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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第52話 異端の英雄 力道山 光浩(1922-1963)

二所ノ関部屋の中での力道山は先々代の玉錦以上に恐ろしい存在だった。ある夜、若乃花と琴ヶ濱が夜遊びのために部屋を抜け出したところ、二人が居なくなっていることを知るや脱走と勘違いした力道山は鬼の形相になってバイクで後を追い、二人をボコボコに殴りつけて引きずって帰ったことがある。後に両名とも力道山に荒稽古をつけられたおかげもあって、横綱、大関に昇進するが、「土俵の鬼」と恐れられた若乃花でさえ、力道山には頭が上がらなかった。

 日本プロレス界最大のヒーローとして一世を風靡し、その悲劇的な死によって伝説となったが、前半生はともかく後半生は虚構の世界に生きる哀しき小心者だった。

 力道山の日本名は百田光浩だが、本名は金信洛という咸鏡南道出身の朝鮮人である。父は漢学者だったが、後に一家で京城に出てきて精米所を営んでいた。家庭は裕福で三男の信洛は成人したら亡父の家業を継ぐことになっていたが、素人相撲で活躍していたのが朝鮮総督府の小方寅一警部補の目に留まり、小方の義父が後援会幹事を務める二所ノ関部屋に紹介された。

 初めて日本の地を踏んだのは長崎県の大村で、小方の義父百田巳之吉が身元引受人になったことで、後年のプロフィールは長崎県大村市出身百田光浩となったが、入門当初は本名のままだった。

 幕内力士と親方の二枚鑑札を背負った玉ノ海梅吉率いる二所ノ関部屋は、先代の玉錦以来稽古の厳しいことで知られ、「二所の荒稽古」と恐れられていた。

 当時の朝鮮と台湾は日本に併合されていたため、体格のいい朝鮮人、台湾人の相撲部屋入門者も多かったが、相撲社会に馴染めずほとんどが脱落していった。当初は玉ノ海もそのことを危惧していたが、反骨心が強く力士としても有望な信洛にはあえて過酷な試練を与えることにした。

 玉錦が山口組二代目山口登と義兄弟であったことから、部屋には四六時中筋者が出入りしており、その中から力士になった玉登を筆頭に「二所の悪三羽烏」として若い衆から敬遠されている虐めの常習犯的な力士がいた。

 こともあろうに玉ノ海はその三力士に信洛をかわいがるよう指示したのだ。相撲界でのかわいがりとはスパルタ指導のことである。もとより日本語が話せず、第三国人としてからかわれていた信洛は、底意地の悪い兄弟子たちから徹底的にいびられ、この時殴られて鼓膜が敗れた左耳は生涯聞こえないままだった。

 しかしその一方で玉ノ海は実質的な愛弟子第一号である信洛には大きな期待を寄せていた。力道山という四股名は、稽古場に飾ってある二所ノ関部屋名誉後援会長である近衛文麿(当時は内閣総理大臣)の揮毫「力心一道」にちなんだもので、まだ海のものとも山のものともわからないような新弟子にこれほど立派な四股名を与えること自体特別扱いであった。

 入門から約一年、昭和十六年一月場所番付では朝鮮・力道山昇之助の名が初お目見えした。甘えん坊の三男坊だった力道山は不敵な面構えにもかかわらず、性格は温厚で歳の近い女将さんにもよく甘えていたが、荒稽古に揉まれているうちに気性も荒くふてぶてしくなり、番付が上がるにつれかつての兄弟子を小馬鹿にするような態度を取るようになった。

 玉ノ海が直々に押し相撲を手ほどきするなど、一種の逆英才教育を施したことで、力道山は八十九名にも及んだ同期の中では最も早く出世したが、朝鮮人コンプレックスは常に引き摺っていた。関取になる前にもかかわらず、酒と女に溺れ、未入籍のまま京都の料理屋の仲居との間に三人の子をもうけるなどでたらめな私生活を送ったのも、行き場のない怒りからくる現実逃避だった。

 幸いというか当時の社会は角界には寛容で、相撲さえ強ければ巡業先での粗相などは不問に付される時代だった。後に耐火煉瓦を手刀で粉砕するほどの威力を見せた力道山の代名詞、空手チョップも、力士時代に磨きをかけた強烈な突っ張りが根底にある。三段目、幕下で全勝優勝した頃には相撲雑誌でも有望力士として再三紹介されるほど、迫力満点の押し相撲は評論家筋からの評価はうなぎ登りだった。

 五戦全勝で幕下優勝を果たした十九年五月場所は、最終日に全勝同士で対決した角界最大のホープ千代の山を堂々寄り切る気迫の相撲を見せた。ともに十両に昇進した翌十一月場所は八勝二敗の千代の山に優勝をさらわれたが、本割では豪快な上手投げで完勝している。

 この場所は千代の山と同門でさらに一回り大きい智異ノ山も大相撲の末、打棄りで撃破しており、巨漢力士を張り差しからの真っ向勝負で仕留める気迫の相撲は、さながらB29の防御火網をかいくぐって体当たり攻撃をかける零戦のように勇壮で、十両時代から大変な人気を博していた。


 角界一の元気者として将来を嘱望される一方、短気で酒癖が悪く、酒の上でのトラブルが多かった力道山は相撲協会にとっては頭痛の種でもあった。それでいて子供好きで面倒見の良いところもあり、満州巡業中に知り合った当時小学生の森徹のことを弟のように可愛がっていた。

 後年、森が六大学野球のスターになって再会した時も、満州で大きな料亭を経営していた森の実母から世話になった恩義を忘れておらず。終生公私にわたって面倒を見続けた。

 プロレスラー時代には、とかく金に汚いと悪評が高かったが、森の他にも金田正一、張本勲といいった韓国籍のプロ野球選手には気前がよく、当時としては最先端のトレーニング施設を自由に使わせていた。一時期は正月となると森、金田、張本が力道山邸に集って餅つきに興じるのが恒例となっていた。


 力士らしからぬハイカラなセンスの持ち主だった力道山は、髷姿でスーツやポロシャツを着用したり、アメリカ製の大型バイク、インディアンで場所入りしたりと、とにかく良く目立ち、話題性には事欠かなかった。

 紋付姿でバイクとは何か滑稽なイメージが浮かぶが、これを力道山がやると実にサマになっていて、徒歩かタクシーで場所入りするのが常識だった時代、遠くから爆音とともに砂塵を巻上げながら力道山の乗った巨大なバイクが疾走してくると、大人も子供も羨望の眼差しでそれを眺めていたものだ。

 後にプロレス王として一世を風靡したのも、ただ強いだけではなく一種のエンターティナーとしての資質が備わっていたからに他ならない。


 新入幕は昭和二十一年秋場所で、ライバル千代の山より一年遅れたが、幕内二場所目には九勝一敗の好成績で相星の羽黒山、前田山、東富士とともに優勝決定戦に出場し、善戦の末、羽黒山の軍門に下った(優勝は羽黒山)。

 戦後は戦勝国民扱いされるようになったことでコンプレックスから解放されたばかりか、急に戦勝国民づらをして日本人に狼藉を行う同国人を鉄拳制裁するなど、正義感は強かった。

 警官でさえ見て見ぬふりをする第三国人による電車の客車の占拠に居合わせた時など、猛然と抗議して全席を解放したほか、大きな顔をして街を練り歩く朝鮮人ヤクザ五、六名をまとめて叩きのめすなど、二所の荒稽古で鍛え上げた腕力を巷でも存分に発揮した。

 の半面、饒舌で新聞記者にも愛想が良く、二十三年十月場所で新小結に昇進した頃は人間的にも落ち着きがでてきた。芸者を身請けして所帯を持ち、幼い子供を二人引き取ったのもこの頃だった。

 ところが、好物の川蟹を生で食べたのが原因で肺ジストマに罹患してからは力士人生にも次第に狂いが生じ始める。体調不良で迎えた二十四年一月場所に大負けして関脇の座を滑り落ちると、二十五年には番付の不公平を理由にかつては付け人を務め敬愛していた神風が角界を去り、角界に対する不信・不満が募ってきた。

 これまでも番付面での不遇を自覚していた力道山は、その理由を朝鮮国籍によるものと思い込んでいたため、再びコンプレックスに苛まれるようになり、派手な生活で鬱憤を晴らしては金策のために怪しい事業に片足を突っ込むという悪循環に陥っていた。

 師匠玉ノ海は小言は言っても愛弟子を庇い、尻拭いもしてきたが、唯一頭が上がらなかった神風が角界を去り、口答えすれば暴力で抑え込んできた前田山という怖い先輩も現役を引退したことで、もはや力道山を諌められる人間は居なくなってしまった。

 そそっかしく思慮が浅い力道山はついに玉ノ海からも見放され、二十五年秋場所直前に自ら髷を切り廃業してしまった。そもそも力道山が人気力士になれたのは、戦前の政財界と太いパイプを持っていた玉ノ海が、どこへ行くにも力道山を連れていって売り込んでくれたおかげであり、関脇二場所目で、大関も狙える位置にいただけに、理由なき引退は様々な邪推を生んだが、本人は「師匠から裏切られた」というような曖昧な言い方しかしておらず、玉ノ海もこの件に関しては口をつぐんでいたため、世間からは金銭的なトラブルであろうと見られていた。

 しかし後年、部屋に多額の借金を申し入れたことを断られたことが要因だったことが発覚する。

 再三、部屋にハガミ(借金)を入れては一攫千金を目論み、挙句の果てには警察捜査対象になるほど裏社会とズブズブの関係になったことで、ヤクザ嫌いの玉ノ海から愛想を尽かされたのが真相だったのだ。 

 しかし、力道山は自身の行動を美化し続け、後に日活で自伝映画が製作された際には玉ノ海や相撲協会からクレームが付けられ、ノンフィクションという表記を取り去るというトラブルにまで発展している。


 力道山は衝動的に相撲界を去ったわりには、相撲そのものは好きだったようで、弟弟子だった若乃花をはじめとする一部の力士たちとは親しくしていた。若乃花が力士には珍しく、ポロシャツにスラックススタイルで人前に姿を現すことが多かったのは、ハイカラなファッションを好んだ力道山の影響だったのかもしれない。

 また、後にプロレス界に入ってくる東富士の四度目の優勝(昭和二十六年九月)の際には、優勝パレードのため自身が所有するオープンカーを貸し出しているが、優勝力士がオープンカーに乗ってパレードをするのが角界の慣わしとなったのは翌年一月場所以降のことであり、東冨士はその先駆ということになる。

 NHKでテレビ中継が始まった昭和二十八年には、プロレス中継によってプロレスラーとして有名になっていた力道山が、九月場所で六度目の優勝を果たした東冨士の優勝パレードで自らオープンカーのハンドルを握り、先輩の偉業を祝福している。

 また、あまり知られていないことだが、大相撲の海外巡業の成功もプロレスを通じてアメリカのショービジネス界に大きなコネクションを持つ力道山の存在抜きには語れない。

 これは相撲協会理事だった元前田山の高砂親方からの依頼に応じたもので、自分を追い出した相撲協会に恨みを持っていながら、あの傲岸不遜だった前田山から頭を下げられては断るわけにはゆかず、一肌脱いでいる。アメリカ巡業の成功で高砂の株は上がり、ハワイから高見山を連れてくるなど大相撲の国際化にも大きな功績を残したが、そのお膳立てをしたのは力道山であった。


 昭和三十年代前半、プロレスが大相撲を凌ぐ人気を博すようになった頃、力道山は相撲をプロレス以下のスポーツであると平然と口にするようになった。角界では雲の上の存在であり、プロレス入門当初は敬意を抱いて遇していた東冨士にすらタメ口をきくようになり、未払いの給料も凍結したまま追い出したのもその一例だが、三役以下の力士上がりのプロレスラーでも旧制中学出身者など学のある者に対しては冷淡な態度を取ることが多かった。

 全てはコンプレックスの裏返しであり、大卒のアマレス出身者などは徹底的にこき下ろした。

 自身が学歴もアマチュア歴もない叩き上げであり、角界でこそ頂点には届かなかったものの、プロレスでの成功を機に実業家としてもテレビ局や地方の興行師までひざまずかせる存在になったことで、エリートに対する意趣返しのような言動はどんどんエスカレートしていったのだ。

 その一方で人に取り入るのが巧く、利用できる相手は徹底的に利用した。これも若き日に旨い儲け話に乗せられて再三痛い目にあった経験によるものだ。人を信じられない性格のため、猜疑心が強くいつも孤独だった。

 見栄坊で自分のためには湯水のように金を使う反面、家族や同僚レスラーに対しては徹底的にケチを貫いた。これに嫌気が差して離婚した最初の夫人は「こんなに気が小さな男とは思わなかった」と酷評しているが、周囲と格差をつけることしか自身のプライドを維持するすべを知らなかったように思える。

 日本人に成りきろうとするあまり、過去を知る人物を疎んじ、同胞から気安く話しかけられることにも嫌悪感をあらわにしていたが、自宅ではこっそり朝鮮語のレコードを聴き、今日のような強靭な肉体を作り上げたのは二所の荒稽古のおかげだとうそぶくなど、次第に実像と虚像の境がわからなくなり、周囲にはイエスマンしかいなくなったのは哀れだった。

 気性の激しさでは角界一の前田山も酩酊した力道山にはお手上げだった。ガラスのコップをばりばり噛み砕くは、気に障ればヤクザ者でも半殺しにするわ、もう手が付けられない(多くのトラブルは金で解決したとされる)。

 付け人だったアントニオ猪木は、酔った力道山から理由もなくゴルフのドライバーで頭を痛打されたことが何度もあり、一時は殺意すら抱いたという。

 そんな力道山も、安藤組幹部の花形敬(伝説の喧嘩名人)だけは恐れていて、何度喧嘩を吹っかけられても逃げ続けた。柔道王木村政彦との世紀の一戦に勝った後も(八百長と言われている)、極真空手の大山倍達から勝負を挑まれながら無視するなど、リング外では意外に小心なところがあった。

 三十八年十二月八日に赤坂の高級クラブ、ラテン・クオーターでチンピラとの口論が原因で刺された時もほとんど無抵抗だった。ドスで刺されて傷が小腸にまで達していたにもかかわらず、応急処置だけで帰宅したのは自らの肉体に対する過信とも言われているが、その後、緊急手術を余儀なくされている。

 連日のように順調な回復が伝えられ、十四日には軽い食事ができるほどになっていたが、十五日朝に腸閉塞を併発し、手術の甲斐なく亡くなった。


傍目には億単位の金を動かす実業家、プロモーターでありながら、事業を拡大しすぎた反動で、実際は自転車操業だったという。スポーツの殿堂リキパレス、高級マンションのリキアパートなど完成時には華々しく紹介されたものだが、彼の死後三年と経たないうちに自宅を除くほとんどの資産は人手に渡り、その栄光を忍ぶものはほとんど現存していない。

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