表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

55/57

第54話 踊る突撃砲  松登 福太郎(1924-1986)

松登の現役時代は知らないが、大山親方として紹介される時に現役時代の話がよく出ていて、ぶちかましの松登と言われていたのは覚えている。最初は麒麟児か富士桜のような役どころの力士だと思っていたが、意外や意外、大関まで昇進した大物だった。

 千葉県松戸市生まれの永井福太郎は小学校の頃からすでにあんこ型で恰幅がよく、将来は相撲取りを目指していた。

 尋常小学校六年の時に上京して高砂部屋の門を叩くが、タッパが足りないことを理由に入門を断られてしまう。しかし、この時高砂部屋所属の元関脇高登の目にとまり、後日高登が引退後に興した大山部屋に勧誘されることになる。

 昭和十六年の春に初土俵を踏むが、三段目時代の十八年に九月に横須賀重砲隊に入隊し、復員後は帰還後は肺尖カタルを患うなどして回り道をしたため、十両昇進が二十四歳、入幕が二十六歳と遅かった。病気の影響などで体重も落ちていたため、関取になった当初は一七三センチ百キロと線が細く、切れ長の目ときりりとした上がり眉が印象的な歌舞伎役者のような顔立ちをしていた。

 細かった頃は素首落としや足取りなどの奇手も見せたが、角界でも一二を争う大食漢とあって、みるみる体重が増え、新入幕時には一二〇キロ、新三役となった二十八年頃には一五〇キロ越えの大兵に肥大してからは、ファンの間で「ホームランか三振か」と揶揄される、巨体を生かしたぶちかましから左を差して一気に寄ってゆく単調な取り口に終始した。

 変化技、引き技に弱く、栃錦のような業師には翻弄されっぱなしだったが、当たりをまともに受けてしまうと、信夫山のような前捌きの名人でもそこからの一突きで土俵の外まで吹っ飛ばされるほどの威力があり、とりわけ的の大きい大型力士は松登を苦手とした。

 一九〇センチ越えの長身力士相手では大起(小結)に十勝二敗、不動岩(関脇)に二勝〇敗、大内山(大関)に一四勝五敗、千代の山(横綱)に十一勝九敗と対戦成績で圧倒している。

 注目すべきは突っ張りの威力では当時の角界随一と謳われた千代の山をもってしても、松登のぶちかましを食い止めることができなかったということであろう。なにしろ勝った九番のうち四番は松登が前に出てくる勢いを利用した叩き込みである。横綱が引き技を多用するのは追い詰められた時の苦肉の策だが、最初の当たりで体勢を崩されてしまうと、怪力自慢の千代の山でさえ引き技しか残された手立てはなかったようだ。もちろん、かえって懐に入られて自分が土俵を割ってしまうことも少なくなかった。

 上手を取れば磐石のはずの千代の山が、松登を豪快に投げ飛ばしたのは二番しかないのは、せっかく上手をがっちり握っても、下手を取られて投げの打ち合いになると、巨体を預けられて逆に寄り倒されてしまうリスクもあったからだ。

 その点、松登をお得意さんとしていた栃錦は体を寄せずに出し投げを打ちながら体勢を崩す術に長けていた。裏を返せば、当時の幕内力士の中で正攻法で松登の当たりを受けて立つような横綱相撲を取れる力士はいなかったことになる。

 なにしろ、三役に駆け上がってゆく頃の松登のぶちかましをまともに受けた横綱・大関が、怪我をしたり休場に追い込まれたりすることから、“重戦車”の異名を取る猛烈なぶちかましに対する非難の投書が寄せられたほどだ。

 最初の犠牲者は二十七年九月場所六日目に松登にうっちゃられて翌日から休場した羽黒山(横綱)だった。

 続く二十八年一月場所は、二日目に寄り切られた照国(横綱)が翌日から休場、そのまま引退に追い込まれたほか、五日目に寄り倒された吉葉山(大関)が、その時痛めた右足の怪我が原因で九日目から休場を余儀なくされている。

 さらに翌三月場所も千秋楽に元大関の名寄岩(関脇)が松登の外掛けで押しつぶされた後で動けなくなってしまい、これが千秋楽でなければ休場間違いなしというほどのダメージを負った。

 まさに“ぶち壊し屋”である。これでは対戦相手の腰が引けてしまうのもやむをえない。

 なぜ松登のぶちかましがそれほど威力があるのかというと、彼は普通の力士のぶちかましとは違ってアメフトのタックルのように両腕を胸で交差させ、やや斜に構えて肩からぶつかるからである。

 肘からぶちかましにくれば頭で顎を狙ってかいくぐるように食い止めるのが一般的だが、肩でこられてはまともに受けるとダメージが大きい。ただし、ぶつかってから両手を広げて、次の攻撃に移るタイムラグが生じるため、そこに付け込まれると結構脆かった。 

 出足が良い時は、そこから突き飛ばすなり、一気に吊り上げるなり豪快な相撲が取れたが、巧くいなされたりすると、相手に触れることもなく土俵下にダイビングすることもしばしばだった。

 最も勢いがあった大関目指してまっしぐらの頃には、二メートルほど宙を飛んでよりによって土俵下に陣取っていた大山親方の上に落下し、師匠を驚かせたこともある。

 当たりはずれが多い相撲でよく下位に取りこぼすことことから「取りこぼしの松」などと揶揄されたわりには、入幕以来大負けすることもなく、ほとんどの場所で勝ち越していることは評論家からも不思議がられていた。特に関脇に定着する二十九年頃までは、序盤でぼろぼろ星を落としながら、終盤に持ち直すというパターンが多かった。特に最も疲労が蓄積しているはずの終盤の三日間の勝率が非常に高く、千秋楽の黒星はそれまでに一度だけしかなかった。


 いつも陽気で明るいことから、子供たちにも大人気だった松登には「マンボの松」という綽名もあった。マンボとは昭和二十七年頃から日本で流行が始まったラテン音楽とそのリズムに合わせて踊るダンスの呼称である。

 松登は土俵入りと仕切りの最中の動作がとてもユニークで、リズミカルに腰を振る姿がマンボのリズムを刻んでいるように見えた。また取り組みでも、アメフトのタックルのような出足のため摺り足ではなく、飛び跳ねているような足運びになってしまい、一部の親方たちからは「足が地につかず、踊っているようだ」と指摘されることもあったが、観客からは結構面白がられていた。

 体型のわりに体幹がよく、叩かれたりいなされたりしてそのまま一気に土俵下までまっしぐらかと思いきや、徳俵のところで片足でくるりと一回転して踏みとどまってみせるところなども、マンボの三六〇度ターンを彷彿とさせ、本人はいたって真面目なのだが、なぜか見ている方は笑いがこみ上げてくるのが、松登の相撲の特徴であり、人気の源泉でもあった。

 不思議なもので、マンボの流行に伴って松登の番付もどんどん上がり、マンボ人気がピークになった昭和三十年にはついに大関にまで昇進した。

 昇進を決定づけた三十年九月場所は、十三日目に一敗同士で当たった横綱鏡里戦に寄り切られて優勝を逃したが、直近の対戦で五連勝中だっただけに惜しまれる一敗だった。それでも十三勝二敗の準優勝で、殊勲賞も獲得した松登は場所後に大関に昇進した。

 ところが、その後は膝の故障もあって振るわず、大関としては勝ち越すのがやっとという有り様だった。おりしも三十一年に日本に上陸したカリプソ人気が急上昇し、やがてマンボの人気に取って変わってゆくのと歩調を合わせるかのように松登の相撲も下り坂となり、三十三年の九州場所の番付を最後に大関から陥落した。

 平幕中位が定位置になってしまった土俵生活の晩年はぶちかましの迫力も色褪せてきたが、その代わりに網打ちや河津掛けといった奇手を連発するなど体幹の良さを生かした“踊る土俵”は健在だった。

 

 人付き合いが良く、大食漢でギャンブル好きのわりに松登が破滅型の力士生活を歩まなかったのは、大山親方のしつけの賜物かもしれない。

 大山部屋は小部屋だったため、入門早々寝食をともにするといっても過言ではないほど、師匠から熱心なマンツーマン指導を受ける機会があったおかげで、松登は関取になってからも師匠には忠実だった。ましてや大山親方は現役時代から朴訥な人柄で知られる好人物で、頭も切れるため解説者としても人気があった。松登が一日に単行本を二冊は読んでしまうほどの読書家になったのも、師匠の薫陶を受けたからかもしれない。

 松登の実父が亡くなってからは、実の親子のような関係であったという。

 大山親方は現役時代から内臓に疾患があり、親方になってからも何度も手術を受けているが、必ずといっていいほど手術には松登が立ち会っていた。松登が三十七歳まで幕内で相撲を取ることができたのは、親方の目の黒いうちはという思いもあったのではないかと察する。

 三十六年の九州場所で四勝十一敗と負け越した松登は場所後に引退を表明するが、大山親方は愛弟子の最後の土俵を見届けたことで安心したのか、それから二ヶ月も経たないうちに亡くなっている。

 松登は力士生活では普通の力士ならとっくに引退している年齢になってもしぶとく幕内に残っていたが、実生活では白内障の手術の最中にアナフィラキシーショックで呆気なく世を去った。眼以外はこれ

といった疾患もなく元気だったそうだから、松登は人前では暗い表情など一切見せることなく笑顔の印象だけ残して逝った感が強い。

松登は一般的に晟郎しげおと表記されているが、大関昇進後にゲン担ぎで改名したもので、大関まで駆け上がってくる最も脂の乗った頃は、本名の福太郎を名乗っていた。ユーモラスなキャラで人気があっただけに、福太郎の方がしっくりくると思い、表題は松登福太郎とした。「重戦車」でなく「突撃砲」としたのは、砲塔が回転しない固定式のため正面の的しか撃破できない突撃砲の方が松登らしいからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ