第8話 暴発する火縄銃 大達 羽左衛門(1853-1904)
明治の初期は政権交代、文明開花、身分制度の撤廃など社会が慌ただしく変化を遂げていた時期であり、天下泰平の江戸期に比べると、特権階級も庶民も相撲のような娯楽にうつつを抜かすどころではなくなっていた。そんな相撲存亡の危機を救ったのが、歴代横綱中最高勝率を誇る大横綱梅ヶ谷の活躍だったが、その最大の好敵手として相撲人気をさらなる隆盛に導く立役者となったのが大達である。ライバルといっても、力士の鏡といってもいいほどの人格者である梅ヶ谷に対して、しくじり先生の見本のような大達は完全な悪役だったが、この男不思議な魅力があった。
横綱朝青龍が品行の悪さが原因で事実上角界を放逐されたことは、世間を驚愕させる「事件」だっただけでなく、二百年を超える相撲の歴史に大きな汚点を残すこととなった。下っ端の力士が粗相をやらかして処分されることはたまにあっても、角界の頂点に君臨するような力士が、自らその地位を棒に振るような振舞いに及ぶはずもなく、仮に人間性において問題があったとしても、興行上、看板力士に鉄槌が下されることはまずありえなかったからだ。
その後、大関琴光喜他幕内力士数名が八百長の疑いで廃業させられたが、琴光喜の場合は金銭トラブルや暴力団との関係が自らの首を絞める要因となったもので、力士としては品もよく好感度も高かった。
それに比べて朝青龍は土俵の外での暴力沙汰に留まらず、仮病を使って相撲をさぼってサッカーに興じたり、土俵上で横綱らしからぬ品のない所作を繰り返すなど、完全に悪役キャラだった。
しかし、その朝青龍さえも「ヤンチャ坊主」に見えてしまうほど土俵の内外で傍若無人に振舞い続けた力士がいた。それが明治の角界随一の無頼漢、大達羽左衛門である。
山形県鶴岡市の農家の次男坊として生まれた大達こと諏訪弁治は、子供の頃から腕力が強く性格も粗暴だった。地元出身の人気力士朝日嶽鶴之助に目を付けられ、明治六年に立田川部屋から「大楯」の四股名で初土俵を踏んだが、縦社会の重圧に耐え切れなかったのであろう、早々に脱走してしまった。
大酒飲みの大達は、越後方面を放浪したあげくに尾州河内屋という酒造の食客となり、村相撲の強豪として気ままな生活を送っていたが、明治十年に地方巡業にやってきた高砂浦五郎の目に留まり、師弟関係を結ぶ。
ところがこの話がたまたま同地に巡業にきていた朝日嶽(当時大関)の耳に入った。
当時の高砂は、東京相撲会所の独善的運営方針への反発から、「高砂改正派」という独立した一派を率いて名古屋を中心に興行を行っているアウトローであった。そのため、大達のかつての師匠である朝日嶽としては、高砂相手には引けないところがあり、大達を強引に立田川部屋に復帰させようとした。
この世界では一度師匠から破門されたが最後、元師匠の許可なくして力士としては復帰出来ないという規則があったが、大達は自分を呼び出した朝日嶽の前でお詫びのしるしとして髷を切って坊主にり、高砂のもとに去っていったのである。これは弟子が師匠に絶縁状を叩き付けたも同然の行為であり、本来なら大達の力士生命は終わりである。にもかかわらず大達が土俵に返り咲けたのは、対立関係にあった東京会所側も、これ以上いがみ合うより総勢百名を超える高砂一派と合併した方が人気面でも興行面でも大きなプラスとなると考え、明治十一年二月に和解合併が成立したことによる。
これによって大達は同年五月場所から幕下付出として土俵に戻ることが出来た。大達羽左衛門を名乗るようになったのはこの時からである。
再起後の大達は、明治十三年五月に新十両、十四年七月の東京・大阪合併相撲では入幕前にもかかわらず十戦全勝で優勝と早くも大物ぶりを見せている。
十五年五月に新入幕、十七年五月には初優勝と順調に出世の階段を昇っていった。一七六センチ一二〇キロの大達は筋骨隆々としたゴリラのような身体つきで、「火縄銃」の異名を取る突っ張りの威力には目を見張るものがあった。ただし、強さはピカ一であっても土俵上のマナーは悪く、仕切りは中腰立ちのうえ、片方の拳を相手の目の前に突きつけるという挑発的なものであった。
しかも、いきり立って突っ込んで来る相手の首を両手で挟みつけて捻り倒すという荒技「徳利投げ」が得意技とあっては、相撲というより喧嘩に近い。明らかに力量差のある稽古場の若い衆ならともかく、幕内力士の首をつかんだまま「いいか、ゆくぞ」と声を掛けてから投げ飛ばすというのは並大抵の腕力で出来ることはない。
平成二十九年秋場所、十両の安美錦が昭和三十年の決まり手制定以来、幕内の取り組みでは初となる「徳利投げ」を決め、インターネット上で繰り返し再生されるほどの話題となった。
この一番は琴勇輝に押し込まれた安美錦が土俵際で体を開いて突き落とし気味に決めたもので、相手の突進力を利用して無意識に放った逆転の一手だった。
大達は現代ならば何十年に一度の荒技を意識的に連発していたのだから、豪快な「徳利投げ」見たさに回向院に通ったファンも少なくなかったはずだ。
合同稽古の時など、大関から三役クラスを並べて「さあ、かかってこい」と五人掛け、十人掛けを平気でこなしていたというから、全盛時は太刀山クラスの実力はあったに違いない。あの双葉山でさえ、巡業中に幕内力士相手に十人掛けをやったところ、最後までたどりつかずに土俵を割っているように、この荒行を成し遂げるためには、絶対的な強さだけでなく、集中力と持久力も必要である。大達は力士としての力量もさることながら、集中力が素晴らしく、土俵上では一度しか水を付けず、後は相手力士が仕切り動作に入るまで微動だにせずそんきょしたまま待っていたという。
まだ制限時間が設けられていなかった時代だけに、大達は長ければ十分以上も集中力を切らすことなく瞑目していたということになる。土俵の上でこそ機敏な大達だったが、平素は動作が非常にスローモーで象のようにのっしのっしと歩くため、両国橋を渡るだけでも十四~五分も要したというから、性格的にじっと待っていることも苦にならなかったのだろう。
一人で一斗樽を平らげるウワバミぶりと荒っぽい相撲は土俵の悪役にふさわしく、本人もまた嫌われ者に徹している感があったが、十七年三月の天覧相撲における大達対梅ヶ谷の一番は、梅ヶ谷一強時代が続きやや人気も頭打ち気味だった角界に新風を吹き込むとともに、稀代の無頼派が個性派の人気力士として認識されるきっかけとなった。
明治十七年三月十日、芝の延遼館で行われた天覧相撲は維新相撲史上最大の盛事で、本割では横綱梅ヶ谷が大関楯山を叩き込みで破り、前頭三枚目の大達は小結剣山と引き分けたが、明治天皇の「お好み」として七番が追加されることになり、その目玉が梅ヶ谷と大達の対戦であった。
次の五月場所では三役昇進が確実とはいえ、番付上はまだ平幕の大達がこの大舞台で横綱と対戦するなど、本来ならば絶対にありえない。天皇直々の指名があってこそ実現した好取組であり、天皇はそれほど大達の実力をかっていたということになる。何しろ梅ヶ谷は歴代二位(当時)の五十八連勝を記録したほどの大豪で、最近八年間で負けたのは一度だけという無敵ぶりである。去る一月場所の初対決でも大達を一蹴しているだけに、大達の不利は歴然としていた。
ところがこの対戦は三十分を超える熱戦となり、両者がっぷり四つに組んだまま二度の水が入っても決着がつかなかった。取り組み終了後も、梅ヶ谷にまわしに食い込んだ大達の指が麻痺してしまって開かず、一本一本指を広げてもらってようやく離れることが出来たというほどの力勝負だった。
当時の天覧試合は天皇に対して尻を向けるのは御法度という不文律があり、両者の動きが制限されていたにせよ、無敵の梅ヶ谷を平幕力士がこれだけ苦しめたことで、この一番は巷でも一躍話題となり、本場所ではないにもかかわらず、今日でも大相撲史上の名勝負の一つに数えられているほどだ。まさに明治天皇の相撲に対する並々ならぬ思い入れのおかげと言えよう。かくして明治十七年五月場所は、梅ヶ谷と大達の優勝争いが大きな見所となり、回向院は連日大盛況となった。
五月場所七日目、ついに両者が対決の時を迎えた。ここまで梅ヶ谷は六戦全勝、対する西小結大達は五勝一分である。立ち合いは大達が先手を取り、筈押しから一気に前に出るが、土俵際で梅ヶ谷が残り、そこから猛然と突っ張り合いに転じる。馬力に勝る大達が梅ヶ谷の体を起こして二本差しになるも、これを閂に絞り上げる梅ヶ谷。腕が伸び切ってしまった大達は前に出ようにも出られず、ついに水入りとなった。
勝負が再開すると、大達は離れ際の徳利投げで勝負に出るが、これを踏ん張った梅ヶ谷に懐に入られ、四つに組まれてしまう。劣勢に立った大達はじりじりと前に出る梅ヶ谷を食い止めるのが精一杯の状況だったが、やがて制限時間となり、控えの柏戸と検査役の勝ノ浦が手を上げて引き分けの合図を送った。ところが、行事の木村庄三郎はこの熱戦に集中するあまり合図に気がつかない。
梅ヶ谷は引き分けと思い込んで一瞬気を抜いたのかもしれない。いきなり組み手を振りほどいた大達は間髪入れずに梅ヶ谷を突き上げると、そのまま「火縄銃」の連打を浴びせ、一気に東の土俵下に突き出してしまった。
久々の敗戦で連勝を三十五でストップされた梅ヶ谷が呆然と立ち尽くすのを尻目に、割れるような大歓声の中、得意満面の大達は、嬉しさのあまり締め込み姿のまま高砂部屋まで歩いて帰っていったという。
よもやの敗戦に気落ちした梅ヶ谷が、翌日も破れて優勝争いから脱落すると、その後も勝ち続けた大達が八勝〇敗一分で初優勝を飾った。まさに象徴的な王者交代劇であった。
五月場所後、西大関楯山が引退を表明し、大関の座が一つ空くことになった。横綱が名誉称号だった当時、横綱梅ヶ谷も番付上は東大関であり、西大関が不在というのは興行上好ましくない。とはいえ関脇の大鳴門も西ノ海もとても大関に昇進出来るような成績ではなかったため、異例ながら小結の大達の大関昇進が最も妥当と見られていたが、意外にも西大関の座を射止めたのは、この場所五勝二敗一分一預の西ノ海であった。
後に横綱となる西ノ海は、大達より一歳年下だが、出世は早くすでに三役は三場所目だった。それでも二場所通算十四勝一敗二分一預という梅ヶ谷を凌ぐ成績を残している大達と比べると、人気・実力ともに明らかに格下である。その西ノ海が先に大関になれたのは、当時は角界も政財界同様に薩長の藩閥が幅を利かせており、鹿児島出身の西ノ海には政財界に同郷の贔屓筋が多かったことと、すでに角界の最高権力者となっていた高砂も、独立当初から苦楽を共にしてきた西ノ海に対する思い入れがあったことなどによる。とはいうものの、直情径行型の大達にこのような理不尽は受け入れられるはずがなかった。
気色ばんで親方に直談判したところ、「まあ、そう慌てるな。お前の実力なら、いつでも大関になれるじゃないか」とたしなめられ、怒りは頂点に達した。なんと激憤した大達は師匠を思い切りぶん殴ったのである。
これが一般人なら大達の拳一発で人事不省に陥ってもおかしくないところだが、さすがに元力士で血の気の多い高砂のこと、隣の床の間に置いてあった日本刀をつかんで戻ってきた。一目散に伊勢ノ海部屋に逃げ込んだ大達は、即日高砂から破門されてしまった。現役最強力士が親方を殴って破門とは相撲興行始まって以来の不祥事であろう。しかも破門はこれで二度目である。
それでも幕末以来の角界の重鎮である伊勢ノ海の取り成しで、大達の破門は取り消しとなり、伊勢ノ海部屋への移籍ということで片がついた。高砂理事も大達の商品価値が十分にわかっていたからこそ伊勢ノ海の説得に応じたのだろうが、実際は西ノ海を強引に大関に推挙した後ろめたさも多少はあったに違いない。
それにしても大達の傍若無人ぶりは常軌を逸している。その前にも物言いが入る際どい勝負を負けにされた大達が土俵上から検査役に因縁をつけていたところ、肩を抱いてなだめようとした高砂を振りほどいて土俵下に突き落としたこともあるのだ。
土俵上でも格下相手を小馬鹿にした態度を取るため、十九年夏場所には頭にきた友綱良助から髷をつかまれて土俵上を引き摺りまわされたこともある。本来なら、髷をつかんだ友綱の反則負けだが、よほど大達の態度に目に余るものがあったのだろう。この取り組みは無効となり両者休場扱いとされた。
相撲会所の中では独裁者的振る舞いの多かった高砂がこれほどの問題児をさっさと土俵から追放しなかったのは解せない。しかし指導者としては厳しくとも弟子に対する思い入れも人一倍だったという高砂にとっては、超一級の力量と子供のような癇癪持ちが同居した大達は、「憎みきれないろくでなし」といった存在で、これほどの力士を自身の一存で葬り去るのは憚られたのだろう。
破門騒動もあって、大達は優勝力士でありながら翌十八年一月場所の番付では幕内番外に張り出されるという、異例の降格処分を受けている。土俵の外のトラブルで出場停止などの謹慎処分を受ける力士はいても、不祥事が番付編成に直接反映されたのは大達の他にはいない。
またしても首がつながった大達は、伊勢ノ海の恩に報いるべく十八年夏場所も梅ヶ谷と引き分けるなど、その実力を十分に披露し、七勝一敗一分で二場所連続優勝を果たしている。これほどのトラブルにも動じずに連覇というのは相当な精神力である。これで幕内番外から一足飛びで関脇に番付を上げた大達は五月場所も制覇し、場所後に大関に推挙された。
大達の全盛期は十七年から二十年にかけてで、この間に優勝四回に同点一回、勝率も九割を超えるという磐石の強さを誇った。
二十年五月場所に優勝した頃には、横綱は時間の問題と思われていたが、綱取りのかかった二十一年一月場所から四場所連続全休してしまい、あっという間に平幕にまで落ちてしまった。
勿論主要因は酒で、もはや自業自得という他はない。逆に出世争いでもたついていたライバル西ノ海は、大達が平幕時代の二十三年一月に横綱に推挙されており、明暗をくっきりと分けた。
大達以降の力士で四度以上の優勝経験を持ちながら大関止まりだったのは、明治末期の荒岩(優勝六回)と近年の魁皇(優勝五回)だけしかいないが、後の二人が好不調の波が激しかったのに比べると、大関時代には毎場所のように優勝争いに絡んでいた大達が綱を張れなかったのは、やはり品格に問題があったのではないだろうか。
さすがに肝臓を病んでからは節制に務め、三十九歳(二十六年六月)まで幕内に留まれたのは大したものだが、遅きに失したと言えよう。若い頃から粗野で横暴なところがあり、協会の覚えこそ悪かったが、性格的にはむしろ根アカで負けが込むようになってからも卑屈になることなく、いつも堂々としていた。
力士生活も終わりの頃、取り組みが終わった大達が歩いて帰っていると、通りすがりの相撲ファンから「関取、今日はどうでしたか」と声を掛けられた。すると大達、「今日は勝ったよ。相手が」と答えるとガハハと笑ってまるで勝ち力士のように肩で風を切って去っていったそうである。
後年はまるで勝つ気がないような無気力相撲が目立ったが、本人に力の衰えを全く気に病んでいる様子が伺えなかったことから、若手にあえて勝ちを譲っていた節もある。大達という往年のビッグネームに勝利することは、これからの力士にとって何よりもの自信になるからだ。
引退と同時に年寄千賀の浦を継いだが、宵越しの金を持たなかった大達は、晩年は恵まれず寂しい余生だったという。
一説によると、角界でも堅妻として定評のあった前妻の没後に娶った女性が大変な毒婦で、この愚妻に振り回されたあげくに財産を全て失ってしまったと言われている。大雑把な性格が仇となったのかもしれない。窮乏ぶりを見るに見かねたかつての弟子や行司に最後を看取ってもらったのは不幸中の幸いだったというべきだろう。
大達は伊藤博文から贈られた揮毫を「あんな女好きの額を飾ると座敷が汚れる」とぞんざいに扱 うなど権力者に対しても媚びへつらうことがなく、目上の者からすると全く可愛気のない男だったかもしれないが、問題を起こして部屋に居られなくなった力士の身請人になったり、反目する師弟の仲裁に入ったりと、義侠心に厚いところがあった。
大阪方の看板力士熊ヶ嶽が脱走事件を起こした時も、ほとぼりが冷めるまで大達が巡業に招き、その後、復帰した熊ヶ嶽は大阪で大関に昇進している。
前述の友綱との一件にしても、原因が大達にあったにせよ、平幕が故意に大関の髷をつかむなどということは上下関係が極めて厳格な角界では有り得ないことである。ところが大達は青くなった詫びを入れにきた年寄連中を前に、「あんな小僧のやったことなんて気にせんで下さい」とどこ吹く風だったという。
角界きっての豪傑という勇名に加えて、優勝六回という横綱級の実績を残しているだけあって、親方となった後も若い力士たちからは慕われていたが、協会側の人間でありながら現役力士を擁護する立場に立っていたため、協会からは疎んじられていた。
土俵の上では悪役でも、弱きを助け強きをくじくのが大達の本懐だった。
大達と梅ヶ谷の本割での対戦成績は大達の一勝一敗一引分の五分だが、天覧試合では引き分け、外場所(のちの準本場所のようなもの)では一敗となっており、大達が梅ヶ谷に勝ったのは一度だけということになる。それでいて大達人気が沸騰したのは、強すぎて面白くない梅ヶ谷を苦しめる力士を相撲ファンたちが心待ちにしていたからなのだろう。それも規格外の荒っぽい相撲を取る無頼力士という善と悪のコントラストも絶妙である。白鵬の一人勝ちの時代にこんな力士が現れたら、相撲も若貴時代並みに盛り上がっただろうに。