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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第55話 揚子江大人 大内山 平吉(1926-1985)

大内山の現役時代は知らないが、検査役でありながら現役力士たちを見下ろす長身巨躯の存在感は圧倒的だった。力士の体格が一回りほど小柄だった大内山の現役時代にその相撲を見た人たちにとってはとてつもない迫力を感じたに違いない。二メートルを超える身体でこれといった欠点もなく、相手が横綱だろうが、上手をがっちりつかんでしまえばブン投げてしまうのだから、投げ技もさぞかし見栄えがしたことだろう。

 茨城県那珂湊の漁師の家に生まれた大内平吉は、尋常小学校卒業後は地元で漁業に従事していた関係で大きな身体に似合わず泳ぎは達者で、素潜り漁はその道のベテラン顔負けの腕前だった。

 双葉山を例に取るまでもなく、船上での作業はバランス感覚を鍛えることは良く知られているが、大内山の巨人力士らしからぬ足腰の良さも幼少時からの漁業経験の賜物といっていいかもしれない。

 昭和十七年には横須賀海軍鎮守府要員として徴用され、父ともども洋上での米潜水艦哨戒任務に就いていた。その時の上官から十七歳で一八六センチ一〇六キロという体躯を見込まれ、角界入りを勧められた平吉少年は、兵役を免除してもらえるという条件で角界入りを決意した。

 十八年末に双葉山道場に入門した当初は、図体がでかいだけで相撲はからっきしだったが、体幹の良さと真面目な性格のおかげであっという間に強くなった。戦時中は勤労奉仕に狩り出されて相撲の稽古どころではなかったが、これといった趣味がないのが幸いして相撲一筋に打ち込んだのが功を奏したようだ。

 大内山の入門当時は、兄弟子に当たる不動岩を筆頭に羅生門(台湾出身)、智異ノ山(朝鮮出身)といった二メートル級の巨人が揃っており、中でも現役横綱である双葉山から直接指導を受けていた不動岩の出世が早く、好角家からも注目を集めていたため、戦前は角界関係者以外にはさほど知られた存在ではなかった。

 一歳年長の不動岩が二十歳で新入幕を果たした十九年秋場所の時点では、大内山はまだ序二段に過ぎなかったのだ。

 期待の巨人力士不動岩は怪力を生かして関脇までは一気に駆け上ったものの、この手の大型力士特有の緩慢な動作と脇の甘さ、下半身の脆さが足枷となり、相撲を覚えられてからはなかなか勝てなくなった。

 二十四年一月に大内山が入幕した頃は、不動岩は平幕上位で双葉山道場改め時津風部屋の力士の中では最上位だったが、一年後には番付で逆転し、二メートル超える巨人にわりには足腰が良く、組んでよし離れてよしの大内山の方が横綱間違いなしの太鼓判を押されるほどの高評価を得ていた。

 時津風親方の依頼で不動岩、大内山の両名に稽古をつけていた神風が「底のしれない大物」と感想を述べているように、不動岩にはない強烈な突っ張りと、脇の固さ、身体の柔軟さを兼ね備えていた大内山はスピードのある小兵の業師にも十分対応できた。

 褌をつかみさえすれば幕内屈指の怪力を生かせる半面、突っ張りがないぶん離れて動き回る相手を苦手とした不動岩に対し、大内山は強烈な突っ張りの連打で攻め立てながら、相手の動きを見極めつつ、慌てることなくゆっくりと追い詰めてゆく冷静さを持ち合わせていた。仮に強烈な張り手をかいくぐって低い体勢から懐に入ってきたところで、二メートルを超える高さから一五〇キロを超える体重を乗せた叩きがあるため、これをまともに喰らった軽量力士はひとたまりもなかった。

 戦後の小型軽量の業師の代表格である栃錦と若乃花ですら、三役時代くらいまでは大内山に手玉に取られていたのは、攻略の糸口がなかなかつかめなかったからだ。大内山の大関陥落までに対戦成績を十一勝五敗と逆転した栃錦に至っては、十一勝に要した決まり手は九種類もあり、顔が合うたびにあの手この手と策を弄したあとが伺える。

 二十六年五月場所で小結、九月場所で関脇まで昇進した時には直近三場所で二桁勝利二回と上位でも安定感があったため、横綱も近いと見られていた。ところが、右足首の捻挫が原因で二十七年九月場所を負け越した後に、顎の先端が伸びる末端肥大症という奇病の治療のため、まる二場所全休することになった。

 顎の整形手術を終えて復帰した二十八年五月場所は、西前頭十七枚目まで番付を下げていたが、健康体に戻った大内山はさすがに強く、この場所十二勝三敗で復活の狼煙を上げると、その後は一度も負け越すことなく、三十年三月場所後に大関に推挙された。

 三十年三月場所は千秋楽にここまで一敗の千代の山を破って優勝決定戦までもつれ込んだものの、千代の山が横綱の意地で決定戦を制し、あと一歩のところで賜杯を逃している。それでも十三勝二敗(優勝同点)で直近三場所の成績を三十三勝十二敗とし、殊勲賞を手土産に文句なしの大関昇進を勝ち取った。

 新大関として向かえた三十年五月場所は、横綱昇進後は優勝が一度もない兄弟子の鏡里よりも、相撲のスケールが大きい大内山の方を優勝候補に推す声も少なくなかった。それもそのはず、大内山は連覇中の千代の山との過去一年の対戦成績は三勝三敗の五分である。突きの破壊力も投げ技も両者の差はほとんどなく、上背、体重は大内山の方が優っているとなると、期待値が高いのも当然であろう。

 ただいかんせん寡黙で気の優しい大内山にはそれがかえってプレッシャーとなり、九勝六敗という期待外れの成績に終わってしまう。

 それでも、千秋楽の横綱栃錦戦は「五十年に一度の名勝負」とまで言われるほどの力相撲で、昭和の大相撲を語る時、この一戦だけは外せないものとなっている。

 立ち合いで大内山の突っ張りが炸裂すると、この一撃で半分意識が飛んでいたという栃錦は、ほとんど無意識に突っ張りの連打を避けるため土俵を回り込むように逃げ回った。上半身が柔軟な大内山は逃げる栃錦の顔面に立て続けにの張り手を叩き込むが、深追いしすぎて懐に潜り込んだ栃錦の捨て身の首投げを食らって逆転負けを喫してしまった。

 首投げが決まる直前まで、観客も審判も九分九厘大内山の勝ちとみていただけに、栃錦のしぶとさには皆舌を巻いたものだが、場所後の大内山にインタビューによると、張り手が当たるたびに横綱の顔が赤くなっているのを目の当たりにしているうちに、なんとなく気の毒な気持ちが湧いてきたそうだ。その一瞬の躊躇が逆転勝利に結びついたわけだが、勝った栃錦の方も、意識が朦朧としている中で本能的に放った投げ技がたまたま決まったという運に恵まれた点も否めない。

 多少プレッシャーから解放された翌九月場所は十一勝四敗と持ち直したものの、二十九年五月場所で三根山の内掛けで捻挫した右膝の古傷が再発し、相撲にねばりがなくなってしまった。大関昇進まで十勝二敗とカモにしていた若乃花から逆にカモられるようになったのは、膝を痛めた結果、ありきたりのスローモーな巨人力士に成り下がってしまったからだ(その後の対戦成績は大内山の三勝十敗)。

 三十二年一月場所を負け越して大関を陥落してからは苦しい相撲が続き、三十四年三月場所いっぱいで引退するまでの十二場所中、勝ち越したのは三場所に過ぎない。

 新旧の横綱との対戦成績は、朝潮に九勝十一敗、千代の山に九勝十五敗(土俵生活の晩年に五連敗)、照国に二勝三敗と上位力士にとっても油断できない相手だったが、蹴手繰りという飛び道具があるうえ、組んでも力負けしてしまう吉葉山だけには手も足もでず、二勝十四敗と大負けしている。

 引退後は時津風部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、親方の死後の後継者争いで敗れた元兄弟子の立田川(元鏡里)と行動を共にした。

 角界の御意見と謳われ相撲評論家の長老的存在だった彦山光三から、揚子江の流れに例えられたほど土俵上では悠然と構え、スケールの大きな相撲を取った。

 江戸時代の看板大関を除いて二メートル超えの大関は史上初だった。

相撲協会では長らく検査役を務める一方、五十九年に両国にちゃんこ屋「ちゃんこ大内」を開いたが、その翌年に亡くなったため、今も続く両国きっての名店として繁盛するところは見ていない。

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