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第6話 大阪の怪猫  猫又 三吉(1854-1909)

”猫又”とは冗談のような四股名だが、なかなかどうして、大阪では大関を務めたほどの大物力士である。現在でこそ相撲協会は一つしか存在しないが、明治、大正の頃まではは東京の他に、大阪、京都にも相撲団体が存在し、それぞれが独自の興行を打っていた。猫又が活躍していた明治初期から中期頃は、関西から西日本にかけては、大阪相撲の方が人気があったのだ。


 この力士、四股名からして珍奇だが、「名は体を表わす」ということわざ通り、一六四センチの小兵ながら、猫のように俊敏で狡猾な相撲を取った怪力士である。こんな人を食ったような四股名で仮にも大阪相撲の実質的な頂点たる大関の座まで射止めたというのだからまるで漫画である。

 現在では滅多にお目にかかれないこのような奇妙奇天烈な四股名も、江戸から明治にかけては洒落のわかる好角家が多かったのか、それほど珍しいものではなかった。それでも、文化の遠近早太郎くらいは笑えても、享保の忍山色助や宝暦の女男音之助などは今日なら協会が許さないだろう。実際、明治期の仁丹や軽気球友吉のように協会から別の四股名に改名させられた例もある。

 明治三十年代の電気燈光之介や片福面かたおかめ大五郎は、力士としての才覚はさておき結構な人気があった。電気燈はその名の通りてかてか光る禿頭で土俵に上がるだけでも笑いを誘ったものだが、頭突きで煉瓦を砕く石頭ぶりでも有名だった。また片福面は初切りで見せる「タコ踊り」という妙技があり、料理の腕前も確かだったので御大常陸山のちゃんこ番としても重宝がられた。

 とはいうものの、珍名力士は四股名で笑わせる客寄せパンダ的存在が大半である。中には明治後期の唐辛とうがらし多喜爾や寒玉子為治郎のように幕内で活躍した力士もいないではないが、寒玉子も喜劇力士と呼ばれるのに嫌気が差したのか、途中から若島と改名しているように、所詮はウケ狙いに過ぎない。

 その点猫又は、東京相撲より力量の劣る大阪相撲の力士ではあっても、足かけ七年大関を張った一流力士であった。横綱を狙える番付にまで上がりながら、もっと強そうな四股名に変えなかったのは、猫を彷彿とさせる神速機敏な相撲スタイルで人気があったことと、本人も案外この四股名を気に入っていたことによるものだろう。


 猫又三吉こと江川三吉は越中射水郡横田村(富山県高岡市横田)の出身で、明治六年、大阪の小野川部屋に入門した。明治七年七月の初土俵の時は、小猫三吉というちびっこ相撲にでも登場してきそうな四股名だった。猫又と改名したのは明治九年の大阪相撲の紛擾の際に千田川部屋に移籍してからのことである。

 入幕は明治十二年十月場所で、十六年に小結、十七年に関脇と順調に番付を上げ、十九年には三十一歳で大関に昇進している。 

 とにかくすばしっこい男で、スピード豊かな取り口で相手を翻弄した。同じく小兵名人として一時代を築き東京相撲の大関にまでなった大ノ里が基本的には正攻法だったのに対し、猫又は完全なサーカス相撲で、差し手争いで相手が前に出てくるのに合わせるように懐に潜り込んで、一本背負いで投げ飛ばすのが得意だった。

 また猫を名乗っているだけあって、猫だましも多用した。猫だましで撹乱した瞬間、低い体勢から腕や足を取りにゆく取り口は、江戸末期から明治初期に褄取りの奇手で名を挙げた両国梶之助に通ずるものがある。


 大阪と京都の相撲は関西以西ではそれなりに知名度があったが、東京相撲からすれば地方興行に過ぎず、格下に見られていた。明治三年以降、京都相撲と大阪相撲で綱を張った力士は総勢十四名いるが、そのうち後日吉田司家から横綱免許が下り、今日も日本相撲協会から歴代横綱として承認されている者は五名だけである。

 明治期は頻繁に東京・大阪・京都の三都合併相撲が開催され、大変な人気を呼んでいた。明治十二年頃までは東京と大阪の実力は対等と見なされていたが、京都、大阪力士にとっては合併相撲といえども本場所扱いであるのに対し、東京方は合併相撲には全力士が参加するわけではなく、あくまでも花相撲の一環という認識だった。したがって大阪方が東京方に勝ち越したからといって、それを額面どおりに受け取るわけにはゆかない。

 大阪大関から東京に下った梅ヶ谷が東京でも大関に昇進した十二年頃からは、梅ヶ谷を中心とした東京方の進境著しく、関西の大関クラスが東京の平幕に不覚を取ることも多くなってきた。結果、明治中期頃には東京と関西では六対四くらいの格差がついていた。

 ところが猫又はこの合併相撲で上方の意地を見せるのである。


 明治二十二年九月に開催されたこの年の合併相撲の目玉は、入幕以来負けなしの二十一連勝で目下三連覇中の新鋭小錦(小結)だった。後に入幕以来三十七連勝という大相撲史上一位の記録を樹立する小錦は、小柄でぽっちゃりとした美青年で、角界の人気を独り占めにしている感があった。この合併相撲でも八日目まで土付かずで、入幕以来の無敗記録を更新中だったが、九日目に対戦した猫又の速攻の前に非公式とはいえ幕内初黒星を喫してしまったのだ。

 小錦が本場所で初黒星を喫するのは二年後のことだから、この時の番付こそ猫又の方が上位でも、小錦は実力的には東京方の最強力士といっていい。すでに全盛期を過ぎ、この合併場所でも三勝五敗一休と冴えなかった猫又だが、相手が無敗の小錦ということで、一泡吹かせてやろうという気になったのだろう。

 小錦の差し手をつかんで懐に潜り込み得意の一本背負いの体勢になった猫叉は、投げると見せかけて足を掬い、そのまま後方に身体を預けるようにして倒れこんだ。最初は出足の早い小錦の突進力を利用して一本背負いで仕留めるつもりだったのかもしれない。ところが腰の重い小錦が踏ん張ったため、すかさず後方に反ろうとする力を利用して襷反りに切り替えたものと思われる。

 猫又は同場所の八日目にもそれまで全勝の大関剣山にも土をつけており、相手の力を利用して切り返す技術にはあなどれないものがあった。

 三役時代の通算が十二勝五敗四引分一預という大関昇進には物足りない成績にもかかわらず、推挙されたのは、十五年三月に東京浅草で行われた合併相撲で常勝将軍梅ヶ谷を得意の一本背負いで破り、十七年十月にも引き分けを演じるなど東京相撲の第一人者と好勝負を繰り広げたことが、数字以上の評価を得たからであろう。

 明治最強の声も高い梅ヶ谷は、実質的な最高位である大関に昇進した明治十二年以降、十度の合併相撲に出場しているが、黒星を喫したのは真鶴と猫又の二力士だけである。ましてやこの間梅ヶ谷は東京の本場所では二度目の長期連勝の最中であり(最終的には三十五連勝)、猫又に敗れた直後の六月場所でも優勝していることを考えると、猫又の実力は東京でも十分に三役は張れるレベルだったと考えて差し支えないだろう。

 ちなみに合併相撲では梅ヶ谷の最大のライバル大達とも五度対戦しており、三敗二引き分けの成績を残している。


 日の出の勢いの小錦を破ったことで、猫又は大阪方ファンの溜飲を下げ、人気もますます高まったが、それにあやかってか、この頃より猫がらみの四股名が増えたのは興味深い。明治二十四年一月の東京相撲の番付には猫又虎右衛門(伊勢ノ海)、白猫庄太郎(雷)が見られる一方、大阪でも山猫三毛蔵(千田川)、招猫末吉(三保ヶ関)が番付に名を連ねるなど、ちょっとした猫ブームになった。


 明治二十六年(一八九三)十一月場所を最後に引退すると、故郷高岡に戻り、婿養子に入った下川原町の料亭八島屋の主人に納まっていたが、明治三十三年六月二十七日に発生した高岡市の大火で焼け出されてしまった。

 しかし、敏捷さが売り物の相撲取りだっただけあって、気を見るに敏な三吉は、さっそく高岡の復興計画に便乗して、新規に開かれることになった羽衣遊郭街に八島楼を開業すると、これが大繁盛し、売春禁止法によって遊郭の灯が消える昭和三十三年まで市内一流の遊郭として六十年もの長きに渡って命脈を保ち続けた。

 かつての遊郭街の跡地に建立された稲森神社には、遊郭創立記念碑があり、そこには八島三吉の名が刻まれている。

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