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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第56話 鯨海酔豪 海山 太郎(二代) (1869-1931)

二代目海山太郎といえば、明治を代表する酒豪力士であると同時に、怪力にまつわるエピソードにも事欠かない”怪力士”だった。初代も指導者としては一流だったが、二代目も二所一門の隆盛の基礎を築いた人物として名高い。

 二代目海山太郎こと笠井兎之助は元号が明治となってちょうど一年後の明治二年十月、土佐藩江野口村(高知県土佐郡)に生まれた。

 土佐藩は十五代藩主山内豊信(容堂)が大政奉還に寄与したことで、薩長土肥による藩閥体制の一角を占める雄藩だったが、二代目海山が生まれた頃には政府の役職を全て辞して、東京赤坂の藩屋敷で酒と女遊びに溺れる自堕落な日々を過ごしていた。

 山内侯は自ら「鯨海酔侯」と称していたほどの自他共に認める大酒飲みで、酩酊状態のまま政務をこなしていたことも珍しいことではなかったらしい。

 天下御免の豪傑藩主が仕切っていた土佐は坂本竜馬、板垣退助といった豪気な英傑を生んだが、そんな気風を受け継いだ海山は、山内豊信に負けず劣らず酒を愛した土俵の豪傑だった。土俵に上がる前ですら酒を断つことができないほど自制心の乏しかったにもかかわらず、十五年もの幕内生活を送ることができたのは、角界の謎といってもいいくらいだ。

 しかも現役中は浴びるほど酒を飲みながら、引退して二所ノ関の名跡を継いでからは、一転して模範的指導者となり、協会幹部としても相撲界に大きな貢献をしているのだから、その変わり身の早さにも驚かされる。


 土佐の草相撲の強豪だった兎之助は大阪相撲の猪名川部屋に入門した後、明治二十三年に板垣退助の口利きで東京相撲の玉垣部屋に移籍している。

 当時の玉垣部屋には土佐出身の海山太郎(初代)こと河野貞太郎が在籍しており、板垣は海山の有力な後援者だったため、同郷のよしみで前途有望な若者の将来を託したものと思われる。

 明治二十四年に現役を退いて初代海山が年寄友綱として独立すると、当時は鏡川を名乗っていた兎之助も友綱に帯同し、海山の四股名を譲られた。二代目海山の誕生である。

 二代目海山は一七三センチ九十九キロと先代とほぼ同体格ながら、怪力にかけては同時代の力士では並ぶ者はなく、向島の大倉喜八郎邸で外国人一人を乗せた碁盤を片手で持ち上げてみせたエピソードはつとに知られるところである。

 そのため力士としては小型軽量でありながら、小手投げや合掌捻りといった力技を得意とした。

 左右の掌で相手の頭を挟み込んで捻り倒す合掌捻りは、かつては大達(大関)の代名詞となった荒技である。体格のいい力士を二本の腕の力だけで動き封じてを投げ飛ばすわけだから、人並み外れた握力がなければ、相手の頭がすっぽ抜けた拍子に、自分の方がバランスを崩すか、懐に相手を呼び込んでしまうリスクが常に伴う。

 海山は力があっても上背がなく腕の長さも短いので、体型的にはこの技には不向きである。そこで大達のように正面から直接両手で相手の頭を挟むのではなく、一旦左腕を相手の脇の下をくぐらせてからたすき掛けのようにして右と合わせることで相手が逃げられないようにしたのである。

 この自己流の合掌捻りによって、海山は一回り以上大きな大達と並ぶ合掌捻りの使い手として明治の相撲史にその名を刻むことになった。


 明治二十七年春場所、新入幕で七勝二敗の好成績を挙げた海山は一度も負け越すことなく、入幕から四場所で先代が届かなかった三役の座を手に入れているが、四場所目は五日目に初顔で横綱西ノ海を寄り切るなど破竹の勢いで勝ち進み、小結大砲と並ぶ七勝〇敗と土つかずで場所を終えている。決定戦がない時代のため、番付上位の大砲が優勝者となるが、前頭二枚目の海山は二十九年春場所での小結昇進を決定づけた。

 三十年春場所から三場所連続関脇を務めた頃が最盛期で、新関脇の場所に大関小錦を下手捻りで下した一番は圧巻だった。双差しの小錦が寄ってきたところを苦し紛れに左手を首に巻きつけた海山が、右の腕を脇下にねじ込んで捻りを加えると、さしもの小錦ももんどりうって土俵に倒れ込んだ。

 この場所最大の話題となった荒岩対小錦は、新鋭荒岩が蹴手繰りからの小手捻りを決めた頭脳的奇襲戦法だったのに対し、海山は両褌を取って十分の体勢の小錦をそこから力でねじ伏せたところに価値がある。

 海山は三十一年春場所で入幕以来初めて負け越し(二勝五敗二分)て平幕に落ちてからというもの、小結に復帰した三十三年夏場所を除いては平幕上位を行ったり来たりが定番となってしまったが、ツボに入った時には凄まじいまでの怪力を発揮し、横綱、大関といえどもそう簡単に料理できる相手ではなかった。

 その怪力ぶりを語るのに欠かせないのが、常陸山戦である。

 常陸山に二度以上勝った力士は梅ヶ谷(二代)、太刀山、鳳、荒岩、海山の五人だが、海山以外は最高位が横綱、大関で、大関どまりだった荒岩にしても優勝六度を数える明治期最強の大関の一人である。それほど常陸山は欠点が少ない難攻不落の力士で、新入幕で優勝して以来、長らく角界の第一人者の地位を築いてきた。

 その常陸山の十両時代以来の連勝を止めたのが海山だった。

 入幕以来十四連勝、十両時代を含めると三十二連勝中の常勝将軍常陸山は三十三年春場所も優勝候補の最右翼だった。六戦全勝で迎えた七日目の海山戦は、常陸山得意の泉川に極め、そのまま寄り切ってしまういつものパターンかと思われたが、海山の怪力は常陸山の泉川を振りほどき、廻りこみながらの叩き込みで角界最大のホープに初黒星をつけた。

 常陸山が新大関となった三十四年夏場所五日目、前場所の対戦では一方的に寄り切られているだけに借りを返そうと気合十分の海山は、強引な首投げの打ち合いを残した後、一旦離れてから体当たりをぶちかますと、バランスを崩した常陸山が腕を取って引き込もうとするのに乗じて身体を開いて引き落とすと、またしても大豪は土俵に這いつくばってしまった。

 この場所二勝二敗四分の平幕力士に再び不覚を取ろうとは常陸山も予期しなかったかもしれないが、驚くべきは海山は酒が入っていながらこれだけの相撲を取ったことだ。

 海山の酒好きは角界でも有名で、飲み始めたら五升は飲まないと飲んだ気にならないと嘯いているだけあって、支度部屋で酒類をたしなんでいたのは公然の秘密だった。そのため海山が花道を通る時には、すでに頬を赤らめていたり、酒臭い息を吐いていることが多かったといわれるほど節操がなかった。

 ひどい時には泥酔して意識が飛んだ状態で勝ち名乗りを受けていながら、部屋に戻って酔いが醒めたあとで、土俵をすっぽかしてしまったと勘違いして取締の大雷(元梅ヶ谷)のところに謝りに行ったところ、「お前、さっき勝ったではないか」とたしなめられたというから、呆れてしまう。

 新聞のコラムで「海は酒に酔うて土俵に上がり、源は一夜を徹して敵に向かう(女遊びが過ぎるという意味)」と皮肉られたのは、海山と源氏山(頼五郎)は大関を狙える器でありながら、不摂生のおかげで関脇の地位さえままならないことを惜しむ声が多かった証といえよう。

 それにしても、浴びるほど酒を飲みながら四十歳まで幕内を全うしたのだから、酒は飲んでも稽古だけは欠かさなかったのだろう。

 友綱部屋は明治三十年代からは国見山(大関)と太刀山(横綱)という大物が現れて部屋の隆盛を築いたが、海山も個性派力士として人気者であり続けた。

 幕下時分から関取連中でさえ胸を出すのをいやがるほど突き押しの強さが常人離れしていた太刀山に毎日稽古をつけられたのも海山の怪力があってこそである。逆に海山は二周りほどデカく、砲弾のような突きを繰り出してくる太刀山の相手をしていたことで、三十代後半になっても筋力を維持できていたともいえる。

 明治四十二年春場所を全休した後に引退届を提出して二所ノ関を襲名したが、あと一場所踏ん張れば、新設の両国国技館の土俵を踏めるところだった。

 友綱部屋から独立した二所ノ関軍右衛門は、そこからきっぱりと酒を断ち、新弟子たちの育成に邁進する一方、検査役、理事を歴任し、相撲協会の重鎮としても大きな足跡を残した。

 唯一の心残りは、同郷の玉錦を大関まで育て上げながら、愛弟子の横綱昇進を見ることなく胃癌で旅立ったことだろう。

 六年五月場所を迎えた時点で、九勝二敗、九勝二敗、十勝一敗と抜きん出た勝率ではないまでも三連覇中の玉錦は、この場所優勝すれば、さすがに横綱昇進は間違いのないところだったが、本場所の最中だったにもかかわらず、毎日病院に師匠を見舞っていたため、看病疲れもあって中盤には早くも優勝争いがら脱落し(最終成績は八勝三敗)、病床の師匠に吉報を届けることは叶わなかった。

 それでも、賜杯と綱を棒に振ってまで師匠に尽くそうとした玉錦の男気は十分に伝わったはずで、二戸ノ関にとってはそちらの方が本望だったのかもしれない。

 

 海山が酒色を好んだのは、その道では並ぶ者なしの山内容堂を敬慕していたからなのではないかと推測する。容堂侯は大の相撲好きでもあり、明治になって東京の藩屋敷暮らしになってからは、回向院の常連となったが、当時の相撲は女人禁制だったため、いつも傍らに女性たちを侍らせている容堂侯としては一緒に相撲見物ができないことに不満を持っていた。そこで明治政府の重鎮たる容堂侯が協会にかけあって相撲見物の女性解禁が実現したといわれている。

 海山も女性にはモテて、海山目当ての女性客も少なくなかったようなので、旧主君と同じくちょっと不謹慎なところが相撲人気に一役買っていたといえるかもしれない。


 

海山は大酒飲みだが、洋酒系は苦手だったという。というのも、ある時贔屓筋から「一緒にビールを飲もう」と誘われて座敷まで出向いたところ、あまり好きでもないビールを付き合いで飲んでいるうちに二人で五ケースも空けてしまい、それから二~三日は身体の具合が悪かったからだそうだ。

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