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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第48話 動く仁王 男女ノ川 登三(1903-1971)

男女ノ川は力士としての力量より、”奇人”として知られる横綱である。横綱としては実績が残せなかったが、相撲界が東京と大阪に分裂し、観客動員がジリ貧となった冬の時代に、ライバル武蔵山とともに土俵を盛り上げ、久しぶりの満員札止めを実現した功労者だった。双葉山の台頭により武蔵山と同じく大関昇進前後をピークに土俵の脇役になってしまったが、土俵入りの貫禄は一級品で、男女ノ川がいたからこそ、双葉山の土俵入りも相乗効果で見栄えがしたといわれる。

 一時期は武蔵山とともに相撲人気復活の一翼を担いながら、双葉山時代の到来によって土俵の引き立て役を演じるはめになった男女ノ川は、相撲よりもその奇人ぶりでファンの記憶に残る横綱だった。

 茨城県筑波郡菅間村の農家の次男坊として生まれた坂田供二郎は、二十歳までは亡父の後を継いで農業にいそしんでいたが、大正十二年、たまたま近隣の城山鉱泉に湯治に訪れていた幕内力士阿久津川の目に留まり、角界入りを決意した。入門当初は一八四センチ九〇キロだったが、成長ホルモンの異常からか、その後も大きくなり続け、幕内に上がる頃には一九五センチという角界では出羽ヶ獄に次ぐ現役二番目の巨漢となった。

 相撲は大雑把で突き押しだけの単調なものだったが、積み上げた米俵の真ん中あたりを片手で引き抜いてしまうほどの腕力とあって十両以下では歯が立たず、大正十三年の初土俵からわずか六場所で十両の座を手繰り寄せている。ところが関取クラスが相手となると、パワーあっても重心が前のめりになる欠点を突かれ、攻め急いだところを引き技で不覚を取ることが多くなった。

 この伸び悩む大器に目をかけて、徹底的に鍛えてくれたのが、当時三役の清瀬川だった。不器用だが練習熱心な男女ノ川に技を教え込み、苦手な小兵力士対策として三段目の鬼若(小兵でスピードがあった)と連日取り組ませることで、素早い動きに対応するコツを覚えこませたのである。

 結果、昭和三年一月に入幕してから一年経った四年一月場所では、苦手だった大関大ノ里を破って九勝二敗(優勝同点)の好成績を残すとともに、未来の横綱として大きな期待が寄せられるようになった。

 男女ノ川の入幕によって、ファンが期待していた角界一の大巨人、出羽ヶ嶽との巨人対決が実現 し当時の幕内屈指の好取組として毎場所大きな話題となったが、同じ巨人でも組んでよし、離れてよしの男女ノ川が圧勝している(通算対戦成績四勝〇敗)。

 的が大きい方がパワーを最大限に活かせるせいか大型力士には強く、当初は苦手としていた天龍にも、昭和五年の後半以降はほとんど負けなくなった(五勝四敗)。

 突き押しの強さは幕内随一で、まともに浴びれば重量級の力士でさえ腰が浮いてしまい、そのまま寄り切られるのがオチだったが、動きがスローモーだったため、巧くかわされるとあっさり差し手を許してしまう癖はなかなか直らなかった。それでも三役に定着するようになってからは、褌を取られても小手で振り回すか、両腕を極めて動きを封じてからじっくりと仕留める勝利の方程式を確立した。

 同年九月場所ではまたしても優勝同点となる八勝三敗で、新三役に昇進すると、五年十月場所に九勝二敗、六年一月場所に九勝二敗と二場所連続優勝同点の快進撃を続け、いよいよ大関の声がかかり始めた。

 ところが、三月場所に従来なら大関昇進が決定してもおかしくない八勝三敗で昇進を見送られると、勝負どころの五月場所で関節炎のため全休、故障をおして強行出場した十月場所も一勝十敗と惨敗し、昇進は白紙に戻ってしまった。

 この時のウィルス性関節炎の原因は性病で、贔屓の芸妓から感染したものだった。これに懲りた男女ノ川は、しばらくの間は女遊びを断ち、朴念仁とからかわれるほど稽古に精進した。

 横綱になってからは、遊郭通いも復活したが、今度は男性自身が巨大過ぎるという理由で断られることが多かったそうだ。空振りして部屋に戻ってきた時は、付き人が近寄れないくらい不機嫌で、好物のふかしたじゃがいもを一貫目(四キロ)ほど食べさせなければ、怒りが収まらなかったそうだ。


 昭和七年一月に起きた春秋園事件では、男女ノ川は脱退派の力士と行動をともにした。これは関脇時代に好成績を挙げながら大関昇進を見送られたことで、協会に対して不信感を抱くようになっていたからである。しかし、革新力士団の興行の行き詰まりを見越し、協会復帰を決意する。

 昭和八年一月、他の帰参力士とともに番付上は幕内別格扱いで臨んだこの場所、すでに関節炎が完治した男女ノ川はツキモノが取れたように勝ち進み、綱のかかった前場所の覇者、大関清水川をはじめとする横綱大関陣を総なめにした。ライバルと目されながら六連敗中だった大関武蔵山を下しての全勝優勝は、男女ノ川復活を強く印象付けた。

 九年一月場所に二度目の優勝を果たし大関昇進を決めると、大関を五場所で通過し、十一年一月場所後に横綱に推挙された。

 九勝二敗、八勝三敗、九勝二敗での昇進は協会からのご祝儀と言ってもいいほどの大甘だったが、過去に優勝二回、優勝同点四回と横綱になっても遜色がない実績は残している。

 しかし男女ノ川昇進の決定打は、ほぼ同等の成績の武蔵山の横綱推挙に当たって協会内で物議を醸し出した際に、高砂一門が出羽海の肩を持ち、貸しを作っておいたことによるものだ。

 十一年五月場所は、相撲人気復活を担ってきた武蔵山、男女ノ川の両雄が揃い踏みで綱を締めた注目の場所だったが、右肘の故障が悪化していた武蔵山は全休、期待の新横綱も六勝五敗とファンの期待を裏切る結果となった。

 この場所、全勝で初優勝を飾った双葉山は、すでに全盛期を過ぎた両雄に代わって角界をリードしてゆく存在となり、長らく隆盛を誇った出羽一門に代わって、立浪部屋を中心とする二所一門が我が世の春を迎えた。


 横綱に昇進して間もない頃、普段からズボラでかねがね叱り飛ばしてやろうと思っていた下っ端力士とおぼしき男が相撲場の片付けで忙しいはずの時間帯に駅で立ち読みしているのを見つけた男女ノ川が、怒りにまかせて持っていたステッキで思い切り頭を叩いたところ、これが何と先輩横綱の玉錦だった。体型があまりにも似ていたので間違えたのだ。

 慌てふためいた男女ノ川は平謝りに謝って何とか誤解を解いてもらったが、タフな玉錦も大男の男女ノ川からステッキでぶたれたのではたまったものではない。許してはくれたものの、まだ「痛い痛い」と呻いていた。

 案の定、その夜、二所ノ関部屋から呼び出しがかかり、「こりゃあ、やられるだろうな」と恐る恐る玉錦の待つ料亭に顔を出したところ、「お前のことが気に入った。これからは兄弟分として付き合おう」と盃を差し出されたそうだ。

 大男にしては饒舌でちょっと抜けたところがある男女ノ川は、横綱になっても尊大にならず、親方や先輩力士の前では腰の低い男だったから、親分肌の玉錦にとっては、おっちょこちょいで放っておけない弟のような存在に思えたのかもしれない。

 実は男女ノ川こそ横綱になる前の玉錦が一番苦戦を強いられた力士であった。(男女ノ川の初優勝までの対戦成績は男女ノ川の四勝五敗) 

 小心でぶざまな負け方をすると自己嫌悪に陥り、連敗を喫する癖があったため、好不調の波が激しかったが、土俵生活の晩年はあまり勝敗にこだわらず、西方の大将として客観的に相撲を楽しんでいるようだった。そのせいか、不調であっても滅多に休むことはなく幕内での休場は三場所に過ぎない。男女ノ川以降に綱を張った力士でこれを上回る皆勤率を残したのは、現役中に夭折した玉の海くらいのものである。

 引退直前は足腰も弱り、それまではあまり苦にしていなかった小兵力士にいいようにあしらわれる横綱らしからぬ相撲が目に付いたが、ツボに入った時のパワーは健在で、現役最後の場所ですら十日目に勝ち越しを決めているほどだ。

 横綱である以上は、優勝争いに絡めなくなってしまえば土俵を去るほかはないが、一たび四つに組まれてしまえば、とても平幕では歯が立たない男女ノ川の力量からすれば、もし大関のままであったなら四十歳くらいまでは現役を全う出来ただろう。

 昭和十五年五月場所十日目、入幕から三場所連続二桁勝利で関脇まで駆け上がってきた新星照国との一戦は「まるで大人が子供をいたぶっているようだ」と負けた照国に同情が集まるほど男女ノ川の剛力が際立った横綱時代の晩年を彩る名勝負だった。

 ここまで八勝一敗で安芸ノ海、五ツ島と優勝争いを併走している照国人気は凄まじく、館内に姿を現しただけで、観客も取り組みそっちのけで「照国!照国!」と大騒ぎだった。

 重心が低く出足が速い照国が相手では、腰高で取り口の遅い男女ノ川の苦戦は必至と見られていたが、案の定突っ張り合いでは、下から押し上げる照国がじりじりと前進し、横綱が追い詰められてゆく展開となった。

 上体が浮いてしまった男女ノ川は、そこから捨て身のはたきに転じる。腰が重くバランスの良さには定評がある照国ははたかれても落ちずに食い下がるが、巨漢の男女ノ川が全体重を乗せた打ち下ろすようなはたきを連続で喰らっているうちに足元がおぼつかなくなり、遂に横綱の股の間につんのめるように崩れ落ちた。

 勢い余った男女ノ川はそのまま照国の背中に馬乗りになってしまったが、これがまるで熊退治をした金太郎のようで、迫力満点の取り組みであったにもかかわらず、観客が思わず笑みをこぼすほど勝ち姿がユーモラスだったのも男女ノ川らしい。

 以後の男女ノ川は横綱らしい成績も残せず、ただ惰性で土俵を務めている感が強かった。年齢も三十代半ばに達し、本来なら引退勧告を受けてもおかしくないところだったが、出羽海系の横綱が彼一人であり、地方巡業の際にも横綱という看板が欠けると興行上にも弊害が出てくるという理由で、安芸ノ海の横綱昇進のメドがつくまで現役続行を促されていたのである。

 しかも責任感が強い男女ノ川は満身創痍でありながら滅多に休場しないため、かえって金星狙いの平幕力士にまで不覚を取る機会が増え、土俵人生の晩節を汚したのは気の毒だった。

 しかし、本割りの相撲は期待出来なくとも、横綱土俵入りは「動く仁王」の迫力十分で、優美華麗な双葉山にも引けを取らなかった。


 土俵生活晩年の男女ノ川は、土俵での活躍よりもそれ以外のことで話題になることが多く、そういう意味では常に人々の注目を浴びる存在だったと言えよう。

 当時、場所入りと言えば、部屋が近い力士は徒歩、遠い力士は公共交通機関かタクシーが一般的だったが、最初に自転車に乗ってきたのが男女ノ川だった。

 後援者から「足腰の鍛錬にいいから」という理由で勧められたとはいえ、自宅のある三鷹から両国まではあまりにも遠い。しかも浴衣姿の大男が額に汗して自転車を漕いでいる姿はどうも見栄えが悪い。というわけで、今度は自動車の運転免許を取得し、自らの運転で場所入りするようになった。

 これも角界初のことで大きな話題となったが、「天下の横綱が人身事故でも起こしては」と心配した親方から咎められ、その後は、弟弟子に運転させることにした。

 早稲田大学法科に聴講生として通っていたこともある。その事が知られるようになったのは、引退後だが、実は現役時代の昭和十六年九月から、持病である坐骨神経痛を理由に巡業をサボって通っていた。なまじ学問をかじっているおかげで、昭和十九年に理事に推されたところまではよかったが、大学を優先して理事会にもろくすっぽ顔を出さなかったのが災いして、程なく解任されてしまった。 

 この件で角界に見切りをつけた男女ノ川は、昭和二十年十一月付けで廃業届けを出し、農園経営に精を出していたが、知名度を利用して選挙に出馬したところ、二度の落選によって全財産を失ってしまった。 

 その後、私立探偵社の経営失敗や離婚を経て、サラリーマン生活中にジョン・ウェイン主演の『タウンゼント・ハリス物語』に出演したのを機に、テレビ番組にもチラホラ顔を出すようになった。

 とにかく顔が広いのが幸いして、生命保険の営業員として安定した生活を送っていたが、足の古傷の悪化がもとで身体が不自由になり、ついには介護施設に身を寄せるはめになった。最晩年は力士時代のファンだったという料亭経営者の好意で住み込みの下足番となり、それから二年後に脳溢血で亡くなった。

 葬儀に参列した元天龍の和久田三郎が、「善人のくせに野心が強く、人の口車に乗せられて失敗ばかりしていた」と故人を評した通り、協会に残ってさえいれば、かくも惨めな後半生を送ることはなかったはずだが、発想が幼稚で子供っぽいところが、彼を衝動的な行動に走らせ、全てを失う原因になったと思われる。

 しかし、失敗しても誰それとなく支援の手を差しのべてくれたのは、楽天的でユーモラスな男女ノ川の人柄によるところが大きい。金銭的に困窮していた彼に相撲協会から見舞金が送られたのはかつて自分が稽古をつけた元双葉山の時津風理事長の声掛けあってのことだ。

 引退後の男女ノ川が、角界の太陽たる双葉山のことを「双葉関があれほどまでになったのは俺が稽古をつけてやったおかげだ」とうそぶくのを誰も本気にすることはなかったが、実は男女ノ川の引退を心から惜しんでいたのが双葉山で、「せめて辞める前に相談してくれれば。私の今があるのは男女関が稽古をつけてくれたおかげなんです」とインタビューに答えている。

 二人の対戦成績は男女ノ川の五勝十敗で、横綱対決では一度も勝てなかったが、初顔からは男女ノ川が五連勝しているように、若き双葉山にとって最盛期の動く仁王はとても手に負える相手ではなかった。

 男女ノ川の引退の土俵入りは、露払いに双葉山、太刀持ちに羽黒山を従えるという相撲史上空前の豪華版だった。しかも、双葉山は露払いの経験が一度もないにもかかわらず、先輩の花道を飾りたい、と自ら希望して実現したというから、男女ノ川に対する思い入れは並々ならぬものがあったのだろう。

 同門の先輩後輩の関係というわけでもないのに、天下の大横綱がここまでやるのは異例のことだった。

 この時、太刀持ちを務めた羽黒山は兄弟子双葉山の要請に応じたものだが、師匠立浪からは「横綱がわざわざそこまでやらんでもいい」と反対されていた。師匠に楯突くことなどありえない時代に羽黒山は兄弟子を立てて重責を全うした。これもまた異例といっていいだろう。

 異形の横綱男女ノ川の土俵人生はまさに異例づくしであった。


男女ノ川は妻子からも愛想を尽かされ、寂しい晩年を送ったが、どんなに落ちぶれてもいつもにこやかで、天下の横綱でありながら旅館の下足番すら粛々とこなす人間性は素晴らしいと思う。サラリーマン時代のインタビュー記事を読んだことがあるが、元横綱で相撲協会理事まで務めた男にしては卑屈さなどまるでなく

変なプライドも持たない楽天的な好人物という印象だった。

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