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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第53話 常勝将軍 梅ケ谷 藤太郎(1845-1928)

福岡県出身力士としては最多となる九度の優勝(相当成績)、五十八連勝の大記録も、大分出身の双葉山に塗り替えられてしまったことで梅ケ谷の影が薄くなってしまったのは残念である。しかも両者の出生地は江戸時代の区画では同じ豊前で距離的にも近いため、何かと比較の対象になりやすい。ただし、双葉山も遠く及ばなかった95%(雷電に次ぐ史上2位だが、歴代横綱中1位)を超える幕内勝率は今後もまず破られることはないだろう。逆に引き分けが廃止され、不戦敗をつけられる今日のルールの方が勝率を維持するうえでは不利なため、あえて相撲協会もマスコミもこの記録には触れずに、梅ケ谷ごとスルーしてしまいそうでちょっと心配である。

初代梅ヶ谷こと小江藤太郎は、弘化二年二月九日、筑前国上座郡志波村梅ヶ谷に生まれた。すでに梅ヶ谷という地名はなく、現在は杷木町志波と変わっているが、福岡県が生んだ最強の力士でありながら、隣県の大分県における双葉山などと比べると県内での知名度が低いのは気の毒である。

 彼の名が久しぶりにクローズアップされたのは、千代の富士が五十三連勝を記録した昭和六十三年、近代相撲で五十連勝の大台を突破した力士として、双葉山(六十九)、太刀山(五十六)とともに紹介された時のことである。

当時の福岡出身の人気力士と言えば一場所で二横綱四大関を撃破し、四場所連続三賞を受賞するなど派手な活躍で「白いウルフ」の異名を取った益荒雄(最高位関脇)だった。その後も魁皇、琴奨菊といった優勝力士を輩出した福岡県は、九州場所の開催地ということもあって相撲人気が高いにもかかわらず、新しいもの好きの県民性に起因するものなのか、現在でも横綱土俵入りにその名を残す雲龍久吉が地元出身(山門郡)ということさえあまり知られていない。

優勝八回、引退後は相撲協会筆頭(現在の理事長)を務めた雲龍も一流の横綱だが、梅ヶ谷に至っては歴代横綱中最高勝率、史上第二位(当時)の連勝記録を誇り、江戸期の谷風や雷電と並び称されたほどの強豪であった。


 出生時に一貫三百匁(四・九キロ)もあった藤太郎は、同世代に比べるとずば抜けて大柄で、幼少時より数々の怪力伝説を残している。生後一年足らずでようやくはいはいが出来るようになると、両親は野良仕事の間に息子が勝手にどこかに行ってしまわないよう石臼に縄を通して腰に縛り付けておくようになったが、程なく十六キロもある臼の上段部分を引きずって回るようになったという。

 やがて近隣の大人が誰一人持ち上げることが出来なかった二百四十斤(一四四キロ)の大石を担いで村人たちを仰天させるほどの力自慢となった藤太郎は、周囲の勧めもあって十五歳から日田の宮相撲を皮切りに各地の奉納相撲に参加するようになったが、彼ほどの怪力を持ってしても全く歯が立たない相手がいた。地元の庄屋の若旦那、中都留伴三郎である。

 伴三郎は武士の血を引く名家の後継ぎで、力士になる気などさらさらなかったが、相撲道に造詣が深く、筑後一帯の相撲大会では必ず優勝をさらうほどの実力者だった。二歳年上で自分よりやや小柄な伴三郎にどうしても勝てない藤太郎は、伴三郎が近所の若者相手に相撲を教えているという道場に出稽古に赴き、来る日も来る日も四股、摺り足といった相撲の基礎をみっちり仕込まれた。

 文久元年(一八六一)九月、筑後の英雄、雲龍久吉が第十代横綱に推挙された。自分と同じく貧農出身の雲龍が綱を張ったことは、藤太郎の相撲に対する情熱をさらに掻き立てた。

 翌年の晩秋、筑前甘木に江戸・大坂合併相撲巡業がやって来た際、宮相撲仲間と飛び入り相撲に参加した藤太郎は、本職の十両・幕下クラスを一蹴し、大坂相撲にスカウトされた。これまでは、相撲の強いことで一目置かれながらも、体よくこき使われては、「御器潰(大食漢のこと)」と陰口を叩かれるなど鬱屈した日々を過ごしてきた彼にとって過去と決別するチャンスだった。


 伴三郎から「雲龍に負けない横綱を目指せ」と励まされて故郷を出立した藤太郎は、文久三年一月、大坂堂島新地の湊部屋の門をくぐった。四股名は「筑前無敵」と謳われた宮相撲時代と同じ梅ヶ谷を名乗った。

 明治二年に関脇で優勝を飾ると、翌三年には大関に昇進している。博多巡業では老父の前で晴れ姿を見せることができ、故郷にも錦を飾ったものの、「最強の力士」を目指している梅ヶ谷は大坂相撲の大関という地位に満足しているわけではなかった。

 というのも、江戸期から江戸と大坂は時折合併巡業を行っていたが、双方の力量差は歴然としており、江戸方は常に大坂方を格下に見ていたからである。事実、大坂で最高位の大関といえども、江戸の平幕上位に取りこぼすことが往々にしてあったため、梅ヶ谷自身も本物の相撲取りになるには江戸の土俵に立たなければならないという思いが強かった。


 明治三年十二月に大坂相撲を辞した梅ヶ谷は、明治四年二月、二十六歳で東京相撲の元締め玉垣額之助に入門を許された。

 入門前から大坂相撲の幕内格の実力を有し、若くして上方相撲の頂点に立ったほどの梅ヶ谷である。さぞかし東京でもその実力をいかんなく発揮したと思いきや、意外にもここからが本当の苦難の始まりであった。

 元々上方を蔑視する傾向が強かった東京相撲は、最高の人気力士だった陣幕(横綱)が明治二年に上方に鞍替えしたこともあって、大阪相撲出身の力士を目の敵のように扱った。実力は折り紙つきの梅ヶ谷に対しても同様で、かつての大阪大関も明治四年の初場所では幕下番付外という屈辱を味わっている。

 しかし、東京相撲でも幕内に引けを取らない力量を持つ梅ヶ谷に幕下が相手を務められるわけもなく、全勝で迎えた八日目には十両の武蔵潟との割が組まれた。二メートルを超える大巨人との一戦は、寄り倒しで梅ヶ谷の勝ちと思われたが、行司は武蔵潟に軍配を上げ、物言いもつかないまま初黒星を喫してしまった。言い訳や自慢話の嫌いな梅ヶ谷が、際どい勝負はきまって東京方の勝ちにされた、と当時のことを苦々しげに振り返っているように、大阪方潰しは陰惨を極めた。

 東京初土俵で七勝一敗という抜群の成績を残した梅ヶ谷は、翌十一場所には十両格張出で七勝一分一休、明治五年四月場所は十両九枚目で九勝一休と快進撃を続けたが、番付の上昇は微々たるもので、この成績で二枚しか上がっていない。しかも十両七枚目で迎えた十一月場所は初日から大関境川にぶつけられているのだ。

 すでに優勝五回を記録し、後に横綱となる境川はこの頃が力士としては一番脂が乗っていた。小柄ながら腕力抜群の境川は梅ヶ谷得意の左差手を閂で絞りあげ、最後は寄りの応酬で両者ほぼ同時に土俵際に倒れこんだが、軍配は例によって境川に上がった。十両対大関とは思えぬ熱戦で回向院の観客を湧かせた梅ヶ谷だったが、この時腕関節を痛めたのが原因で四日目から休場。大きな回り道を余儀なくされている。


 明治七年にようやく入幕を果たした時はすでに三十歳になっていたが、長年の鬱憤を晴らすかのように圧倒的な力を見せつけ、新入幕でいきなり優勝(八勝一分)をかっさらっている。これは奇しくも同郷の先輩雲龍以来の快記録である。雲龍もまた大阪あがりということで差別待遇を受け、その屈辱をバネに自力で綱をつかんだのだ。

 梅ヶ谷の得意手は突っ張りと左筈押しで、ほとんどの相手が褌に手をかけることが出来ないほど強烈なものだった。左を差せばまず負けることがなかったが、そこからが慎重で決して強引にしかけてゆくことはなかった。むしろ彼の相撲の真髄は攻めではなく守りにあったからこそ取りこぼしが極めて少なかったと言えるだろう。

 一般的な力士が自分の得意技に磨きをかけるところを、梅ヶ谷は相手の得意手を打ち破るための研究に時間をかけた。それは得意の体勢に持ち込もうとする時こそ隙は生じやすいという考え方によるもので、自身は攻め手より褌を取らせない工夫を凝らすことを常とした。相手に攻めさせてから勝つスタイルは双葉山に共通するものがある。

 大阪時代には格下の熊ノ岩に連敗すると、熊ノ岩に強い熊鹿毛に教えを乞いに行き、ようやく勝てるようになったが、当時小結の梅ヶ谷が前頭の熊鹿毛に頭を下げて指導を受けるというのは、番付が全ての角界では異例のことであった。強くなるためには様々な人の意見に耳を傾けるべきだという姿勢を終始貫いたことで、梅ヶ谷は体力的ピークを過ぎてからも相撲の技術は向上を続けたのである。

 その梅ヶ谷をもってしても歯が立たなかった力士がいた。江戸の雷電為右衛門の再来と言われた雷電震右衛門である。色黒で容貌魁偉だったこともあって大衆人気は今ひとつながら、梅ヶ谷をも凌ぐ腕力を生かした突っ張りと巻き落としの荒技で、維新以来最強の名をほしいままにしてきた雷電は明治四年から八年にかけて四十三連勝を記録している。

 関脇時代に三十六勝三敗七分という驚異的な勝率を残しながらなかなか大関に昇進出来なかったのは上位がつかえていたからであり、明治九年に大関に昇進した時には病に冒され、結局綱には手が届かなかった。一七七cm一二五kgという体格は梅ヶ谷よりやや重い程度だったが、十両時代の初対決では小手先であしらわれるなど合口が悪く、ようやく一矢報いたのは、明治十二年、梅ヶ谷が大関で雷電が小結に陥落していた時のことである。

 梅ヶ谷はそこから雷電に二連勝し、明治十三年六月の最後の対戦では勝負がつかず預かりとなっているが、何とこの場所優勝したのは当時関脇の雷電だった。すでに三十八歳になっていた雷電はこの場所の無理が祟って病気がぶり返し、その後の三場所で一度も勝ち名乗りを受けることがないまま引退に追い込まれている。そして奇しくも雷電最後の三場所で三連覇を果たしたのが梅ヶ谷であった。

 全盛期には梅ヶ谷を寄せ付けない強さを発揮した明治の雷電が、江戸の雷電ほどの人気や知名度を獲得出来なかったのは、強すぎることによる不人気もさることながら、維新以来の混乱期という時代背景によるものも大きい。


 明治二年五月で戊辰戦争が終結した後も文明開化という潮流の中で社会は混迷を続け、人々の関心は大衆娯楽から大きく遠ざかっていった。欧化政策が浸透してゆく中、伝統的国技であった相撲も一部では「裸踊り」と疎まれる有様で、明治初期の角界は存亡の危機に立たされていた。それに追い討ちをかけるかのように、佐賀の乱(明治七年二月)をはじめとする不平士族の反乱が相次ぐと社会不安はさらに高まり、相撲という娯楽を楽しもうという気運は日増しに薄れていった。無敵雷電の対抗馬として梅ヶ谷が注目を浴び始めたのはまさにそういう時代だったのだ。

 ところが皮肉と言うべきか、社会不安を煽った不平士族の反乱こそが相撲人気回復の起爆剤となるのである。しかもその立役者となったのが梅ヶ谷だった。

明治九年十月、巡業中の玉垣部屋力士団は福岡県秋月にいた。そこで勃発したのが世に言う秋月の乱である。甘木・秋月方面の警察は手薄のため、県庁より叛徒退治の助太刀を依頼された梅ヶ谷は、暴力沙汰は本意ではないとしながらも、故郷や世話になった地域の人々の安全を守るためにこの要請を受けることにした。

 梅ヶ谷の決断に反対する力士は一人もおらず、八十余名が日本刀や棒杭を手に叛徒の集団を迎え撃ったが、武器を携えた大男の集団に恐れをなしたか、叛徒たちは散り散りに逃げまとい、力士団は一人の負傷者も出すことなく五十余人を捕縛するという大手柄を立てた。

 力士団の武勇伝は東京にも伝わり、同年十二月十五日付の読売新聞が「筑前甘木の叛乱鎮撫に梅ヶ谷一行協力」の見出しで大々的に報じたほか、「東京相撲秋月之賊を捕縛する図」と題された三枚綴りの錦絵が売り出された。力士たちの殉国精神が世間で高く評価されたことで、相撲に対する認識も大きく変り、その存在意義を見直されたことを考えれば、一見無鉄砲のように思える梅ヶ谷一行の行動も角界に大きな貢献をしたと言ってもよいのではないだろうか。


 現在でも相撲史にその名を残す梅ヶ谷の五十八連勝(現在では史上四位)は、明治九年から始まった。先述の活躍で知名度もぐっと上がった梅ヶ谷はこれに気を良くしたか、九年十二月場所から十年十二月場所まで三連覇。大関になってからはマラリアに罹患して休場しがちになったため、しばらく優勝から遠ざかっていたが、十三年五月に復活の全勝優勝を果たした。

 ここまで五年間負けなしの五十一連勝、すでに明治以降の最高記録であった雷電の四十三連勝を大幅に更新し、彼の前に立ちはだかるのは伝説の横綱谷風が残した六十三連勝のみとなった。

 途中に休場を挟んでいるとはいえ、五年間も土つかずというのは驚異的な安定感である。江戸末期の稲妻雷五郎も同期間無敗を続けたことがあるが、梅ヶ谷に全休が一度もないのに対し、稲妻は三場所の不出場を挟んでいるため、その間の連勝は三十三に過ぎない。しかし、この偉大なる連勝記録も思わぬ伏兵によって破られてしまう。

 明治十四年一月場所千秋楽、すでに七勝一分で優勝を決めている梅ヶ谷は過去九勝一分とカモにしている新大関若島と対戦した。これに勝てば来場所中に谷風の記録更新は間違いないと見られていた梅ヶ谷はさすがに強く、得意の左四つに組みとめると一気に勝負に出た。いつもは慎重な梅ヶ谷がこの日ばかりは勝ちを焦ったか、強引に前に出すぎて若島捨て身の小手投げでバランスを崩してしまう。「しまった」と思った瞬間、若島の突き押しを食らい、遂に不倒記録にピリオドが打たれた。

 この時の若島の喜びようときたら相当なもので、飛ぶように帰宅するや早速の女房の手を取って「今日はこげんして梅関に勝った」と実演披露したまではよかったが、本職の小手投げを喰らった素人はたまったものではない。勝利の美酒どころか、投げ飛ばされて腕を骨折した女房のために医者を呼ぶやら大わらわだったという。


 明治十七年一月場所、九度目の優勝を飾った梅ヶ谷に横綱免許が下りた。雲龍の後姿を追い求めて二十余年、激動の時代の中で紆余曲折を繰り返しながら、梅ヶ谷村の貧農の息子はついに角界最高位の尊称を賜るに至ったのである。

 この年のハイライトは何と言っても三月十日に御浜離宮で催された天覧相撲であろう。

 二月上旬に後援者の伊藤博文から初めて打診を受けた時、梅ヶ谷は化粧まわしや羽織袴を新調する余裕がないことを理由にこの大役を固辞している。それほど当時の力士たちは経済的に恵まれていなかったのだ。

 明治十年頃までの停滞期を乗り越え、日増しに相撲人気が定着しつつあるとはいえ、三千人も入れば満員御礼の回向院での興行収入はたかが知れており、江戸期のように各力士に大名のスポンサーがついているわけでもない。しかも旧態依然とした協会運営の下での収支決算はどんぶり勘定もいいところで現役力士の待遇は現在より遥かに低かった。

 力士たちの窮状を知った好角家の伊藤公は身銭を切って梅ヶ谷にまわしや着物を新調させたほか、政財界の名士にも声を掛け天覧相撲にふさわしい贈呈品を取り揃えた。

 明治天皇の天覧相撲は慶応四年の京都相撲から過去三度に渡って開催されているが、いずれも他の興行との併催であり相撲観戦だけの行幸は初めてのことである。近代相撲史最大のビッグエベントは梅ヶ谷による雲龍型の土俵入りから始まったが、横綱、太刀持ち、露払いが毛利行徳公から拝領した揃いの紫羅紗の化粧まわしを纏い、太刀持ち大鳴門が岩﨑弥太郎(三菱財閥創業者)から贈呈された徳川家由来の日本刀を携えた姿はまさに豪華絢爛で参列者一同を唸らせた。

 梅ヶ谷にとっては憧れ続けた同郷の横綱雲龍の土俵入りを陛下の前で披露出来たことはとりわけ感慨深いものがあったに違いない。しかも、この天覧相撲の栄誉ある副長を務めたのが、本家本元の雲龍だった。雲龍もまた、後輩の一世一代の晴れ姿をさぞかし頼もしく思ったことだろう。

 天覧相撲は本取組と陛下のお好みによる二部構成となっていた。本取組では大関楯山(若島改め)をはたきこみで仕留めた梅ヶ谷が陛下の所望で取り組んだ相手は、五月場所での小結昇進が確実な新進気鋭の大達だった。荒削りながら「梅ヶ谷の牙城を破るとすれば大達しかいない」と言われるだけあって、この一番に凄まじい気迫を見せる大達は離れても組んでも近代最強の呼び名も高い梅ヶ谷に一歩も引かず、二度の水入りの末に引き分けに持ち込んだ。


 天覧相撲の盛況ぶりは巷でも大きな話題となったが、その中でも決着が本場所に持ち越しとなった梅ヶ谷対大達の一戦は「この勝負を見ざるは好角家一生の遺憾なり」という宣伝文句とともに五月場所最大の呼び物となった。

 七日目の大達戦を控えてこの場所も土つかずの梅ヶ谷は、若島に一敗した後は負けなしの三十五連勝中だった。相変わらずの無敵ぶりを見せる大横綱に対し、新進気鋭の小結は喉輪から一気に双差しになって攻め立てるが、梅ヶ谷は閂にきめて振り回し、力づくで大達の腕を振りほどいた。

 手四つから再びがっぷり四つになった後は、技の応酬を繰り返すも、双方決め手がなく一旦水入りとなった。

 取組み再開後も互いに攻めあぐね、動きが止まってしまったところで、何人かの審判が審判がついに「引分け」を叫んだにもかかわらず、場内の大歓声で土俵の上の行司も力士も審判の声に気づかないまま再び攻めぎ合いが始まり、手四つを振りほどきざま右筈押しで前に出た大達が土俵際で回り込もうとする梅ヶ谷を双筈でとらえてそのまま土俵下に突き出してしまった。

 双方の力量はほぼ五分だったが、長丁場になったことで体力負けしてしまったことは、三年間無敗を誇る新横綱の自信を大きく揺らがせたに違いない。翌日、高見山にも敗れ入幕以来初めての連敗を喫しているのは、持久力の衰えを痛感させられたことによる動揺を引きずったものと思われる。

 十一月に京都祇園で開催された三都合併相撲でも五日間全て引き分けという横綱らしからぬ相撲を取ってしまい、周囲をやきもきさせたが、同じ月の名古屋の東京・大阪合併相撲では六勝〇敗と日下開山としての意地を見せ、再起をかけた十八年一月場所を迎えた。

 せっかく横綱に推挙されながら、その栄えある場所でよりによって新小結の大達に優勝をさらわれたことは耐え難い屈辱だったはずだ。それだけに進退をかけた一月場所は初日から三連勝と調子は上々だった。そこから雨天下の土俵で風邪を引き休場を余儀なくされたため、七日目まで三勝一分三休と伸び悩んだものの、優勝争いの先頭を走る大達が六勝一敗、それを追う剣山が五勝一敗一分で無敗は梅ケ谷だけである。すでに優勝の目はないとはいえ、八日目の大達には何とか一矢報いて優勝争いから引きずり下ろしたいところだった。

 力量が拮抗している両者だけに、土俵中央で四つに組んだあとは双方が警戒してか出るに出られず、水入り後引き分けが宣せられた。


 梅ケ谷の相撲は、相手の欠点につけ入るのではなく、相手十分からいかに崩して勝利に結びつけるかという典型的な横綱相撲であり、そこに美学を感じる力士だった。その一方で負けない相撲を心がけ、いざとなれば引き分けに持ち込む技能も兼ね備えていたので、慎重すぎるきらいもあった。

 一方の大達は豪快さが売りだけあって不利な体勢からでも強引な力技も仕掛けてくるが、体力的に隙をついて切り返すだけの余裕がなく、防戦に徹して引き分けるのがやっとだった。

 九日目の西ノ海戦も同様で、体格で勝る後の横綱を持て余し、凡戦の末に引き分けに終わっている。

 横綱は負けてはならないというのを身上とする梅ケ谷はこれで力の限界を悟ったのか、まだ華のあるうちに引退することを決意した。番付上は十八年五月場所の全休まで名を連ねていたが、おそらく巡業の看板として横綱の名が必要という組織の台所事情によるものであろう。

 現役を引退して年寄雷を襲名すると、明治二十六年には正取締となり、大正四年までの長きに渡って東京大相撲の陣頭指揮に当たった。その間、女婿である梅ノ谷音松が横綱に昇進して二代目梅ケ谷藤太郎を名乗り、明治三十年代から四十年代にかけて常陸山とともに梅常陸時代と呼ばれる相撲ブームを現出した。

 力士として親方としても類まれな実績を残し、歴代横綱中最年長の八十四歳で天命を全うした梅ケ谷だったが、協会取締を引き継いだ二代梅ケ谷が娘と離婚後、心臓麻痺で急死するという不幸に見舞われたうえ、二人の名横綱の血を引く孫の金太郎が相撲取りにならなかったことは痛恨事であったに違いない。

師匠の娘が本人の意思とは関係なく有望な弟子と婚姻関係を結ぶことで部屋を存続させるというのは現代の角界でも珍しくはない。それこそ横綱、大関の器の相手であれば、器量など関係なく巷でも引く手あまたであるから、そういう相手に嫁ぐことで自尊心も満たされるはずだ。ところが梅ケ谷に一人娘のセンは、父が後の横綱大砲に嫁がせようとするのを拒み続けた。大砲は横綱というステイタスもさることながら、根回し上手で女性にはやさしいことから意外なほどにモテただけに、センはよほど生理的に受け入れがたいものがあったのだろうか。ノッポの大砲を振って肥満短躯の二代目梅ケ谷を選んだのは当てつけのように思えてならないが・・(最終的にはセンと二代目梅ケ谷は離婚する)

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