第51話 天衣無縫のドライボーイ 若羽黒 朋明(1934-1969)
若羽黒は大関13場所中、勝ち越しは8場所で強い大関とは言えなかったが、粋なハマっ子で華があった。同い年の安念山は実直な田舎者で力士としては若羽黒に遠く及ばなかったが、腰が低く要領が良いのが幸いして立浪部屋の継承者となり、引退後の人生は明暗を分けた。私は融通が利かない自由人で要領が悪いがゆえに見事なまでの転落人生を送った若羽黒の方が人間として好きだ。
若羽黒こと草深朋明は少年時代から横浜曙町の問題児だった。粗暴な性格もさることながら、金魚にアルコールを注射したり、鶏の目玉をくり抜いたり、猫の尻尾に花火をくくりつけたりといった異常な行動が目立ち、前途をはかなんだ家族の意向で半ば強制的に立浪部屋に入門させられた。
もっとも、朋明自身はボクサーに憧れており、体格と運動神経に恵まれていたことから、人気ボクサー、スピーデー章(後の日本フライ級チャンピオン)のいるカワイジム会長、河合鉄也からも「重量級チャンピオン間違いなし」として勧誘を受けていた。しかしこれは母の房が猛反対し、最終的には親族会議で相撲部屋に入れることになった。
子供の頃から朋明のことを良く知る元行司の福地亀吉は、家族の依頼を受けて、朋明を本場所観戦に連れ出して、そのまま立浪部屋に預けてきてしまった。
事情を知らない朋明は稽古を見学したり、ちゃんこをご馳走になったりしたあげくに部屋に泊めてもらうことになったが、自宅に戻ろうにも部屋の力士たちからはいつの間にか新弟子と認識されており、いまさら抜けようにも抜けられなくなってしまっていた。昭和二十四年三月のことである。
これらは全て福地の先輩行司である木村庄三郎のとりなしによるもので、相撲の他には水泳と柔道をやっていたという巨漢の中学生にほれ込んだ庄三郎は、以後も角界における後見人として影に日なたに朋明を支えてゆくことになる。
「若羽黒」の四股名も羽黒山に近づけるようにという思いを込めて彼がつけたものだ。この庄三郎こそ、後に「ヒゲの伊之助」の愛称で万民から親しまれた名物行司、第十九代式守伊之助である。
しつけに厳しい相撲界に入ってからも生意気で協調性のない性格は一向に変わらなかった。関取がいないような小部屋ならまだしも、名門立浪部屋には現役横綱の羽黒山を筆頭に、名寄岩、時津山、北の洋といった強豪力士がごろごろおり、巷のガキ大将などあっという間に去勢されてしまいそうなものだが、若羽黒に至っては少々殴られようが張り倒されようが全く意に介さないほど図太かった。
平成の大関千代大海(大分県出身)は、中学時代から隣県の福岡の不良連中からも恐れられていたほど腕っ節が強く、20対1の喧嘩でも相手を全員のした武勇伝の持ち主だったが、九重部屋に入門してからというもの、関取連中の桁違いの腕力の前に子供扱いされ、たちまち従順になったという。
若羽黒にとって救いだったのは、入門後間もなく身体の少し不自由な親方(先代)の世話係として小岩三丁目の親方の自宅に住み込むことになったことだ。入門当初は何度か脱走した若羽黒も「ヨコハマ、もう逃げ出さないのかい」「ヨコハマ、巡業は楽しかったか」など、何かと声をかけてくれる親方から力士としての心がけや偉大な力士のエピソードなどを拝聴しているうちに俄然やる気になってきた。
若羽黒の新弟子時代、実質的に部屋を仕切っていたのは横綱羽黒山で、若羽黒は後に立浪の名跡を継ぐ羽黒山の直弟子第一号だった。羽黒山は抜群の素質を持つ若羽黒に入れ込んでいたからこそ四股名に羽黒を与え、よくよくは愛娘の婿にしたいとまで考えていたが、つかみどころのない性格を持て余し、弟弟子に当る安念山の方に次第に気持ちが傾いていった。
一歳年長だが入門が数ヶ月遅い安念山と若羽黒は、全く真逆の性格で体格もソップ型とアンコ型と異なっていたが、同世代の中では傑出した相撲勘を持つ二人を、競わせながら育てる、という立浪親方の方針はある意味、的を得ていた。
体格に勝り柔らかい上半身を生かした押し相撲に天才的なひらめきを持っていたにもかかわらず、何事もマイペースで稽古嫌いの若羽黒を本気にさせるには、安念山という身近なライバルに嫉妬心を燃やさせるほかはない。二十四年十月が初土俵の若羽黒が意外にもたついたのに対し、二十五年一月の初土俵で六戦全敗という最悪の出だしだった安念山の方が、稽古熱心だったこともあって出世は早く、二十九年五月場所には二十歳の若さで入幕を果たしている。
ようやく尻に火が付いた若羽黒はここから猛然と追い上げる。温厚で誰にでも愛想が良い安念山は滅多に師匠に叱られることもなく順調に出世してきたが、きかん坊の若羽黒は周囲から孤立したまま師匠からもどやされどおしだった。
このような指導法は後にプロレス王力道山がジャイアント馬場とアントニオ猪木を競わせるために用いたのと同じである。性格的にデリケートな馬場はおだてられた方がその気になり、負けん気が強く打たれ強い猪木は厳しく突き放した方がファイトを燃やしたからだ。
若羽黒の味方といえば、式守伊之助だけだったが、「お調子者の安念の奴だけには負けられん」と闘志を燃やし三十年三月場所に入幕を果たすと、東前頭十五枚目だった三十一年三月場所に十二勝三敗と大勝ちし、ライバルより一足先に三賞(敢闘賞)を受賞した。番付でも翌五月場所には西前頭2枚目まで上がり、西前頭四枚目の安念山を抜き去った。
調子付いた若羽黒は同年九月場所には技能賞を獲得し、翌三十二年一月場所には小結に昇進する。
同年五月場所に安念山が初の三役(小結)に上がれば、同じ場所で新関脇昇進と常にリードを保ってきたが、新三役の場所に安念山が初優勝し、またしても番付順位をひっくり返される。
そこからの二人の出世争いはとても同門とは思えないほど熾烈を極めた。師匠の覚えも良かった安念山が親方(羽黒山)の長女と結婚したのは三十四年九月のことで、この場所八勝七敗と勝ち越した安念山は関脇に復帰するが、ライバルが両手に花だったこの場所、十二勝三敗の若羽黒は技能賞を手土産に遂に大関の座を射止めたのである。
直近三場所の通算成績が三十勝十五敗というのはかなり甘い昇進だが、四場所連続三役を務めている安定感が評価されたのだろう。
両者にとってキャリアのピークは三十四年十一月場所だった。新婚の安念山と新大関の若羽黒のプライドが火花を散らしたこの場所、序盤から十連勝した若羽黒が優勝争いをリードしたが、終盤に若乃花、栃錦の両横綱を撃破した安念山が千秋楽まで食い下がるマッチレースとなった。
最終的には千秋楽に先輩大関琴ヶ浜を一方的に押し出した若羽黒が十三勝二敗で振り切り、念願の初優勝を果たした。この一番、裁いた行事は式守伊之助だった。この場所で定年を迎える伊之助の最後の夢が、自身が見出した若羽黒の優勝だった。
表彰式が終わると、若羽黒は親方への挨拶を後回しにして行司部屋に駆け込むと、「親方、勝ちました!」と伊之助の前で両手をついた。相撲界のしきたりなどどこ吹く風で、行司と手を取り合って感激に咽ぶ優勝力士など空前絶後であろう。こういう天衣無縫なところが、若羽黒の魅力であると同時に保守的な世界で生きてゆくには愚直過ぎたといえるだろう。
ちなみに十二勝三敗で涙を飲んだ準優勝の安念山は殊勲賞を受賞した。
場所後に同棲中だった医師令嬢と華燭の宴をあげた若羽黒は言うに及ばず、この頃の立浪部屋もわが世の春を迎えていた。三役の常連である時津山と北の洋に加えて、綱取りがかかる若羽黒と大関取りがかかる安念山とともに二十五歳という若きホープが順調に出世しているのだから、親方もさぞかし上機嫌だったことだろう。
ところが、不思議なもので熾烈な出世争いで精根尽き果てたのか、翌三十五年からは若羽黒、安念山ともに往年の冴えが見られなくなり、以後は揃って三賞にも無縁のまま現役生活を終えるのである。
三十五年一月場所、綱取りのかかった若羽黒がよもやの負け越しを喫すれば、三月場所には大関の可能性を残していた安念山まで負け越して三役から陥落してしまった。
若羽黒が大関を陥落した三十七年一月場所から三場所連続、東西の関脇に若羽黒と安念山が並び再び両者のライバル心に火がつくも、力尽きた安念山が六場所続けた三役から陥落した翌場所には若羽黒までが平幕に落ち、後は尻すぼみの土俵人生となる。
昭和三十六年に師匠の四股名を継承しもうひと花と思っていた安念山改め二代目羽黒山も、部屋の後継者となり宿命のライバルが平凡な力士に成り下がるや、闘争心が急速に薄れていったのだ。髷を切ったもの同じ昭和四十年三月場所後と、この二人は最後までお互いを意識していたのかもしれない。ともにまだ三十歳の若さだった。
全盛時代は「安念チャン」の愛称で女性や子供のファンが多かった実直で真面目人間の安念山に対して、いかにも現代っ子らしい若羽黒は「ドライボーイ」と呼ばれ、言動が面白いので記者連中からは人気があった。
あまりの練習嫌いに業を煮やした師匠から竹刀で叩かれれば、「痛いよ、親方」などと相撲界の常識では考えられないような泣き言を言うわ、部屋付きの親方から叱咤されれば「親方の番付どこだった」と小馬鹿にするなど言いたい放題だった。
力士にしては珍しく酒が飲めないためサイダーばかりがぶ飲みしていたのはまだしも、チャンコも嫌いで外食ばかり。
ある時、某クラブで当時安藤組の顔役だった安部譲二と女の取り合いで大立ち回りを演じたこともある。仕掛けたのは元ボクサーで腕っ節には自信のあった安部の方で、大関の左脇腹に渾身の右フックをねじ込んだまではよかったが、若羽黒は「はぁん?」とつぶやいただけで、元ボクサーの不意打ちのパンチが全くこたえていなかった。
で、安部はどうなったかというと、直後に若羽黒が見舞った張り手の一撃で壁に叩きつけられて失神してしまい、以後は舎弟に「力士にだけは手を出すな」と戒めていたという。
元ボクサーで喧嘩慣れした安部が避ける間もなくたったの一撃で失神するほど強力な張り手を持った若羽黒のこと、その突進力は横綱・大関クラスでも持て余すほどだった。
一方、安念山が大関になれなかったのは、相撲は巧いが相手の力を利用するタイプだったため、受けに回ることが多かったからで、取りこぼしが少なく用心深い大鵬には全く歯が立たず、二十一戦全敗だった。
若羽黒が最後に輝きを見せた三十五年十一場所は、終盤に新進気鋭の大鵬と激突し、力相撲で押し出し二度目の優勝を引き寄せたかに見えたが、以後取りこぼしのなかった大鵬に逆転され準優勝に終わっている。
アロハシャツ姿で場所入りして協会から咎められたり、場所中に後楽園遊園地のジェットコースターで奇声を挙げているところを目撃されたりと、奇行が目立つ男だったが、立浪部屋の出世頭という金看板と人気があるうちは全てが許されていた。そしてそのことが角界一のわがまま男を増長させ、ギャンブル癖にも拍車をかけた。
結果、新婚時代には四階建てアパートの最上階のフロアを借り切るというデラックスな生活も長くは続かず、大関陥落直前には喫茶店の二階へと落ちぶれていった。三十七年秋場所を最後に平幕に陥落すると妻子とも別居状態になり、三十九年五月に正式離婚した。
宵越しの金を持たなかった若羽黒は親方株も買えず、引退と同時に廃業するしかなかった。
国電田端駅近くにおにぎり屋「若」を開店して第二の人生を歩もうとしていた矢先の五月六日、銃刀法違反で警視庁に逮捕された。当時は芸能人や文士、スポーツ選手による拳銃の密輸不法所持が次々と摘発されており、彼もその網にかかったのだ。
逮捕された若羽黒は素直に取り調べに応じたが、ここで、現役横綱である大鵬、柏戸もハワイ巡業の時に一緒に拳銃を購入したことまで白状したため、相撲界は近年の賭博事件以上の大騒ぎとなった。
しかし、詰め腹を切らされるのはいつの時代でもトップではない。近年の賭博事件で大関琴光喜が永久追放になっても横綱白鵬が厳重注意で終わったのと同様、この時も実刑判決が出たのは若羽黒だけで、拳銃を隅田川に捨てて処分した大鵬と柏戸は証拠不十分で釈放されている。
親族が保釈金を払ってくれたおかげで刑務所入りだけは回避した若羽黒だったが、四十四年三月二日の夜、手伝っていた岡山の酒場の二階で急に「気分が悪い」と言ったきり事切れてしまった。
世渡り上手の安念山も、せっかく横綱に育て上げた双羽黒を制御できず、逆に親方が弟子からブン殴られるという前代未聞の失態を演じている。双羽黒は四股名が一字違いの若羽黒に性格的に似ていたので、安念山も愛弟子ながら生理的に好きになれなかったのではないかと推察する。逆に若羽黒が親方だったら、二人ともC調でオタクの気があったので、結構ウマが合い、双羽黒の相撲人生も違ったものになっていたかもしれない。双羽黒も若羽黒が乗り移ったかのような転落人生だった。




