた文久元年(万延二年三月から文久に改元)冬場所は最初の優勝のチャンスだった。小野川は鬼面山を倒しての六勝一敗一分だったが、大鳴門に負け、陣幕と引き分けたのが痛かった。
優勝は七勝一敗の前頭筆頭大鳴門だっただけに、陣幕に勝つか大鳴門と引き分けていれば番付上位の小野川の優勝だった。
文久三年の冬場所も鬼面山に直接対決で勝てば優勝という成績だったが、これもモノにできずに終わり(引き分け)、江戸相撲では一度も優勝することが出来なかった。阿波四天王の中で優勝経験のないのは小野川一人だが、残留していれば同門対決がないため、優勝の機会もあったはずだ。
阿波勢に対しては、鬼面山に二勝四敗三分、陣幕に一勝四敗三分、大鳴門に一勝二敗と分が悪かったが、文久二年冬の初優勝以来、引退までの七年半の間にわずかに二つの黒星しかなく「負けずの陣幕」の異名を取った陣幕を最後に破った力士が小野川であり(慶応二年春)、陣幕が最後に勝てなかった(慶応三年春・引き分け)のもまた小野川だった。
慶応二年春場所は、前場所の優勝力士にして四年間無敗という陣幕の全盛時代に当り、連続優勝がほぼ確実視されていた。一方、風邪で体調不良の小野川は六日目の陣幕戦まで二勝二敗一休と冴えない成績で、一時は休場も考えていたが、逃げたと思われるのが癪にさわり、一か八かの注文相撲に賭けてみることにした。ところがこれが見事に決まり、さすがの陣幕も土俵に腹這いになってしまった。
回向院は「小野川、小野川」の連呼の嵐となり、不思議なことに小野川の風邪もその日のうちにすっかり治ってしまっという。突然元気になった小野川はそのまま千秋楽まで負け無しで皆勤し、陣幕はこの一敗が祟って優勝を逃している。
小野川は巨漢のわりには俊敏で小技にも長けていたため、小兵の手取り力士も苦にしなかった。鬼面山、陣幕と五分に渡り合い、古今無類の相撲上手と謳われた両国梶之助(最高位関脇)、雲龍が大の苦手とした常磐山小兵治(最高位関脇)との対戦成績はともに二勝二敗である。
また持久戦に長け、若き日の梅ヶ谷を苦しめた境川(後の横綱)とも二勝二敗で、阿波衆を除いては特別苦手とする相手がいなかったため、関脇留まりの力士らしからぬ大関並みの勝率(七割二分強)を残している。
全盛期の文久三年冬から元治二年春までの四場所は一度も二敗以上の場所がなく、通算でも二十四勝三敗二分八休と、今日なら大関としても遜色のない成績を収めているが、横綱はあくまでも尊称で大関が最強力士を意味した時代だったことも、小野川にとっては不運だったと言えるかもしれない。
しかし、小野川以上に不運だったのが大鳴門である。
大鳴門は優勝経験があるにもかかわらず、上位が詰まった東方で番付を留め置かれたあげくに、三役にもなれないまま江戸相撲を脱退している。そう考えると、西方に回ったおかげで三役に昇進できた小野川は久留米に移って正解だったのかもしれない。
慶応三年冬場所、関脇で五勝四敗の成績を最後に小野川は江戸を去り、京都にのぼる。奇しくも江戸相撲で最後の対戦相手となったのも陣幕で(陣幕の勝ち)、陣幕もまたこの時の優勝を置き土産に大阪に去った。小野川も陣幕も元は関西力士だったので、京都も大阪もこの二人を暖かく迎え、双方ともに最高位の大関として遇された(当時は京都相撲、大阪相撲ともに横綱は制度化されていなかった)。
幕末の動乱期は、各藩ともに財政的にも窮乏し、力士に扶持を与える余裕がなくなったため、お抱えを解かれる力士も多く、角界にとっては冬の時代であった。また、江戸は物騒でもあったことから、比較的安全な関西に居を求める者も少なくなかった。陣幕や小野川はその先駆といえよう。
一歳年長の陣幕が明治二年を最後に現役を退いて、大阪相撲総頭取として関西相撲の普及に着手し始めたのに続き、小野川も土俵を去る決意を固めた。
江戸相撲の衰退に伴い、これまで冷や飯を食っていた京都の五条家は復権を目指し、京都相撲の看板力士である小野川に京都相撲初となる横綱免許を与えた。明治三年二月のことである。
すでに引退を決めていた小野川は、横綱として相撲を取ることはなかったが、同年九月、京都で京都・大阪合併春相撲(十日間)が行われた際には、東京から大阪に帰参した不知火光右衛門とともに横綱として番付に載り、横綱土俵入りも披露している。
この合併相撲の優勝力士は大阪方最高位の大関にして同県人の梅ヶ谷(九勝〇敗一預)であり、千秋楽の横綱土俵入りを最後に現役を去る小野川の花道に彩りを添えることになった。
合併相撲が開催された八坂神社北林拝領地は、明治二年十一月に明治天皇から京都相撲一行に興行地として下賜された土地である。北林が拝領地となったいきさつは、慶応四年一月、鳥羽・伏見の乱の勃発までさかのぼる。
この時、反乱鎮圧に向かった山陰鎮撫総督西園寺公望率いる官軍に錦旗と総督旗を掲げて同行した京都大関華ノ峰善吉は各地で奮戦し、会津征討でも手柄を立てた。華ノ峰の軍功と京都力士団が尊王派に協力的だったことが高く評価され、明治元年十月、明治天皇の東京入りに当たって京都力士団に錦旗棒持の御下命があった。力士団は菊の御紋の入った羽織りをまとって天皇旗を掲げながら東京高輪大木戸まで一行を先導したが、すこぶる恰幅の良い集団だけに、かつての大名行列に勝るとも劣らぬ華やかな行列だったことだろう。
これらの功績により、京都相撲は八百八十坪の御領地を拝領するとともに、皇族や西園寺公ら京都の貴族たちの支持を受け、再び栄華を取り戻したのである。明治二年の版籍奉還により大名たちが領地を失い、かつての江戸相撲のお抱え力士が食い扶持を失ったことも、京都・大阪に相撲人気が集中する要因の一つとなった。
明治四年七月、京都相撲が小野川の後釜として大関兜潟弥吉を二代横綱に推挙すると、大阪相撲も八陣信蔵(明治四年七月)、高越山谷五郎(六年七月)と立て続けに横綱を誕生させ、相撲人気を煽った。
ところが、この三名の横綱はいずれも京都五条家の公認によるものであり、熊本の吉田司家はこれを認めていなかった。たまたまこの時期は東京相撲の人気が凋落し、吉田司家の権威も地に落ちていたこともあって、明治七年十月、難波で行われた東京・京都・大阪の三都合併相撲の際にも京都・大阪の横綱はそのまま横綱として取組みを行ったが、明治十七年の天覧相撲を機に、東京相撲が人気を取り戻すと、五条家発行の横綱免状は正式なものとは見なされなくなり、それまでに推挙された関西横綱は全て公式記録から抹消されていった。
横綱免許が現存しているにもかかわらず、それを取り消すというのは一見暴挙のようにも思えるが、小野川、兜潟、高越山は横綱とは名ばかりで本割りの土俵に上がっていないこともまた事実である。力士としての力量にしても、先述の華ノ峰(大関)あたりで東京の平幕程度の実力であることから、京都・大阪の横綱の実力を番付通りに受け取るわけにはゆかない。
また不平士族の反乱などで政情が不安定だった明治初期には、東京相撲を離脱した高砂一派などが地方巡業の目玉として勝手に横綱を名乗らせて土俵入りを行った「自称横綱」も多かった。そういう意味では、正式横綱とそうでない者を選別するために、吉田司家による免状のあるなしで、線引きしたのもやむを得ないのではないだろうか。
明治三年の京都・大阪合併相撲で、東の小野川に対し西の横綱を張った帰阪力士の不知火が第十一代横綱として現在も認められているのは、江戸相撲で活躍していた文久三年(一八六三)に吉田司家から横綱免状が許されていることによるものだ。
それでも小野川が京都相撲最初の横綱として綱を締めて土俵入りを披露した事実が消えるわけではない。
親方として後進の指導に当たることになった小野川は、師匠追手川の娘常を娶っているだけあって角界における人望も厚く、慶応四年の春に京都相撲に加わった時にはすでに百余名の弟子を引き連れていた。しかし小野川は弟子たちの出世した姿を見ることなく明治六年に潰瘍で急逝した。
やがて小野川は忘れられた横綱となったが、明治二十六年(一八九三)、かつての弟子たちが集まって故郷久留米に立派な顕彰碑を建立した。この記念碑は現在も浄土宗九州総本山善道寺の境内にある。
小野川は明治時代の横綱でありながら肖像写真は未確認のため、錦絵でしかその雄姿を拝むことができないのは惜しまれる。幕末の巨人力士というと、手形は残っていても、体型は想像の域を出ないため、小野川のような一九〇センチ超級の力士の姿には大いに興味を引かれるところだが、比較的近いところでは横綱旭冨士とほぼ同じサイズであることから、均整の取れたすらりとした体型だったと想像する。
京都横綱とはいえ、横綱というのは相撲という国技の最強力士の称号なのだから、大変な名士であり、記念写真くらい撮られてしかるべきである。江戸末期に引退した郷土出身の先輩横綱雲龍や、小野川と阿波で同門だった横綱陣幕や鬼面山の写真は現存しているだけに、どこかに埋もれているはずなのだが・・・