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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第57話 示現流の荒熊  名寄岩 静男(1914-1971)

名寄岩は同門対決のある明治神宮大会で双葉山を破って優勝し、師匠の立浪から叱られたことがある。巡業でも手を抜かなかった名寄岩は、いつだって真剣勝負で、力士仲間は彼との稽古を嫌がったが、「相撲を覚えたら誰も勝てないよ」と双葉山から高い評価を得るほどの逸材で、入門当初から立浪が「絶対大関になる」と周囲に吹聴しいたほどだ。

 示現流というのは薩摩秘伝の剣術の一派で、初太刀に全てをかけて斬り込む攻撃一辺倒の荒技というところに最大の特徴がある。とはいえ、戦場での多対多の斬り合いも想定しているため、二の太刀、三の太刀も一通りは学んでいるのだが、やはり一撃必殺の思いは強く、江戸末期の手練の剣士たちは、一日数時間もひたすら立ち木に上段から斬りつける練習をしていたという。

 それだけに、下手に受けても、受けた刀の鍔ごと自分の頭蓋骨にめり込んで死亡する例も少なくなかったというから、凄まじい威力だったようだ。

 駆け引きや防御を無視して一太刀に思いを込めた示現流は、泣く子も黙る新撰組の面々からも一目置かれ、実戦には滅法強い局長の近藤勇でさえ、示現流の初太刀はかわすよう隊員に注意を促していたらしい。


 時は流れて昭和の世になった。昭和十年頃から軍靴の響きが次第に高鳴り、街には軍刀を腰に下げた軍人たちの姿が目立ち始めた。幕末とは違って、彼らは市中で斬り結ぶことなどなかったが、同じ頃、土俵では薩摩示現流さながらに、愚直なまでの猪突猛進の突撃相撲で人気を博していた力士がいた。

 名寄岩熊五郎は、重量級の肉体を生かした力任せのワンパターンの取り口で、技術的には特段見るべきものがなかったにもかかわらず、努力の積み重ねだけで大関の座まで掴み取った根性の男であった。


 北海道高島郡高島村(現・小樽市)出身の名寄岩こと岩壁静男は、鍼灸師の家庭に生まれた。自らも父の後を継ぐため、夜間中学校卒業後の昭和六年四月に上京し、東京鍼灸医学校に入学した。

 当時の青少年にしては縦も横も恰幅が良かったのでたちまち相撲部屋のスカウトの目に留まり、最終的には両親が角界入りを承諾したことで、それまで全く関心のなかった相撲の世界に足を踏み入れることになった。

 相撲はずぶの素人だったにもかかわらず、稽古熱心で真面目な性格が功を奏して、初土俵から四年で関取、十両はわずか一場所で通過し、昭和十二年一月場所に入幕を果たしている。

 年二場所の時代でこのスピードは兄弟子である双葉山をしのぐものだったが、名寄岩にはスピード出世などと悠長なことを言っている余裕はなかった。入門は一年後輩ながら同い年の超新星がとてつもないスピードで後を追いかけてきていたからである。それが、後に角界で犬猿の仲と言われた羽黒山政司である。

 名寄岩は実直ずぎて融通が利かないことから、人付き合いは苦手だった。入門当初も師匠立浪が自分の現役時代に四股名にちなんだ緑浪を用意していたにもかかわらず、その四股名が格好悪いと拒んだあげくに、中学時代まで生活していた名寄の名を取って名寄岩と名乗ったのである。

 師匠がわざわざ自分の四股名の一部を取って名付けたのだから、十把ひとからげの新弟子とは違ってそれなりの思い入れがあったと思われるが、それをはねつけた名寄岩は、空気が読めない男と見なされても仕方がない。

 その点、銭湯で他人の背中を流していた三助上がりの羽黒山の方が、腰が低く要領も良いため、角界のしきたりへの順応性も高かった。

 なまじ同学年で、相撲の才能も他より秀でていた二人だけに、程なく互いを敵視するようになり、出世争いは熾烈を極めた。そのため、どちらかが不満をぶちまけることがあっても、言い争いにさえ発展しないほど、同門でありながら二人は全く会話を交わさず、死ぬまで冷戦状態だったと言われている。

 

 全盛時、一七四センチ一三〇キロほどの体格だった名寄岩は、左差しから強引に相手を引き込んでから、腹に乗せてそのまま寄るか、左から掬うのが数少ない勝利の方程式で、立ち合いで思い通りの体勢になれなければ、そこから強引に自分の型に持ってゆこうとするため、かえって自滅してしまうことも少なからずあった。

 もう少し冷静に柔軟な相撲を取れば、当たりも強く、馬力もあるだけに、格下相手の不覚の取りこぼしはもっと減ったはずだが、自分が正しいと信じた道は最後まで全うしなければ気が済まない性格が災いして、師匠や兄弟子からいくら指導を受けても、取り口のバリエーションは広がらないままだった。

 おまけに純情で馬鹿正直なところに付け込まれて、「名寄殺すには刃物はいらず」とまで言われるほど、相手のじらしや挑発に乗っては自分を見失ってしまうところがあった。そのため、若い頃は「怒り金時」と綽名され、年長の力士たちからよくからかわれたものだが、入幕から三場所で三役に昇進し、実力で口うるさい連中を黙らせていったのは見事というほかない。


 十五年五月場所四日目に対戦した大邱山は、取り組み前に支度部屋で「名寄岩など、からかって怒らせれば、いただきだ」などと大見得を切り、土俵でも一度突っかけておいて名寄岩の肩をぽんぽんと叩いて挑発したところ、名寄岩はカンカンになって怒り、ここまでは大邱山の思う壺だった。

 ところが物凄い形相で突っ込んできた名寄岩は、いなしや蹴返しを連発して身をかわそうとする大邱山を右手一本で振り回して上手投げで投げ飛ばしてしまった。バツが悪いのか土俵にはいつくばった大邱山がにやにやしているのに対し、勝ち力士の名寄岩が鬼の形相で睨み付けるという神聖な土俵上ではあってはならない観客も眉をひそめる一番だったが、大邱山は結局通算成績では一勝三敗で名寄岩には分が悪く、最高位も関脇止まりだったことを考えると、所詮は負け犬の遠吠えだったと言っていいだろう。

 思うに名寄岩は相撲が単純なぶん、たとえ瞬間湯沸機のように熱くなっても、そのぶん当たりが強くなって、力技が少々強引になるくらいのもので、冷静な技巧派力士の集中力をかく乱するほどの効果はなかったのではないだろうか。

 腕が太くて短いため、左が入っても右が取れなければ、相手の両腕を極めたまま振り回したり、相手の背中の肉を掴んで吊り出すようなことさえやってのける男である。見境いが無くなって荒れ狂った名寄岩を巧くさばききれる自信がない限りは、火に油を注ぐことにもなりかねなかった。

 とりわけ身体が大きく突っ張りを武器とする力士は、突っ張りだけでは止めきれずにそのまま土俵際まで持ってゆかれることも少なくなかった。戦前では幕内トップクラスの長身だった相模川、高登、武蔵山は注文相撲を取らないぶん名寄岩には分が悪く、同時代で最も怪力を謳われた男女ノ川でも四勝四敗の五分だった。

 

 昭和十三年五月場所は名寄岩と羽黒山がともに新三役として番付にその名を記した場所である。

 関脇名寄岩は入幕から四場所目、小結羽黒山は三場所目で、入幕から九場所かかった兄弟子双葉山より遥かに早い。

 四場所連続優勝中の横綱双葉山以下、二人の大関候補が三役に名を連ねているのだから、かつて小部屋から叩き上げた師匠立浪としても感無量だったに違いない。まさに“立浪三羽烏”の時代の幕開けである。

 ところが華やかな外面とは裏腹に、名寄岩と羽黒山の骨肉の出世争いは熾烈を極めた。

 その要因の一つは立浪が二人の出世レースを煽ったことにある。

 名寄岩と羽黒山には、先に大関に昇進した方に総領娘を嫁にやり、将来の後継者のお墨付きを与えるという暗黙の了解までできていたのだ。

 今や飛ぶ鳥を落とす勢いの立浪部屋の後継者となれば、一生食うに困らないばかりか、引退後も協会理事さらにその上まで視野に入ってくる。こんなでっかいニンジンをぶら下げて競争心を煽るとは、立浪もあこぎな真似をしたものだ。

 十三年五月場所が九勝四敗、十四年一月場所が七勝六敗の名寄岩に対し、羽黒山は七勝六敗、八勝四敗一分と、ここまでは互角だったが、まだとても大関を狙えるような成績ではない。

 ところが十四年五月場所の成績次第でカド番大関の鏡岩の引退の可能性が高まったため、二人にチャンスが訪れたのである。双方ともに大関を意識しすぎたのか、中日を終わって名寄岩が四勝四敗、羽黒山が五勝三敗、注目の鏡岩も四勝四敗では、やはり新大関の誕生は翌場所以降に持ち越しと思いきや、後半戦全敗した鏡岩が引退してしまい、十一勝四敗の羽黒山に大関の座が転がりこんできた。

 十勝五敗と白星一つの差で大関と後継者の座を取り逃がした名寄岩の失望感はいかほどであっただろうか。十五年一月場所からは熊五郎から本名の静男に四股名を変更し、大関獲りは再スタートとなった。

 

 大関昇進はほとんど運みたいなものだったにせよ、地力では双葉山に次ぐ角界NO2である羽黒山は、十六年五月場所の初優勝を土産に横綱の座に就いたが、名寄岩の方は十五年五月場所で入幕以来初の負け越しを経験するなど、土俵の上では足踏みが続いた上、私生活でも、結婚して長男が誕生した直後に離婚、と身辺も慌しく、大横綱への道を歩んでいる羽黒山との距離は広がる一方だった。

 こう書くと、人気実力共にだいぶ差が開いたかのようだが、力士としての技量は羽黒山が明らかに優れていても、人気面では全く引けをとらなかった。

 男前の双葉山は容貌でも別格としても、若い頃の名寄岩は、眉が太く、二重のくりくりとした目をしていてなかなかの美青年だったため、女性人気も相当なものだった(立浪の長女絹子が羽黒山に嫁いだ後、次女増子と名寄岩のロマンスが噂されたこともある)。

 十七年五月場所、ようやく苦労人が報われる日がやってきた。この場所終盤まで双葉山と優勝争いを展開した名寄岩は、最後は息切れして十一勝四敗で終わったものの、四場所連続二桁勝利が評価されて、照国の横綱昇進に伴い、空席となった大関の座に就くことができた。

 遠ざかっていた羽黒山の姿が再び視界に入ってきたところで、これまでがむしゃらに相撲を取ってきた名寄岩の身体が悲鳴を上げ始めた。

 双葉山を徳とする名寄岩は、痛めた箇所に包帯やサポーターを巻いて土俵に上がるのは見苦しいと考えており、普通の力士なら休場するくらいの怪我でも我慢して土俵を務めていた。しかし、さすがのタフマンも右足首の捻挫には耐え切れず、カド番で迎えた十九年一月場所四日目から初めての休場を余儀なくされ、あえなく大関から陥落。

 その後、四場所関脇に留まり、二十一年十一月場所に大関返り咲きを果たすが、これは終戦直後はどの部屋の力士も満足に食事にありつけず、体調を崩している者が多かったため、相対的にライバル不在だったことが大きい。

 昭和二十年度の東西両大関の成績は佐賀ノ花が四勝三敗と四勝六敗、前田山が一勝二敗四休、五勝五敗の体たらくである。前三場所に遡っても、関脇名寄岩の方が両大関を凌駕していたため、前者二人が揃って大関を陥落する前に協会としても手を打っておきたいという思惑があったのだろう。戦後初の二十年十一月場所、六勝四敗と平凡な成績だった名寄岩のもとに大関復帰の吉報がもたらされた。

 結果からすると、これは協会の勇み足だった。もはやこれまでと思われた前田山が狂い咲きのような再起を果たして一気に横綱まで上りつめる一方、名寄岩は左肩の挫傷に加えて、腎炎、胃潰瘍、糖尿病、脚気など内臓疾患のデパート状態に陥り、またしてもわずか三場所で大関の座を明け渡してしまうのである。

 二十三年五月場所まで十年間三役から一度も陥落することがなかった根性の男も、そこから二年間はどん底の土俵生活どころか、死と背中合わせの日々を送るはめになる。

 

 病魔にとりつかれた肉体は、努力や根性だけではどうにもならない。精彩を欠いた土俵が続き、番付はどんどん下降していった。それに伴い、マスコミからはスルーされ、贔屓筋からもお呼びがかからなくなるのは人気商売の宿命としても、妻女が結核に罹患したため、名寄岩一人で妻と幼い二児の面倒まで見なくてはならず、あわや夫婦共倒れになるところだったが、二十五年三月に旧知の日大総長呉文炳の手配で、夫婦で板橋日大病院に入院し、集中治療を受けることになった。

 入院当初、名寄岩の糖尿病はかなり進行しており、危険な状態だったが、その道のエキスパートである久代博士の献身的な治療が功を奏して、記録的な短期間で回復に向かい、わずか一ヶ月の入院で春巡業に帯同できるまでに症状が落ち着いてきた。

 病状が思わしくない妻を残しての巡業参加は気が引けたが、前場所三勝十二敗と惨敗して西の十四枚目まで番付を落とし、十両陥落の危機にあった名寄岩には選択の余地はなかった。

 大関まで昇進した力士が十両に陥落してまで相撲を取り続けるというのは、元大関の矜持を捨てるに等しい。病み上がりの身体にムチ打って、土俵に上がったのは、妻子を路頭に迷わせたくない一心からだった。

 筋肉が落ち、前髪が禿げあがった名寄岩はまるで落武者のような風貌だったが、花篭部屋の二大ホープ若乃花と琴ヶ浜を豪快な寄り切りで一蹴するなど、久々に力感に溢れた相撲を披露した。

 十一日目に勝ち越しを決めて十両陥落を回避すると、千秋楽を待たずに敢闘賞受賞が決定した。

 平幕下位で九勝六敗ではあったが、数字ではなく彼の敢闘精神が評価された結果だった。

 名寄岩の感動的ともいえる復活劇は大きな反響を呼び、引退直後の三十年一月には、池波正太郎原作の新国劇『涙の敢闘賞』が舞台上演され、相撲ファン以外の人々の間にも名寄岩の名が浸透した。

 舞台の方が評判になったため、三十一年六月には、日活から『涙の敢闘賞』のタイトルで映画化され、かつらを被った名寄岩が本人を演じている。なお、映画では病床の妻は夫の敢闘賞受賞を見ることなく亡くなったことになっているが、実際に亡くなったのは九月になってからのことである。

 過去の人になっていた名寄岩に再びスポットライトが当たったことは、宿命のライバルにとっては苦々しい出来事であったと同時に大きな刺激になったのは間違いない。

 名寄岩が不振を極めたのと時を同じくして、アキレス腱の断裂によりスランプに陥っていた横綱羽黒山が二十七年一月に五年ぶりの優勝を全勝で飾ったのだ。

 これにカチンときたのか、名寄岩も奮起し、同年七月場所に九勝六敗で二度目の敢闘賞を受賞し、こちらも五年ぶりの三役(関脇)に返り咲いている。

 二十八年一月場所、三十八歳の関脇は、九勝六敗と振るわない羽黒山を尻目に十勝五敗と奮闘したが、同年九月に羽黒山が引退すると、気抜けしたのか、そこからじりじりと番付を下げてゆき、ちょうど一年後の二十九年九月場所後に引退を表明した。すでに四十歳になっていた。

 前述のように引退後も、映画出演などで全国的に知名度が高く、春日山部屋を興した当初は名寄岩に憧れる地方の若者も多かったのだが、元羽黒山の立浪とそのシンパの親方連中が春日山と話がついている新弟子たちまで横からかっさらっていったため、弟子には恵まれなかった。

 最後の最後まで春日山を目の仇にしていた立浪は、巡業の取り分までごまかすなど散々いやがらせの限りを尽くしたが、兄弟子時津風(双葉山)の急死から十ヶ月後の四十四年十月に、協会理事長の座を目前にして五十四歳で病没した。

 名寄岩は検査役をやっていた四十年に脳卒中を患ったのを機に、第一線から手を引いてリハビリに務めていた。その甲斐あって一時的に健康を回復したのも束の間、肝臓癌に冒され、四十六年に一月に五十六歳で悲喜こもごもの人生の幕を下ろした。

 かつての立浪三羽烏はわずか二年の間に次々とあの世に旅立ってしまったのである。

名寄岩は真面目すぎて融通が利かず、要領が悪く、角界では孤立していたかのように書かれていることが多い。それでも現役時代は、数ヶ月しか通わなかった鍼灸学校の校長柳谷素霊が東京での後援会長として、健康面まで気を遣ってくれたし、戦後も呉文炳、呉直彦といった方々が公私にわたって面倒を見てくれた。ちなみに私の親族も一時名寄岩の後援会長をしていた石山賢吉の大学時代からの友人だった関係で、名寄岩の化粧回し作りのための奉加帳に三十円也を記入しているが、名寄岩は大変義理堅く、戦後になっても巡業先から頻繁にみやげを送ってきたそうだ。

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