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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第49話 不撓不屈の鉄人 栃木山 守也(1892-1959)

一七三センチ百キロ弱の小兵でありながら、正攻法で大型力士を寄り切ってしまう栃木山の強さはある種の謎と言えるかもしれない。時代は違うが、羽黒山や照国クラスでも勝てなかっただろう。同体格なら双葉山も危なかったかもしれない。引退後の年寄が現役横綱二人を一蹴するというのは大谷翔平ではないが、まるでマンガである。

 「引き際が肝心」という言葉がある。社会人を例に取れば、誰しも周囲から「役立たず」「月給泥棒」などと陰口を叩かれる前に現役を退くのが理想である。とはいえ、様々な理由により、それが出来るのは一握りの人間だけだ。たとえ一生食うに困らない蓄えがあったとしても、長年慣れ親しんできたものから離れる寂しさや社会的地位に対する執着が潔さに待ったをかけることが多い。スポーツも同様である。

 しかし問題なのは、いわゆる「引き際の悪さ」が、それまで築き上げてきた過去の栄光にまで泥を塗ってしまいかねないことだ。実業家にせよ政治家にせよ、すでに往年の才覚が失われているにもかかわらず、才能ある若手が飛躍する可能性を摘み取ってまで、その席に居座り続けていれば、もはや老害に他ならない。「ボロボロになるまで」というのを美徳と見なす向きもないではないが、多くの場合、それは単なる自己中心的な言い訳に過ぎない。

 とりわけプロスポーツは、高額の報酬が伴うため、それに見合ったパフォーマンスが出来なくなれば商品価値はなくなる。中でも角界は実力主義が徹底しており、「世渡り上手」など通用しない過酷な世界である。野球やサッカーのように“控え選手”や“故障者リスト入り”という名目でただ飯にありつけるほど甘くはないのだ。

 常にレギュラー出場を強いられる角界は、過去の実績や人気などは関係なく、幕下に落ちれば無給になるため、それでも現役に固執したければ、無報酬のまま土俵に上がるか、自分の力で再び「有給」という待遇を勝ち取るほかはない。

 恒久的な地位である横綱でさえも、往生際が悪ければ、引退勧告という形でその地位を追われるように、角界の世代交代は、極めてフェアに合理的に遂行される。ゆえに偉大な力士と呼ばれる人はほとんど例外なく、「潔さ」を重んじてきた。これは武士によってこの競技が繁栄を築いてきた名残りといえるかもしれない。

 ファンから惜しまれつつ引退を選んだ横綱の中には、栃錦や大鵬のようにまだ綱の責任を果たせる力を持っていながらも、力士人生が下降線を辿っていることを自覚して身を引いた例も少なからずあるが、なおも無敵の余韻を残しながら、突然の引退を表明して世間を驚かせた力士となると、わずか数名に過ぎない。

 寛政の雷電と大正の太刀山も当時の角界随一の実力者でありながら引退を選んだ珍しい例だが、ともに年齢は四十歳を越えており、全盛期並みの活躍は期待出来そうになかった。

 ところが栃木山は三連覇の最中で、年齢的な衰えなど微塵も感じられないことから、第二次黄金時代がどこまで続くか期待されていただけに、優勝の翌場所直前に引退を発表した時には、多くの相撲ファンを落胆させた。

 すでに新番付が出来上がっていたため、大正十四年五月場所は全休扱いとなっているが、実質的には現役最後の場所も優勝していることになる。これは東京相撲から大阪相撲に鞍替えした陣幕や土俵外のトラブルの責任を取って引退した大錦を除けば、史上唯一の例である。

 このあまりにも潔すぎる引退は、かえって様々な憶測を呼んだが、愛弟子の栃錦も同門の佐田の山も花の盛りのうちに惜しまれながらの引退を選び、散り際の美しさを尊ぶ先例を作ったという意味でもまさに記録より記憶に残る力士だったと言えよう。


 明治二十五年二月五日、栃木県下都賀郡赤麻村という寒村の農家の長男坊として生まれた栃木山こと横田守也は、尋常小学校卒業後は家業である農業に従事していたが、明治四十三年九月八日、突如故郷を出奔し、鹿沼町出身の当時三段目力士宇都宮新七郎(最高位前頭筆頭)の伝手で出羽海部屋に押しかけ入門した。

 すでに結婚もしていたが、農家の子倅という身分にもかかわらず、私塾求道館で漢学を学んでいたほど上昇志向が強かった守也は、相撲取りになるというよりも、このまま田舎でうだつの上がらない人生を送りたくはないという理由で、妻を残して家を出たのだった。

 身長一六八センチで筋骨隆々とした身体つきは、当時の一般人としては大柄な部類だったが、相撲の世界ではあまりにも貧弱である。しかも年齢も十八歳とこれから下積みするには遅すぎる。案の定、常陸山からは「悪いことは言わねえから国へ帰んな」とやんわり断られたが、他に当てもなく故郷を飛び出してきている守也としてはもう後には引けなかった。

 幸い、部屋付きの行司が「この子は見どころがある」と言って常陸山に取り入ってくれたお陰でなんとか入門を許された。と言っても、台所係りを仰せつかっただけで練習をさせてもらえるわけではなかった。

 横綱常陸山を頂点とする出羽の海部屋は総勢百人を超す大所帯である。そのうち常陸山からは存在さえも忘れられてしまった。

 明治四十四年一月、出身県にちなんで栃木山という四股名をつけてもらった守也は、四つ相撲全盛の時代にあって、押し相撲に活路を見出した。小兵でも小錦のように体重があれば、鋭い出足と前さばきの巧さでがっぷり組んでも力負けすることはないが、軽量の栃木山はまともに組んでしまうと勝負にならない。

 したがって、追っつけと筈押しで相手にまわしを取らせないようにしながら、一気に押し出すしかない。このスタイルが完成したのは、入門前から何かと世話を焼いてくれた宇都宮のお陰である。幕下の時まで、稽古場では毎度のように宇都宮から力でねじ伏せられていた栃木山は、日夜宇都宮に勝つ方法を試行錯誤する中で、次第に腕力で勝る力士をさばくコツを身に付けていった。

 栃木山の幕下時代、宇都宮はすでに入幕しており、腕力だけなら幕内でもトップクラスだった。

 その宇都宮から左を差されても、右から強烈なおっつけでまわしを切るか、そのまま絞りあげなが

ら上体を浮き上がらせる相撲が取れるようになった時、ようやく栃木山の勝利の方程式が確立した。

 ついに番付で宇都宮を抜いた大正四年六月場所、前場所に全勝優勝を飾り横綱に昇進したばかりの鳳から初金星を獲得した栃木山は、翌場所も鳳を一蹴すると、五年一月場所には太刀山から初白星を挙げ、入門時に栃木山を過小評価していた師匠を脱帽させた。常陸山自身、後年、最も期待していたのは宇都宮と若常陸で、栃木山と常ノ花の出世は想定外であったことを認めている。


 通常、小兵の力士はある程度は力負けしないために体重を増やすものだが、栃木山は一〇〇キロを超えると練習で絞り込み、それ以上増やさないよう心掛けた。スピードを重視するために、体重は犠牲にしたのである。

 徹底的にすり足にこだわったのも、身体の浮き沈みを抑えて、踏ん張りをきかせ、一気に勝負を決するためであり、ついには普段の歩行まですり足になるほど身体に染み付いてしまった。そのため、走る時もうまく膝が上がらず、力士たちの運動会では意外にも運動神経抜群の栃木山がいつもダントツのビリだったらしい。

 かの天龍三郎が「電光石火の立ち合い」と称した栃木山の立ち合いの当たりは、とても小兵力士とは思えないほど強烈で、大男の天龍でさえ、気合を入れて受け止めないと首筋に電流が走るような衝撃を覚えたという。

 序ノ口から幕下二場所目まで二十一連勝を記録したが、常陸山以下、ずらりと関取衆が名を連ねる出羽海部屋では存在感は薄く、ほとんど話題にならなかったのは気の毒だった。

 入門時に台所係りをやるよう命じた常陸山でさえ、三段目に上がって「おい、あれは誰だ。強いなあ」とようやく目にかけてくれるようになった。入門からわずか七場所で入幕というのは、その取り口と同様、驚異的なスピードだった。


 栃木山は大関から横綱になるあたりが最強で、初優勝した大正六年五月から八年五月場所まで五連覇を記録している。しかもこの間の敗戦は一度だけで、まさに磐石といっていい。しかし、現役時代における最高の一番と言えば、大正五年五月場所八日目、鉄人横綱と言われた太刀山との一戦に尽きる。

 この場所も全勝街道をひた走る太刀山は連勝を五十六に伸ばし、梅ヶ谷の五十八連勝まであと星二つ、相撲史上最高記録(当時)である谷風の六十三連勝も射程距離に入っていた。入門以来、一

度の負け越しもない新進気鋭の新三役(小結)栃木山といえども、太刀山相手では子供扱いされるのがオチと思われていた。

 前日の取り組みで突き指した左指が紫色に腫れ上がって痛々しい太刀山は、栃木山の突っ張りを受け止めてから右上手を狙ったが、左からすくわれてバランスを崩してしまったところを、低い体勢から懐に潜りこむように左を差され、そのまま寄り切られてしまった。

 この奇跡的な勝利に館内が割れんばかりの大歓声に包まれる中、当の本人は当惑しきりで、勝ち名乗りを受けるや、逃げるように支度部屋に向かっていった。観客からのご祝儀である百円札が二枚背中に張り付いているのに気付いたのも支度部屋に戻ってきてからのことである。

 これだけでもサラリーマンの月給の数ヶ月分だが、この夜誘われるままにあちこちの祝宴に顔を出して集まったご祝儀は、何と一万二千円にものぼった。千五百円あれば家一件建てられる時代だから、現在なら二億は堅い。おそらく一晩で集まった史上最高額のご祝儀であろう。

 ところが、毎晩ビール五~六本と日本酒二升の晩酌は欠かさないというウワバミの栃木山は、毎晩仲間を連れて飲み歩き、たったの一週間で莫大なご祝儀をきれいさっぱり使い果たしたというから驚きである。横綱・大関ならまだしも三役になりたての二十四歳の若者がこの御大尽ぶりとは、この道でも大横綱だった常陸山も開いた口が塞がらなかっただろう。

 栃木山というと、稽古場では無口で愛想がなく、何事にも一生懸命で手抜きをしないお堅いイメージで見られていたが、酒宴好きで芸妓を妾に囲うなど遊びの方も堂々たる横綱だった。

 常陸山と親しかった政治ジャーナリスト野依秀市が栃木山と新橋で芸者を囲んで飲んでいた時のこと、「姐さんが野依先生と一ぺん一緒に寝たら、その後はワシが頂く。それは必ず実行する」といって大笑いしたことがあったという。

 野依も栃木山は真面目一徹だと思い込んでいたので、「あれでなかなかスミに置けぬ男だ」と見直したそうだが、稽古場とは打って変わってこういう茶目っ気を出すところが栃木山の面白いところで、私生活も品行方正で朴念仁のライバル横綱大錦に比べると、力士仲間には人気があった。

 一方、不覚を取った太刀山はよほど悔しかったと見え、記者団の質問に対しても「突き指さえしていなければ」と言い訳じみた台詞を口にしていたが、後に「これで御大に恩返しが出来た」と常陸山の愛弟子の成長振りに目を細めた。

 というのも、太刀山も若い頃は練習相手がおらず、部屋の違う常陸山に鍛えてもらったおかげで、やがて常陸山を倒すまでになった。それを徳とした太刀山は、常陸山の弟子である栃木山にも目をかけ自身の足元を脅かすほどの強豪力士へと育てあげたのだった。

 ちなみに連勝をストップされた太刀山だが、突っ張りを封印してもさすがに強く、残り二日間を白星で飾って十一度目の優勝を果たしている。


 翌大正六年一月場所限りで太刀山が土俵を去ると、いよいよ出羽海部屋の黄金時代が到来した。

 同年五月、太刀山と入れ替わるように同僚の大錦が横綱に昇進すると、七年一月には栃木山も横綱の座に就き、この二横綱に加えて後に綱を張る常ノ花を加えた出羽海三羽烏が大正期の土俵を席巻した。

 まず大正六年一月に大錦が全勝で初優勝を飾ると、翌場所から栃木山の五連覇、大錦の三連覇と続き、十年五月には大関常ノ花が全勝優勝と、優勝旗は出羽海部屋でたらい回しされている感があったが、こうなるとファンの関心事はどの力士が優勝するかと言うよりも、出羽海部屋で最強の力士は誰かという一点に絞られてきた。

 この時代は相星決戦がなく番付上位者が優勝というきまりになっていたため、本割りでは栃木山、大錦、常ノ花の対戦を見ることは絶対に出来ない。

 そんなファン心理を反映してか、大正十一年三月十七日からの十日間、大阪の新世界で第一回国分け大相撲が興行されることになった。東京相撲と大阪相撲に協会が別れていた当時、京阪合弁大相撲という一種のイベントは存在していたが、単に東京方の力士と大阪方の力士が東西に分かれるだけで、同部屋対決は行われていなかった。しかし、今回の合弁相撲は出身地で東西に分けるという新企画のため、大阪出身の大錦と栃木県出身の栃木山は東西に分かれることになったのである。

 予想通り大錦、栃木山、常ノ花の三強は八日目まで勝ち進み、九日目は大錦対栃木山が全勝で対決することになった。前評判では「実力では栃木山だが、先輩であり大阪出身の大錦に花を持たせるのでは」という八百長説さえも飛び交ったが、いつもの右筈押しから土俵際に追い詰め、双手突きで大錦を突き出した(一月場所、体調不全で全休した大錦は必ずしも本調子ではなかった)。

 最終日も常ノ花を全く問題にせず全勝優勝を果たした栃木山は、角界最強を証明するとともに、賞金千

円と優勝旗を出身地である赤麻村に寄付し、故郷に錦を飾っている。

 

 大正十二年一月場所直前、力士会と協会の紛擾事件の責任を取って突然大錦が引退。十三年五月場所からは常ノ花が横綱に上がり、再び出羽海部屋は二人横綱となったが、両者の力量差はいかんともし難く、同五月場所も翌年一月場所も先輩横綱栃木山が制した。

 この強さなら太刀山の十一回という明治以降の最多優勝記録を破るのも時間の問題と思われた矢先、十四年五月場所を前に栃木山が引退を発表した。日頃から、太刀山のように「盛りのうちに辞めたい」と言っていたとはいえ、前場所十勝〇敗一引分という完璧な相撲を取っているだけに、誰もが引退理由をいぶかしんだ。

 栃木山本人はというと「別に訳があってのことではありません。ただこのごろ髪の毛が薄くなって、土俵へ出る度にお客からハゲ、ハゲと言われるので、どうもそれが気になりますのでねえ」と本気が冗談かわからないようなコメントしか残していない。少なくとも生前は、引退理由は「禿げたこと」と言って譲らず、後に協会理事長となった常ノ花ですらそう信じていた。

 ところが後年の様々な調査によって、新たな事実が浮き彫りにされてきた。

 前述のように栃木山は押しかけ入門者であり、師匠常陸山は全く期待をしていなかった。それに対し当時の陸軍中将の仲介で入門してきた常ノ花は、当初は線こそ細かったものの、いわゆるお客さんとして常陸山も目をかけていた。加えて話好きで文才もあり頭も切れる常ノ花は、引退後も協会幹部になる器だった。常ノ花に対する過剰な期待は番付面での優遇という形でも現れている。

 大正十三年一月場所、八勝二敗で横綱昇進を決めた常ノ花は、五月場所の番付では東正横綱になり、九勝一分で優勝した栃木山が張出されている。栃木山はさらに二場所連続優勝するが、番付は張出のままである。こんなことは常識では考えられない。栃木山の引退当時、相撲界の御意見番と言われた名評論家彦山光三もこの理不尽な番付が栃木山のプライドを傷つけたことに言及しているが、根拠がないため憶測の域を出なかった。

 しかし現在では、当時相撲協会が興行資金の提供を受けていたのが大日本麦酒株式会社社長馬越恭平であり、その仲介役が栃木山の養父春日野だったこと、そして馬越は同郷の常ノ花の後援者だったという事実から、春日野による謀略説が有力である。実際、春日野は協会の策士と言われる札付きの人物だったのだ。

 潔く髷を切ったはずの栃木山が、同年十一月に行われた明治神宮体育大会の全日本力士選手権大会にのこのこ出場してきたのは、まだ土俵に対する未練があったからに違いない。

 引退から半年経過しているとはいえ、いまだに出羽海部屋の若い者に胸を貸している栃木山は相変わらず強かった。準決勝で大相撲の末、常ノ花を切り返しで破ると、決勝でも西ノ海に完勝し、その衰えぬ実力を天下に知らしめたのである。

 年が明けた三月、栃木山は念願だった欧米遊行に出発した。その道中、たまたま同じ船に乗り合わせたボクシングの世界ヘビー級チャンピオン、ジーン・タニーと顔を合わせる機会があり、日本のスモウレスリングのチャンピオンと紹介された時のこと。

 小柄な栃木山を舐めてかかったタニーが、近くにあった鉄パイプをくの字に折って投げ渡すと、栃木山は無言のまま曲がったパイプを元に戻してみせた。驚いたタニーは改めて栃木山に敬意を表したというが、万が一喧嘩にでもなって現役横綱を手玉に取る栃木山のかち上げでも喰らおうものなら、八十五キロ程度のタニーではそのまま病院に送られるほどのダメージを負ったに違いない。


 栃木山伝説はまだ続く。昭和六年六月に開催された第一回大日本相撲選士権大会にも、すでに年寄春日野を継ぎ、頭もすっかり禿げ上がった元栃木山がエントリーしてきた。年寄りの冷や水と思われたこの大会、またしても超人的な力で勝ち進んだ春日野は、新進気鋭の天龍(関脇)、玉錦(大関)まで捻ってしまい、現役力士団は面子丸つぶれであった。

 それもそのはず、前年に行われた後輩横綱常ノ花の引退興行の際にも、公開稽古で二メートル、二百キロを越す巨人、出羽ヶ嶽(当時は平幕)を子供扱いにしていたほどだから、現役時代と変わらぬ腕力を維持していたことは間違いない。

 引退して何年も経つ元力士の信じられないほどの強さに衝撃を受けた相撲協会は、第二回大会から引退力士の出場を禁じる処置を取ったが、所詮は現実逃避に過ぎず、ヒーロー不在の相撲界は冬の時代に突入していった。

  

 指導者としても定評があった春日野は、愛弟子の栃錦と栃ノ海を横綱に育て上げたが、二人とも小兵の名人横綱であったというのも、「小さな巨人」栃木山らしい。

 超一流の横綱にして年寄としてもひとかどの実績を残しながら、相撲協会内での春日野は理事止まりであり、ここでも後輩である元常ノ花の出羽海が理事長になっていることを考えると、引退後の春日野に何度も恥をかかされている相撲協会内には、アンチ春日野の一派がいて、何らかの圧力をかけられていたことは十分に考えられる。


全勝あるいは無敗優勝の後、一度も負けることなく引退したのは栃木山と白鵬だけだが、白鵬の晩年は横綱にしてはお粗末な奇抜な仕切りや変化技を見せたりと、勝つためには手段を選ばないという声も上がるほど不人気だったうえ、怪我で休みがちだったため、全勝優勝は最後の一花という印象が強いのに対し、栃木山は全く死角がなく引退する理由が見当たらなかった

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