第47話 角界の侠客 前田山 英五郎(1914-1971)
前田山は相撲協会から事実上の馘を言い渡された悪名高い横綱である。前田山は引退後、高砂の名跡を継いだが、その高砂部屋出身の朝青龍もまた事実上の馘で角界を去ることになったのも何かの因縁かもしれない。ところがこの角界きっての問題児、親方になってからは大相撲アメリカ公演の実現から、外国人力士の角界入りなど斬新なアイデアを次々と実現させ、腕利きの協会理事となったのだから、世の中わからない。
一歩間違えると物騒な四股名である。一字違いの前田英五郎とは、関東一の大親分と謳われた幕末の侠客だが、前田山も本家に負けず劣らず気性が激しく喧嘩早い男で、相撲取りになっていなければ任侠道の世界でも頂点を極めていたかもしれない。
前田山英五郎の本名は萩森金松といい、上州出身の前田英五郎とは縁もゆかりもない愛媛県西宇和郡喜須来村に生れた。昭和三年秋、高砂一行の四国巡業の際にスカウトされて入門したが、素行不良で何度も破門されている。大柄で筋肉質ないい身体をしていたわりに十両に上がるまで五年十六場所も費やしたのは、破門と復帰の繰り返しで、腰を据えた稽古が出来なかったからだろう。
気に入らなければ兄弟子にさえ鉄拳を振るい、盛り場でヤクザ相手に大喧嘩をやらかすなど素行不良は目に余るものがあったが、師匠の高砂(二代目朝潮太郎)も豪気な性格で知られる男だけに、この滅法荒っぽい下っ端力士には一目置いていた。ところが、近所が火事になり火消しを手伝おうと現場にかけつけたところ、消防団の連中とひと悶着起こし、全員を叩きのめしてしまったからたまらない。火はさらに広がり、本来なら火災の影響を受けなかったはずの家々まで類焼してしまったという。
まさに本能の赴くままに行動し、他人の事など知っちゃいない、という傍若無人ぶりだったが、その分、媚や忖度とも無縁で、当時は現在とは比べ物にならないほど国家権力を傘に威張りちらしていた警察官さえも、態度が気に入らなければ平気でブン殴るほど肝も据わっていた。
高砂親方もその肝っ玉の太さを惜しむがゆえに完全に見放すことができず、金松が問題を起こすたびにその尻拭いに奔走した。
ところがようやく関取になったのも束の間、鯱ノ里との練習中に怪我をした左腕の筋肉に黴菌が入り、相撲どころか左腕を切断しなければならないかもしれないほどの重篤に陥った。この相撲人生最大の危機を救ってくれたのが、慶応大学医学部の前田和三郎教授で、手術は無事成功し一年間の療養を経て再び土俵に戻ることが出来た。
それまで佐田岬という四股名だった前田山は、三段目からの復帰となった昭和十一年一月場所より、恩人の苗字をとって前田山と名乗るようになった。「英五郎」の部分は、もちろん前田英五郎にあやかったものである。
諦めかけていた土俵に戻ることが出来た前田山は、見違えるように相撲道に精進し、同年五月場所には幕下優勝、翌年五月場所には十両優勝を果たし、入幕を決定づけた。
ここから大関までの出世の早さは、運も味方に付けたとはいえ、スピード昇進の代表格である武蔵山や羽黒山さえも及ばない。
新小結で迎えた昭和十三年一月場所、十日目まで五ツ島と双葉山に敗れただけの八勝二敗と好調をキープしたまま、横綱玉錦と対戦した。一敗で双葉山を追走する玉錦は大相撲の末、前田山を土俵際で打棄り賜杯への夢を繋いだかに見えたが、何と控えにいた双葉山から物言いが付き、協議の結果、取り直しとなった。
取り直しの一番も際どい相撲だった。前田山の豪快な櫓投げを玉錦が外掛けでこらえると、支えきれなくなった前田山が腰砕けになり、両力士はほぼ同体で土俵下に落下した。今度は軍配が前田山に上がり、物言いもつかなかった。この日は結びの双葉山対男女ノ川の一戦も素晴らしい熱戦で、好角家たちが口を揃えてこの二番は「昭和以降最大の取り組み」と大絶賛した。
これで波に乗った前田山は十一勝二敗の準優勝。武蔵山戦こそ不戦勝だったが、玉錦、鏡岩(大関)、大邱山(東関脇)、両国(西関脇)、玉の海(張関脇)、九州山(西小結)といった役力士をことごとく打ち破っており、内容的にも双葉山につぐ素晴らしいものだった。
場所後、前田山は入幕からわずか三場所で大関に推挙された。これは大正時代の横綱大錦卯一郎と並ぶ歴代一位の快記録である。
かつて武蔵山が小結で優勝しながら、上位が詰まっていたため留め置かれたことを考えれば、準優勝で関脇を飛び越しての大関昇進はありえない。こんなことがまかり通ったのは、一人大関の鏡岩が高齢で引退も近いという角界のお家事情があったからである。
横綱不在はあっても大関不在の番付は考えられない。かといって三人の関脇はいずれも大関に昇進するには程遠い成績とあっては、この場所抜群の働きを示した前田山を大関に上げておかなければ、鏡岩が大関を陥落してしまってからでは手の打ちようがないというわけだ。
運を味方につけた大甘の昇進だったとはいえ、実力も大関級であった前田山は、大関としては可もなく不可もない成績を続けていたが、取りこぼしが多く、優勝争いに絡めないため、なかなか綱の声はかからなかった。
昭和十六年一月場所は、「万年大関」が久々に脚光を浴びた。「前田山の張り手旋風」として語り継がれるこの場所は、執拗な張り手で吹っ飛ばされた羽黒山が「あれは相撲じゃなくて喧嘩だ」と声を荒げるほど張り手が猛威を振るい、優勝した双葉山までが前田山の前に屈した。
闘志満々と言えば聞こえはいいが、この場所の前田山の喧嘩腰の相撲ぶりは一部の観客からの不評を買い、生涯唯一の双葉山戦の勝利にもかかわらず、勝ち名乗りを受ける前田山を称える声はほとんど聞かれることがなかった。
前田山の代名詞といってもいい張り手の威力たるや、後年、力道山と酒の席で口論になった際、一撃で失神させたほど強烈なものだった。酔った力道山と気合の入った土俵上の力士では、耐久力が違うかもしれないが、昭和二十年十一月場所に寄り切りで敗れた神風は、「張られた後は記憶が飛んでいる」と証言している。
今日でもカウンター気味に入れば、幕内力士でもそのまま腰砕けになって土俵に這うシーンもたまに見受けられるだけに、そんな張り手を連発された日には、相手も喧嘩腰になろうというものだ。
前田山の言い分はこうだ。「狙って顔を張ることは滅多にない。自分は突っ張っているだけだが、相手が首をすくめるからちょうど顔に当たるのだ」
役力士の張り手は常人が拳で殴る以上の威力があるため、協会内でも前田山ほど執拗に張るのはまっとうな相撲とは言い難いという意見も噴出したが、これを救ったのが双葉山だった。
双葉山はこれまでにも前田山の張り手で歯茎から出血したり、顔を腫れ上がらせたりと散々な目に遭っているが、張り手から逃げることなく正攻法で打ち破ってきた。その双葉山が「張り手も相撲の手だ」と認めた以上、分の悪い羽黒山や名寄岩あたりが文句を言っても言い訳にしか聞こえない。
前田山の気性の激しさと傲慢さは出世してゆくにつれてさらにエスカレートしてゆき、格下は言うに及ばず、ライバルのことも散々こきおろしたが、力士になる前から憧れの存在だった双葉山と親友である羽黒山のことだけは決して悪く言うことはなかった。
双葉山は前田山が力士になる前、巡業中に知り合った旧知の間柄で、力士になってからもかなり厳しい稽古をつけてもらっているため、さすがの前田山も頭が上がらなかったのだ。
裏を返せば、双葉山は稽古で前田山を絞り上げることで力の差を思い知らせ、この一筋縄ではゆかない腕白坊主を巧く御してしたのかもしれない。実際、時津風理事長時代にも高砂の名跡を継いだ前田山は優秀な理事として協会を支える一方で、高砂部屋の繁栄にも大きな功績を残している。
昭和十九年は五月場所八勝二敗、九月場所九勝一敗で初優勝と横綱に推挙されてもおかしくない成績だった。
数字だけ見れば少し厳しいようだが、五月場所の二敗にしても横綱照国戦は寄り切る時に勢い余って踏み出してしまったもので、相撲自体は圧倒していた。張出横綱の安芸ノ海には勝っているだけに内容的にも申し分なく、照国戦のポカがなければ双葉山と並ぶ九勝一敗の準優勝ということになるため、準優勝と優勝で内規に従えば横綱になれたかもしれない。
しかし大関昇進時とは逆に、すでに横綱が四人もいてはこの成績で割り込む余地はない。
昭和二十年夏場所は途中休場、戦後最初の場所となった同年秋場所も五勝五敗と振るわなかったため、年齢的に考えても、もはや前田山に横綱の目がないことは誰の目にも明らかであった。
確かに大関としては強かった。在位七年間のうち途中休場した二場所を除いては、皆勤での負け越しは一度もないからだ。男女ノ川は同門で対戦がなかったが、武蔵山、羽黒山、安芸ノ海の三横綱にはいずれも勝ち越しており、綱を張れるだけの力量も十分だったが、双葉山と照国という全く歯が立たない苦手がいたことが大きな壁となっていた。
ところが終戦後間もなく双葉山が引退し、照国が体調不良に見舞われたことで、いい塩梅に風向きが変わってきた。
昭和二十一年秋場所は十一勝二敗で準優勝。これで二十二年夏場所に優勝すれば横綱になれる。
最後の気力を振り絞った三十三歳のベテラン大関は、十勝一敗で優勝決定戦にまでこぎつけた。
決定戦は横綱羽黒山と張出大関東富士との巴戦だった。東富士を一蹴した前田山は本割りで勝っている羽黒山を倒せば横綱昇進確実だったが、惜しくも破れ、二場所連続の準優勝に終わった。
それでも安芸ノ海が秋場所限りで引退したことが追い風となり、前田山はついに横綱に推挙された。すでに入幕から十年が経過していた。
これで緊張感が切れたのか、綱を張ってからの前田山はかつての気迫溢れる相撲は影を潜め、弱い横綱として、また協会から引退を進言された最初の横綱として歴史に汚点を残すことになる。
綱を張ること三年間で皆勤はわずか二場所という惨めな成績を残して前田山が土俵を去る原因となったのが、大好きだった野球である。
前田山の野球好きは有名だった。御大常陸山も熱狂的な野球ファンだったが、あくまでも観戦することが目的で、生活の中心は相撲だった。ところが前田山は、「野球をやめてもっと相撲に打ち込んでいればとっくに横綱になっているのに」と言われ続けたほどの入れ込みようで、野球観戦に留まらず、暇さえあれば草野球に熱中していた。
昭和十五年十一月、毎年恒例の九州巡業とは異なり、福岡市の須崎裏に二万人収容の特設国技館 を設け、「東京大相撲九州大場所」と銘打った準本場所興行(十日間)を行った時のこと。一種の前夜祭のような趣きで春日原球場で開催された福岡クラブ対前田山チームの一戦は大好評で、その宣伝効果もあってか、九州場所は当日券売り場に連日徹夜組が並ぶほどの人気を呼んだ。
所詮は素人集団である前田山チームは、元六大学の名選手を揃えた福岡クラブの敵ではなかったが、四番捕手で出場した前田山はタイムリーツーベースを含む二打点の活躍で打撃賞を獲得している。思わぬところで前田山の野球好きが活かされた格好になったが、野球の練習に熱中しすぎたのか、肝心の相撲の方は五勝五敗と大関の面目丸つぶれだった。
戦争中は敵性スポーツとして禁止されていた野球が戦後に復活すると、前田山の野球熱も再燃した。
二十二年に横綱昇進を決めて以来、皆勤二場所という体たらくの前田山は二十四年春の大阪場所も一勝五敗と大不振のまま、七日目から休場してしまった。このまま療養でもしていればまだよかったものを、何とサンフランシスコ・シールズ対巨人軍の親善試合を観戦するため後楽園球場に足を運んでいた。
腐っても横綱である。スポーツ界では名士だけに、旧知の日本野球連盟副会長鈴木惣太郎に頼み込んでオドゥール監督に紹介してもらうと、日本贔屓のオドゥールも大喜びで、一緒に記念撮影するやらまるでゲスト扱いである。
ところが本来なら大阪の土俵に上がっているはずの横綱が、休場届を出しおきながら東京で野球観戦していたことが大々的に報道されたから堪らない。赤っ恥をかかされた相撲協会は前代未聞の横綱追放を決議し、表向きは大腸炎のため退届けとしながら、事実上の馘首を言い渡した。
前田山は新弟子時代から女癖が悪く、妻を娶ること四度(入籍は一度)に及び、花柳病に罹ったのも一度
や二度ではない。求婚も強引極まりなく、娶ってしまえば性欲処理の道具としてしか扱わない自己中ぶり
が災いして、弟弟子が事実婚妻と密通して出奔するなど、家庭人としても力士の手本たる横綱らしからぬ恥をさらしている。




