第50話 和製キングコング 朝潮 太郎(1929-1988)
長嶋茂雄の名は昨年亡くなるまで球界のビッグネームであり続けたが、長嶋の現役時代にアスリートとして人気を二分した時期もあった朝潮の名はすでに過去のものである。力士が野球選手と同じくらい人気があったなんて、今の若者たちには信じがたいかもしれないが、昭和30年代は力士のブロマイドの売り上げも野球選手や映画スターにひけを取らなかったのだ。
現代と違って髭が濃く毛深いことが男らしさの象徴と見られていた昭和三十年代、巨人軍の長嶋茂雄、流行作家の三島由紀夫とともに「胸毛」で人気があったのが、朝潮太郎である。
一八九センチ一四五キロという大男の朝潮は、胴長短足で両腕が長く、しかも毛深いことから仕切っている最中はまるで毛ガニかゴリラのように見えたものだ。
同じく野性味溢れる容貌でも、長嶋や三島にはスタイリッシュさも同居していたこともあって老若男女に人気があったのに対し、ゲジゲジ眉で不動明王のようないかつい顔つきの朝潮の方は、残念ながら若い女性からもてはやされるようなキャラクターではなかったが、見た目と違ってシャイで気が優しいことから、子供たちには大人気だった。
当時の角界のスターである栃錦が「マムシ」、若乃花が「土俵の鬼」というぶっそうな綽名で呼ばれ、殺気みなぎる気迫の土俵を見せていた中、大陸的で鷹揚な雰囲気の朝潮が小型戦闘機のように機敏でしぶといこの二人を豪快に土俵から叩き出すさまは、まるで土俵の上のキングコングそのものだった。
格下の相手には取りこぼすくせに上位には滅法強いことも、判官びいきの日本人に受けがよかったのだろう。
昭和三十四年三月、『週刊少年サンデー』創刊号の表紙を飾ったのが長嶋なら、同時期発行のライバル誌『週刊少年マガジン』創刊号の表紙を飾ったのは朝潮だった。(同年発行の「週刊スポーツ」の創刊号も朝潮だった)
本籍地は鹿児島県の徳之島となっているが、出生地は神戸市で小学校までそこで過ごしてから、父の出身地である徳之島に転居した。戦後、神戸の叔父のもとにいる時、叔父が明大相撲部出身だったことから、大柄な甥を相撲関係者に紹介し、昭和二十三年に高砂部屋に入門するはこびとなった。
前田山の高砂親方があちこちに連れて行って見せびらかしたほど、朝潮は力士として理想的な体格をしており、古武士のような面構えも大物の風格満点だった。
子供の頃から大人顔負けの体格をしていたことから、幾度となく草相撲に誘われたが、本人は見た目とは裏腹に気が弱くいつも逃げてばかりいた。
「どうして俺ばかりがキングコングのように大きく生まれたんや。俺、恥ずかしくて学校にもよう行かん」と母親にしょっちゅう悪態をつくほど、大きな身体にはコンプレックスを感じていたというから、平均身長が一六〇センチ台前半だった同時代の男性からすれば贅沢な悩みだった。
劣等感から解放されたのは、国民学校卒業後に軍需工場で働き始めてからのことだ。大男で馬力があることから周囲から羨望のまなざしで見られるようになったことで、にわかに自信が湧いていた。
ところが、終戦後に奄美の青年団の相撲大会に出てみるとからっきし勝てない。そもそも相撲などやったこともないうえ、性格的にも闘志に乏しかったため「見かけ倒し」と嘲笑を浴びた。
相撲に本気で取り組むようになったのはこの時の屈辱感を払拭するためだった。十七歳で一八三センチ百キロのガタイである。技を覚えコツをつかんでしまえば素人などものの数ではなかった。
昭和二十二年の四町合同相撲大会で優勝するとさらに欲が出てきた。
「角界で自分の力を試したい」
その一心で神戸の叔父を頼って再び本土に渡った朝潮こと米川文敏は、根性なしだった頃が嘘のような豪快な相撲で角界の出世街道を驀進した。
昭和二十三年秋場所に初土俵を踏んでからちょうど二年目にあたる二十五年秋場所に十四勝一敗で十両優勝して入幕を決定させたが、初土俵から入幕までわずか七場所というのは、戦後に初土俵を踏んだ力士の最短記録であった。
朝潮の入幕当時の幕内は二一四センチの不動岩を筆頭に、二〇三センチの大内山、一九四センチの大起、一九一センチの千代の山と長身力士がずらりと並び、さながら摩天楼の趣きがあったが、重心が低い朝潮は自分よりも大型の力士には滅法強く、横綱千代の山にいたっては平幕時代の朝潮のお得意さんだった時期もある(対戦成績は九勝九敗の五分)。
千代の山といえば、「鉄骨のヤグラ」と形容された筋肉質な巨躯からの強烈な突っ張りで恐れられていたが、両者と対戦した若瀬川によると「千代の山の突っ張りをまともに食らうと土俵に突き倒されるが、朝潮のは土俵に落ちたあと尻で土俵を滑ってゆくほど威力があった」らしい。
では、巨漢力士の常で小兵を苦手としているかというとそうでもなく、名人横綱といわれる栃若ともほぼ互角に渡り合っている(対栃錦十三勝十六敗、対若乃花十六勝十七敗)。
右で褌を引きつけながらの左筈押しの型になると磐石で、あの大鵬が仰け反って引っくり返るほどの威力があった(対大鵬四勝四敗)。また、俊敏な相手に対しては長い両腕を生かして左右から挟みこむようにして追い回すため、軽量でも腕力では負けない若乃花が褌に手が掛からないまま土俵を割ってしまう場面がしばしば見られた。
入幕六場所目となる二十七年秋場所には、横綱羽黒山と千代の山、大関鏡里を破り、初の殊勲賞と新三役(関脇)の座を手に入れた。さらに翌二十八年初場所も前場所と同じ二横綱、一大関を三タテし、二場所連続で殊勲賞を獲得。二月の名古屋準本場所では全勝優勝と勢いは止まらず、もはや大関昇進は時間の問題と思われた。
ところが、同年春場所も新横綱鏡里に土をつけ、三場所連続二桁勝利と勢いに乗る朝潮が大関獲りに挑んだ秋場所は勝ち越すのがやっとという有様だった。結局、八場所連続三役を務めながら、三十年初場所には平幕に落ち、師匠とファンの期待を大きく裏切ることになった。
これは持病である腰痛と痔の悪化もさることながら、取り口が研究され尽くして、左からの投げに脆いという弱点が明らかになったからであろう。ゴツイ上半身のわりには下半身が脆く、組まれて揺さぶられると、いとも簡単にバランスを崩された。
とりわけ苦手としたのが吉葉山で、四つに組んでも勝てず、離れれば蹴手繰られるなど、相性が悪かった。
朝潮は「強い朝潮と弱い朝潮がいる」と言われるほど好不調の波が激しい力士だったが、何故か大阪場所に限っては驚異的な強さを発揮することから、「大阪太郎」の異名を取った。
生活経験のある関西はホームグラウンドのような気安さがあり、リラックスした相撲が取れたのだろう。もちろん地元だけに栃若や柏鵬をしのぐ大声援の後押しも大きかった。
大阪場所は昭和三十一年から三十三年まで三連覇し、三十四年は優勝こそ逃したものの十三勝二敗の好成績で横綱昇進を決めている。三十五年こそ途中休場し、生涯唯一の大阪場所負け越しを経験したが、翌三十六年は横綱昇進後の初優勝を大阪で飾り、大阪太郎の面目を施している。
入門から横綱を期待され、平幕時代から横綱大関にもしばしば苦杯を舐めさせるほど強かった朝潮が四度目の優勝でも横綱を見送られたのは、成績が不安定なところが危惧されたからである。それも地方場所は強く、東京に戻ると弱くなるという不思議なサイクルがあり、東京での場所は十両優勝した昭和二十五年秋場所(十四勝一敗)を除けば、最高でも十一勝しか挙げたことがない。
逆に大阪場所の強さは神がかり的で、横綱昇進以前の昭和三十年から三十四年までの対横綱戦の成績は十二勝二敗と素晴らしい。関脇時代までに限っても八勝一敗とどちらが横綱かわからないほどだが、下位に取りこぼしが多く、大関昇進までに三役を十六場所も務めるはめになった。
横綱昇進後は怪我に泣かされこれといった活躍が出来なかったため、栃若時代から柏鵬時代へのつなぎの横綱という役どころに見られがちだが、横綱になってからの栃錦は朝潮に負け越しており(朝潮の十一勝八敗)、勝ち越している若乃花にしても優勝決定戦や優勝がかかった一番など肝心なところでは朝潮に苦杯を舐めている印象が強く、栃若にとっても朝潮は難敵だった。
また実際の対戦成績を見てみると、先述の栃若だけでなく、柏戸に四勝六敗、大鵬に四勝四敗と柏鵬とも拮抗していることがわかる。特に注目すべきは、複数回顔を合わせている力士に一人たりとも負け越していない大鵬が朝潮だけには勝ち越せなかったことであろう。つまり、朝潮は栃若~柏鵬時代の引き立て役どころか、それぞれの時代のライバル横綱と全く遜色のない存在感を示していたのだ。
さらに注目すべきは平幕時代の対横綱戦の成績で、五横綱と対戦し通算六勝二敗と完全に圧倒している。これは横綱ともなると平幕に対しては受けて立つ横綱相撲を取ったため、朝潮の剛力に力負けしたことによる。
下半身の脆い朝潮は足技に弱く、内掛けや蹴手繰りで転がされることが多かったが、横綱クラスはそうそう飛道具は使わない。ただし大の苦手とした吉葉山は蹴手繰りの名手だったため、警戒しすぎて思い切りのいい相撲が取れなかった(朝潮の五勝十二敗)。
栃若、柏鵬といった一時代を築いた強豪力士に前後を挟まれていることもあって、横綱としての評価は高くはないものの、際立った個性のおかげで人気面では全く引けを取らなかった。
独特の風貌が絵になるのか、映画にも二本出演しているが、三十四年十月封切の東宝映画『日本誕生』では手力男命という神様を演じており、力士が映画で力士役以外に抜擢されるのは珍しい。
この映画は三船敏郎以下東宝のオールスターキャストで製作された大作で、年度配給収入でも第二位の大ヒットを記録した。
師匠前田山の死後は高砂の名跡を継ぎ、朝潮(4代目)、小錦、水戸泉らを育てた。この三名はいずれも賜杯を手にしたが、綱を締めることは出来なかった。
複数回対戦した力士に一人たりとも負け越していない大鵬が唯一勝ち越せなかったのが朝潮である。
栃若との通算対戦成績は29勝33敗で朝潮の負け越しだが、横綱時代の栃若には16勝14敗である。




