第7話 土俵の千両役者 鳳 谷五郎(1887-1956)
鳳は大正時代に最も人気があった力士だが、横綱としての評価が低いのは、”横綱らしい”受けて立つ取り口に変えたことで、得意技を封印した形になり、横綱らしい成績を残すことができなかったからだ。それでも得意の掛け投げで巨漢力士たちを翻弄していた頃の人気ぶりは、今でも好角家の間では語り草になっている。まさしく土俵の千両役者だった。
鳳谷五郎こと本名瀧田明は、明治二十年四月三日、千葉県印旛郡印西町の農家に生まれた。父丹治は東京相撲で三段目までいった元力士で、廃業後郷里に戻ってからは宮相撲の大関を張っていた。
そんな父が、同郷の関取鳳凰(最高位大関)に息子を託したのが、明治三十四年、鳳十四歳の時である。それまでは船橋の呉服屋に丁稚奉公に出されていたというから、もともと息子には力士になる気など毛頭なかった。それもそのはず、一六四センチ五十八キロの体躯では新弟子検査にさえ通らない。そもそも相撲に興味がなく体格にも恵まれているわけではない息子を相撲好きの父が無理やり角界に押し込んでしまったところなど、同じ千葉県出身の横綱小錦のケースと酷似している。
案の定、新弟子検査に通らなかった鳳だが、鳳凰が「アンコ(新弟子)ではなく、小僧扱いで」と言って面倒を見てくれることになった。相撲部屋では関取の付き人などを務める下っ端力士のことを「フンドシ担ぎ」というが、鳳の場合はそれ以下の雑用係であった。両国の相撲協会まで食料を貰い受けに行くのが日課で、毎日のように米と袋からあふれんばかりのタクアンを抱えて行き来していたせいか、近所の子供たちから「タクアン担ぎ」とからかわれ、随分辛い思いをしたという。
おまけに入門してからも身体はなかなか大きくならず、炊事の手伝いに来ていた鳳凰の姪から「トウモロコシ」というニックネームを付けられるほど線が細かった。
そんな鳳がようやく初土俵を踏んだのが明治三十六年五月場所からである。この時すでに四股名は師匠の一字を与えられ「鳳」と決まっていたが、番付作成業者が間違って「大鳥」としてしまったことから、明治四十年五月場所まではその四股名のまま相撲を取っていた。
小柄ながら負けん気が強く稽古熱心な鳳は柔軟な身体を生かした技の相撲に活路を見出し、「鳳」と改称して二場所目となる四十一年五月場所には早くも新十両に名を連ねている。ところが、新弟子検査の段階でつまずくような少年を見捨てることなくここまで導いてくれた大恩人の師匠は前年に亡くなっており、晴れの姿を見せることは叶わなかった。
十両をたった一場所で通過した鳳は、未曾有のスピード出世と騒がれた小錦の二十二歳をさらに上回る二十一歳の若さで入幕を果たしている。この時、一七七センチ八十五キロである。現代より力士が全体的に小柄な当時でも、この体格はいかにも貧弱である。その鳳が、幕内力士として臨んだ四十二年一月場所の初日はとんでもない相手との取り組みが待っていた。その相手とは、後に大横綱として歴史に名を刻むことになる太刀山の最強のライバルと言われ、この時点では一足先に大関になっていた駒ケ獄であった。
一八七センチ一三七キロ、南大門から抜け出した金剛力士像のような雄大な体躯を誇る駒ケ獄は、色白で華奢な鳳とはまさに好対照な容姿の持ち主である。その腕力たるや、幕内随一の怪力を誇る太刀山にすら引けを取らず、得意の組み手が鳳と同じ左四つとあっては、常識的に考えれば鳳の勝機はない。ところが、この無謀とも思える対戦を制したのは鳳の方であった。組んでよし、離れてよしの駒ケ獄も、鳳のスピード豊かな取り口にすっかり翻弄されたあげく、焦りからか勢い余って肩すかしをこらえきれずに前に落ちてしまったのである。過去三年間の敗戦がわずかに五つ、その間の勝率八割六分一厘という横綱級の大関を新入幕の力士が破るというような番狂わせはそう滅多にあるものではない。
この一番をきっかけに鳳に苦手意識を持ってしまった駒ヶ獄(通算成績でも二勝四敗二預)が、横綱へ足踏みを続ける一方、美男にして華麗な相撲で観客を魅了した鳳は一躍一日に数十通ものファンレターが舞い込むほどの人気力士になり、明治四十三年に関脇、大正二年に大関と、着実に出世の階段を昇っていった。
大関時代でも一七九センチ一〇〇キロそこそこの軽量だった鳳が、並み居る強豪を土俵に這わせた必殺技こそ、鳳の代名詞になった「ケンケン」すなわち掛け投げである。
そもそも掛け投げという技は、相手を吊り上げるように右でまわしを引きつけてから、柔道の内股のような要領で太股を跳ね上げるようにして下方へ浴びせ倒すものだが、まだ身体の出来ていない幕下以下の力士ならともかく、堂々たる体躯の関取クラスになると相手が余程バランスを崩している時以外は、そうそう決まるものではない。
ところが鳳の掛け投げは、たとえ一気に浴びせ倒すことが出来なくても、片足立ちのまま強引な小手投げを続けさまに打って、最後には相手を土俵に横転させてしまうという独特のものである。
いくら体重が重く腕力があっても、腰が伸びた状態で片足立ちになってしまうと、バランスが崩れて力が出せないため、鳳のような軽量な力士でもこの体勢になれば体格のハンデはないに等しい。そのうえ上体が柔軟で下半身のバランスが抜群の鳳は、右足を相手の左足に絡めたままケンケンをしながら長時間攻め続けることが出来るため、日頃練習することのない片足立ちを強いられた相手は、何の技も出せないまま防戦一方に追い込まれてしまう。
鳳のケンケンががっちり決まってしまえば、相手はもはや勝ち目がないも同然で、観客は鳳が勝ち名乗りを受けるまで派手なサーカス相撲をじっくり楽しむことができた。
明治四十二年十一月、博多で東京方と大阪方の合併興行が行われた時のこと。当時、北九州は極端な大阪相撲贔屓だった。中でも大阪大関大木戸の贔屓筋には地元の親分衆が多く、東京方の力士に対して「命が惜しかったら大木戸を負かさぬことだ」と凄みを利かせていた。
というのも、大木戸は大阪ではここ三場所連続優勝しているほどの実力者だったが、一度吉田司家に横綱免許申請を却下されており、親分衆としては合同興行で好成績を残すことで、吉田司家を納得させる必要があったからだ。そういう不穏な空気を察してか、東京方の横綱大関陣がいずれも大木戸と引き分けで
お茶を濁す中、翌場所の関脇昇進が決定している新進気鋭の鳳だけは真っ向勝負で立ち向かった。
立ち合いからすぐさま右上手を取った鳳は、そのまま右足で内掛けにゆき、得意のケンケンで土俵上を引きずり回したあげく西土俵に寄り切った。見るからにいかつい大木戸を色白の優男が投げ飛ばしたのだからたまらない。観衆は総立ちとなり、場内は座布団や羽織はまだしもビール瓶や火鉢までが飛び交う大混乱に陥った。
桟敷に陣取っていた筋者たちはドスを抜いて鳳に殺到したが、かくなる事態を警戒していた数十名の巡査が、「九州のゴロツキが何だ!力士が土俵の上で殺されるのは本望だ」と声を荒げる鳳を護衛して場外に連れ出し、事なきを得た。波乱の合併興行も、終わってみれば六日間全勝は鳳一人で、大阪方は散々な成績であった。
新大関で迎えた大正二年一月場所、七勝〇敗一分一預一休の好成績で初優勝。当時最強を謳われた太刀山が休場していたため、まぐれという声もあったが、横綱常陸山、大関駒ヶ嶽といった大物を撃破して十日間土付かずというのは、実力なくしてはありえない。生涯で十五敗しかしていない常陸山はこれで鳳戦二敗目を喫し、密かに引退を決意したという。
軽量の鳳は、四つ相撲では不利であることを早くから悟っており、その対策として常に身体を動かし続ける相撲を心がけていた。スピードと柔軟性だけで見れば、同時代の栃木山や福柳も鳳に引けは取らなかったが、鳳は身体が触れた瞬間から重心を移動させながら小刻みに投げを打つなどして、相手の突進力を受け流す技術に長けていた。しばしば「ゴムまりのような反発力」と例えられたのは、相手が自分の勢いで投げ飛ばされるような感があったからで、大柄で動きが直線的な力士ほど鳳の連続技で重心を崩され、呆気なく土俵を割ることが多かった。
相手に攻め込まれながらの肩透かしやすくい投げによる土俵際での逆転勝利も鳳の見せ場の一つだったが、彼の引き技はいわゆる消極相撲とは違って勝利のための伏線であった。
引き技は相手に動きを読まれたり、タイミングを誤ったりすると自ら土俵を割ってしまうリスクが伴うが、鳳の場合は引き技に乗じた相手が体を寄せてくれば、逃げると見せかけて足を絡めながら半身でケンケンの体勢に持ち込むのが上手く、肩透かしやはたきこみが決まらず、相手を懐に呼び込む不利な体勢になったとしても、常にそこまで想定しているため相撲に余裕があった。
相手に追い詰められてあたふたしながら捨て身の引き技で勝っても、勝ち名乗りを受けた当人はもちろんのこと、観客も「相撲に負けて、勝負に勝った」という見方しかしないのが一般的だが、鳳は捨て身ではなく計算ずくで次々と技を繰り出し、攻めてくる相手を蟻地獄に誘い込むような懐の深さが持ち味だった。このように一見悪あがきのような技を布石として打っておいてから逆転してしまうような相撲を見せたのは鳳が最初で最後であろう。
その一連の動作が流れるように優雅だったことで、魅せる相撲を取れる力士として独自の地位を築いていったのだ。
明治四十五年一月場所、初めて常陸山を破った一戦などまさにその典型で、立ち上がり、押し込みながらの蹴返しは誘い水だった。常陸山は素早く左下手を取ったものの、足技を警戒してか、一気に寄らず、腰を落として出方を伺っていたところ、鳳がそこから半身になって小手投げを三連発繰り出すと、重心が後方にあった常陸山は足がついてゆかずにバランスを崩し、土俵を割ってしまった。
続く五月場所も八勝一敗一分と健闘するも、休場明けの太刀山が十戦全勝と再起したため連覇はならなかった。横綱に推挙されたのは、大正四年一月場所に十戦全勝で二度目の優勝を飾ったことによるものだ。
大関時代は三十六勝四敗で勝率は九割に達しているため、星勘定では横綱の資格は十分だったが、直前の場所が三勝一敗六休ということもあって、時期尚早の声も少なからずあった。
それでも御大常陸山が土俵を去り、梅ヶ谷(二代目)も引退間近(同年六月に引退)という時期も幸いしたのであろう、強すぎて不人気の太刀山の対抗馬として、当代一の人気力士鳳は史上三番目となる二十七歳の若さで綱を締めることになった。
若くて強くて美男と三拍子揃った鳳の人気は、昭和の名大関貴乃花(初代)を凌ぐほどで、ブロマイドも飛ぶように売れたという。妻女の福は、モテ過ぎる夫の醜聞を恐れて芸妓や記者なども含めて女性とは絶対二人きりで逢わせないようにしたため、ファンの女性たちから白眼視されたそうである。
男性タニマチたちの入れ込みようも相当なもので、明電舎社長の重宗芳水に至っては、鳳の横綱昇進の祝儀に二十万円も包んだというから驚く。横綱の退職金が一万円の時代だから、現在なら数億円といったところだろうか。
面白いところでは株屋の中にも贔屓が多かった。これは鳳という四股名が縁起が良いという理由によるものだが、平等院鳳凰堂を彷彿とさせる華麗な四股名だけに、確かに金銭に関する御利益がありそうな気はする。
とにかくその人気ぶりは桁外れで、引退後の年寄時代でさえ、日に二、三十通ものファンレターが届いたほどだ。もちろん入門希望者も後を絶たず、どの部屋も力士不足に泣かされた終戦直後でさえ、弟子集めに苦労することはなかった。
横綱になった頃から体重も急増し、一七九センチ一二四キロという均整のとれた体つきになったが、その頃から糖尿病を患い休場が多くなった。しかも、横綱になってからはお家芸のケンケンも見られなくなり、平凡な力士になってしまった。これは、常陸山のような正攻法の取り口こそ横綱相撲という一般認識の中、先手必勝型の業師だった鳳が受けて立つスタイルに切り替えたことによるものだ。
相手に先手を取られると分が悪いにもかかわらず、あえて不得手な四つ相撲に固執したことが、結果的には自身の土俵人生を縮めてしまう要因となった。
鳳はなまじ横綱に昇進したばかりに、「弱い横綱」のレッテルを貼られてしまった。しかし、それは取り口を変えたからであって、変幻自在の攻撃相撲を取っていた頃の鳳は、全盛期の常陸山さえも手こずらせたものだ。とにかく「ケンケン」に持ち込みさえすればいかなる相手も万事休すで、そこから繰り出す切れ味の鋭い投げ技は見る者を魅了する美しさがあった。
鳳より一場所遅れで横綱に昇進したライバル西ノ海(二代目)には一勝四敗三分三預と負け越してはいるが、預かりの三番はいずれも行司軍配は鳳に上がっており、中には行司が検査役に反発する一幕もあった。大正期は最高権威の出羽海から物言いがつくと検査役が忖度する傾向があったため、当時の好角家の多くは数字とは裏腹に西ノ海は鳳に苦戦を強いられていたという印象を持っていたようだ。
大正八年夏場所は三勝六敗一休という横綱としては史上最低レベルの成績に終わっているが、上位力士に対してだけは開き直ったかと思えるような本来の変則相撲を見せている。
出羽海部屋の三強のうち、常ノ花(関脇)、大錦(横綱)を優勝戦線から引き摺り下ろした鳳は、千秋楽にここまで全勝の栃木山と対戦した。横綱昇進後は受ける相撲に徹したことで立ち遅れを突かれる相撲が多かった鳳が、左を差したと同時にとったり気味に振り回すと、さすがの四連覇中の大横綱も足が地につかず、立っているのがやっという状態で防戦一方になってしまった。
栃木山が崩れそうで崩れないことに業を煮やした鳳が、ここで褌を引きつけて土俵際まで寄って出たのが失敗だった。徳俵で踏ん張った栃木山が怪力で打っ棄ると、腰が伸びた鳳はついに土俵を割ってしまった。栃木山にとっては薄氷の逆転勝利だった。
引退直前の場所ですら、得意の変則相撲で臨めば、当時の角界最強の力士をあわや三タテという素晴らしい相撲が取れたことを考えると、鳳がケンケンを封印しなければ角界の勢力図は大きく変わっていたかもしれない。ケンケンを封印した鳳は窮余の策として、押し込まれるととったりを多用するようになったが、体重が増えた分身体のキレが悪くなり、かえって相手を呼び込んで自分が土俵を割るという自滅的な負けが目立ち始めた。
ケンケン、と言えば、鳳の引退から約二十年後の昭和十年前後にこの技で土俵を沸かせた加古川仁之介という平幕力士がいた、いなせな男前だった加古川は鳳に負けず劣らず女性からモテたが、玄人から素人まで、挙句の果てには人妻にまで手を出す乱行ぶりがたたって力士としては大成しなかった。
その点鳳は真面目で普段は口数も少ない穏やかな好青年だったが、酒が入ると人が変わるのが玉にキズで、酩酊状態で横綱土俵入りを行い、土俵に尻餅をつくという大失態を演じたこともある。
年寄時代には、喧嘩早いことで有名だった横綱玉錦に酒の席で絡んだ挙句に殴り飛ばされているが、お互いさっぱりした性格だったため、そのあとは二人で仲良く酒を酌み交わしていたそうだ。
横綱が格下相手に立ち合いに変化したり、いなしやはたきで勝つのは少しみっともないように思うが、鳳の掛け投げは真っ向勝負であると同時に、瞬時に決着がつくわけでなく、観客は相手が鳳の蟻地獄に吸い込まれてゆくさまをじっくり堪能できるという点においても、”魅せる大技”と言っていいと思う。優勝回数が2回しかなくてもこれほど持てはやされたのは、華があったということなのだろう。