第46話 自虐の闘神 駒ヶ嶽 国力(1880-1914)
常陸山には梅ケ谷(二代目)というライバルがいたからこそ、相撲は盛り上がり、常陸山といえども何連覇
も出来たわけではなく、連勝記録も驚くほどのものではない。逆に太刀山は数字的にはほとんどの面で常陸山を上回っているにもかかわらず、人気面では及ばなかった。もし、駒ケ嶽が本気で相撲道に精進すれば、
この二人の相撲のスケールの大きさからして、梅常陸時代をしのぐ人気を得ていた可能性は高い。そして太刀山も相乗効果で優勝回数もさらに伸ばせていたかもしれない。
天下無双の太刀山が、自他共に認める唯一無二のライバルでありながら、目の前にぶら下がった綱をつかめなかったばかりか、人生の階段まで踏み外してしまった悲劇の大関である。
宮城県遠田郡涌谷町出身の菊池国力は、明治三十年、家を抜け出して横綱西ノ海一行の仙台巡業を見物中に、その並外れた巨躯に目を留めた井筒親方からスカウトされ、そのまま一行とともに上京した。初土俵は三十一年一月で太刀山より二年早いが、幕下付出から追い上げた太刀山と同時に十両に上がり(三十五年一月)、その頃から二人はライバルとして、また、将来の角界を背負って立つスケールの大きな力士として注目されるようになった。
何しろ二人とも身体がデカい。全盛期、一八五センチ一四〇キロの太刀山に対して、駒ヶ嶽は一八七センチ一三五キロとほぼ同格であるが、明治期の力士としては二人ともずば抜けた巨漢だった。
当時全盛にあった横綱大砲は、この二人より上背こそあれ、動きが鈍く、褌を取らないことには力が発揮出来なかったが、均整の取れた太刀山と駒ヶ嶽は、組んでよし離れてよしの万能型とあって、やがては一時代を築く逸材と目されていた。
入幕は三歳年長の太刀山が一場所早く、入幕後の成績も駒ヶ嶽を上まわっていたにもかかわらず、三役昇進が遅れたのは、太刀山の属する東方の上位に国見山、荒岩、谷ノ音といった強豪がひしめいていたことによるものだ。入幕以来の両者の対決は太刀山の四連勝で、駒ヶ嶽が新小結の場所に初めて引き分けている。
三十八年五月、両者は同時に関脇に昇進する。
ここからが駒ヶ嶽の本領発揮で、猛烈な突っ張りからの怒涛の寄り身と豪快な上手投げを武器に暴れまわった。相撲は粗雑で力に頼りすぎるきらいはあったものの、関脇三場所で敗戦はわずかに一度。
太刀山に連勝した他は大関国見山には一勝〇敗、梅ヶ谷、大砲の二横綱とは各二回ずつの引き分けで番付上位者には一度も負けていない。まだ取りこぼしが目立っていた太刀山を差し置いて関脇を三場所で通過した駒ヶ嶽は、四十年一月に大関に昇進した。
駒ヶ嶽が太刀山に勝てるようになったのは理由がある。粗暴な性格で酒が入ると暴力的になるため周囲から疎んじられていた駒ヶ嶽も、土俵の上ではやや気迫に欠けるところがあり、とりわけ太刀山に対しては、鉄砲(突っ張り)の威力を恐れるあまり、仕切りの時から弱腰になっていた。そんな駒ヶ嶽を精神的に鍛え上げ、打倒太刀山の秘策を授けたのが常陸山であった。
太刀山は井筒部屋の所属だが、実際には出羽海部屋の預かり弟子として常陸山の薫陶を受けていた。粗野なところはあっても指導に対しては素直な駒ヶ嶽に好感を持っていた常陸山は、密かに自分の後継者にと考えており、指導も厳格を極めていた。
駒ヶ嶽も腕力では太刀山に一歩も引けを取らないが、突っ張り合いになると歯が立たない。そこで、太刀山の突っ張りを封じるために喉輪で攻め、身体が仰け反ったところで四つに組む作戦を立てたのである。これはリーチの長い駒ヶ嶽だからこその戦法であり、左四つ十分になれば、起重機のような太刀山の剛力を持ってしても駒ヶ嶽を吊り上げるのは至難の業だった。
三十八年五月場所、常陸山直伝の立ち合いが決まり、太刀山戦に初勝利をあげた駒ヶ嶽は、続く対戦でも立ち合いの勝利で連勝すると、新大関の場所でもライバルを寄せ付けず三連勝した。
駒ヶ嶽が太刀山に三連勝を決めた四十年五月場所は、太刀山が八勝一敗で初優勝。駒ヶ嶽は六勝一引分で準優勝だった。駒ヶ嶽の横綱昇進はもはや時間の問題と思われたが、あまりの人気ぶりに天狗になってしまったか、この頃より練習に身が入らなくなり、快進撃にもブレーキがかかり始めた。
しかし、理由はそれだけではない。両拳を土俵にぴたりとつけて手首を返した駒ヶ嶽の構えは、一種独特なものだったが、背筋が伸びて格好よく大関の貫禄に満ちていた。反面、立ち合いに奇策を用いず大関相撲に徹したため、小兵の伊勢ノ濱やサーカス相撲の鳳のような変則型の力士に振り回されて不覚を取ることが多くなった。
ここが勝負に徹するがゆえに、下位にはほとんど取りこぼさない太刀山との差だった。
ただ、太刀山との直接対決となると話は別で、四十一年五月、四十二年一月と大相撲の末、引き分けており、太刀山には四年以上も負けていない。
大関になったばかりの頃は「太刀山は突っ張られるとやっかいだが、四つに組んでしまえば大したことはない」と豪語するほど太刀山戦には自信を見せていたが、実は横綱候補と目されるようになってからの両者の対戦はほとんど半八百長である。これは、双方が潰し合わないよう、あうんの呼吸で引き分けを演じただけのことで、真剣勝負はほとんどないと言われている。
ライバル太刀山がようやく大関に昇進し肩を並べられた四十二年五月場所、絶不調の駒ヶ嶽は、久々に太刀山に敗北を喫したばかりか、二勝三敗二引分という不甲斐ない成績で入幕以来初の負け越しという屈辱を味わった。
駒ヶ嶽の失速は、本人だけでなく相撲協会にとっても大きなショックであった。梅ヶ谷、常陸山の両雄が衰退期に入っただけに、四十二年に完成した両国国技館を背負って立つ新時代の英雄として、協会も太刀山と駒ヶ嶽には絶大な期待を寄せていたからである。
実力伯仲の両者の取り組みは、毎回手に汗握る大相撲であったが、観客の人気は無愛想な太刀山よりもふてぶてしさの中に愛嬌のある駒ヶ嶽の方が勝っており、両者同時の横綱昇進披露を国技館の目玉イベントにしたいと目論んでいた協会としては、是が非でも駒ヶ嶽に奮起してもらわなければならなかった。
かくして迎えた四十三年一月場所は、久しぶりに本気になった駒ヶ嶽も好調で、両者六勝一引分一預と土付かずのまま九日目に対戦した。両者いつになくほとんど突き合わずにいきなりがっぷり四つに組むと、駒ヶ嶽の下手投げに対し太刀山が上手投げと投げ技の応酬となった。
しかし、見た目は派手な投げの打ち合いでも、いつもの気迫が感じられない。やがて一部の観客から八百長コールが起きた。最後は前に出る駒ヶ嶽を外掛けで防ぐ太刀山がほぼ同時に土俵下に落下したが、体が落ちる寸前 に太刀山が左手を付いたため、行司軍配は駒ヶ嶽に上がった。
この一戦は、上り坂の太刀山とスランプの駒ヶ嶽では、後者が不利と見た協会が、両者を言いくるめて、この場所は駒ヶ嶽に華を持たせておき、翌場所の太刀・駒同時横綱昇進の足掛かりにしようとした八百長であった。
ところが際どい勝負になったうえ、同体で落ちる瞬間に太刀山が手を付いたところがいかにもわざとらしく、観客のひんしゅくをかったため、裁定は引き分けにせざるを得なくなってしまった。これが世に言う、「太刀山と駒ヶ嶽の八百長崩れ」である。
ところが、太刀山が続く二場所に連続優勝して横綱昇進を決めたのに対し、駒ヶ嶽は綱取り場所を五勝三敗一引分、五勝一敗一引分と伸び悩み、せっかく協会がお膳立てしてくれた機会をみすみす逃してしまった。
四十四年五月場所は七年ぶりに番付が逆転し、駒ヶ嶽にとって正念場となったが、無敗同士で対 戦した千秋楽決戦で太刀山に敗れてしまい、綱取り最後のチャンスを棒に振ってしまった。その前の二場所は決着が付かず預かりとなっていたが、いずれも覇気が感じられない取り組みだったところが太刀山の後援者である板垣退助の逆鱗に触れ、五月場所は太刀山も本気で勝負に出たのである。
長年ライバルと目されてきた両者だったが、既に両者の力量差は歴然としており、駒ヶ嶽はなすすべもなく土俵から突き出されてしまった。いつもは勝敗にこだわらず負けても悠然と構えていた駒ヶ嶽が、この日ばかりは青ざめた表情で花道を後にしたのも、もはや自分の力では太刀山には歯が立たないことを実感したからであろう。駒ヶ嶽敗北の報を聞いた常陸山は涙を流しながら弟分の悲運を嘆いたという。
気勢の衰えた駒ヶ嶽は、太刀山の華々しい活躍とは裏腹に以後は大関の地位にしがみついているのがやっとという有様だった。
大正三年一月場所は〇勝二敗八休と全く振るわず、もはや大関陥落は避けられないところまで落ちぶれてしまった。ここまで著しい凋落ぶりを示したのは、本人の不摂生による腎臓障害もさることながら、四十三年の夏から巡業が常陸山一行とは別になり、常陸山の監視の目が届かなくなったのをいいことに、酒に溺れ、稽古も怠りがちになったことが大きかった。
そんな駒ヶ嶽がもう一度初心に帰る。大正三年一月場所を最後に引退を決意した常陸山は、駒ヶ嶽を呼んでこう言った。「相手方の梅ヶ谷は別として、太刀山、鳳、伊勢ノ濱など横綱・大関が元気でいるのに、こっちは西ノ海、朝汐だけが頼りでは心細い。肝心のお前が一向パッとしない有様では、わしも心配でやめられない。実力のあるお前のことだ、ここで大奮発してもとの駒ヶ嶽になってくれ」
すでに常陸山からも見捨てられていると思い込んでいた駒ヶ嶽は、この一言で奮起した。酒を断ち、稽古に励むようになった駒ヶ嶽は、四月の茨城巡業では、綱取りを目指している同い年の大関西ノ海を下すなど、次第に往年の覇気が戻ってきた。しかし、その好調ぶりが、油断に繋がったのかもしれない。
四月十一日の柿岡町での興行は、花見シーズンということもあって、力士たちは出番を待つ間、あちこちで酒盛りを始めていた。最初は勧進元が勧める酒を断っていた駒ヶ嶽だったが、こんな時くらいという軽い気持ちで飲み始めると、出番前に軽く一升空け、次の興行地に向かう馬車の上で二升目をぐいぐいあおっていた。
こうなるともう止まらない。西ノ海や若手力士らが制止するのを振り切って飲み続けているうちに急に苦しみ始めた。同行者の介抱の甲斐もなく、馬車が石岡町の宿舎に到着した時にはすでに事切れていた。死因は心臓麻痺だった。地元のもろみ酒をたらふく飲んで、ぽかぽか陽気の中、馬車に揺られているうちに体内のもろみが発酵したのが原因と伝えられる。
駒ヶ嶽客死の知らせを聞いた常陸山は、「駒の馬鹿者奴。可愛そうに・・・。辛かっただろうな、駒ヶ嶽・・・」と人目もはばからず慟哭した。
現役の大関がかくのごとく悲劇的な死を遂げたのは、後にも先にも駒ヶ嶽のケースだけである。
長年のライバルの急死に動揺したのか、大正三年五月場所は、大本命の太刀山が準優勝に終わり、新鋭の両国が優勝をさらっていった。
駒ヶ嶽は髭が濃く古武士のような風貌で、支度部屋で悠然と葉巻をくゆらせている姿など、なかなか堂に入っており、いかにも大物という風格に満ちた力士だった。
取り口も正攻法で力強く、動きも優雅だったことから、初代相撲博物館長の酒井忠正は、最も力士らしい力士だったと賛辞を惜しまなかった。
力士の不摂生はある種の”お約束”とはいえ、このような事故死は唯一の例であろう。一般人の急性アルコール中毒による死亡というのは、昭和の大学ではさほど珍しいことではなかったが、さすがに力士となると飲む量が半端ではないわりにアル中というのは聞いたことがない。ましてや駒ケ嶽の年齢を考えると、肝臓がそこまでイカれていたとは思えないので、心筋梗塞か動脈瘤だったのかもしれない。




