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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第45話 弾丸流線式  巴潟 誠一(1911-1978)

昭和初期の名物力士である。最高位は小結でも、武蔵山や双葉山と五分の成績を残しているように、大物力士にも臆することなく向かってゆき、時に苦杯を舐めさせる男気のある相撲が持ち味だったたけに、軍国主義の時代には相当な人気があったはずだ。容貌はむしろ優男風で軍人っぽさなどみじんもなかったので、女子供にも受けがよかった。

 昭和もひとケタの終わり頃、巷では「流線型」という言葉が流行した。

 空気抵抗が少なく速度が出るという理由で、自動車や蒸気機関車の外装に用いられ、その流麗なフォルムが、当時としては非常に斬新だったことから、一時期はモダニズムの象徴としてとらえられていたこともあった。

 その頃の角界において、類稀な高速の立ち合いを武器にグングンと番付を上げてきたことから「流線式力士」と綽名された男がいた。一六五センチ九〇キロの丸っこい短躯で三役まで務め上げた人気力士巴潟である。

 北海道函館市出身の巴潟こと本名工藤誠一が角界に身を投じたのは大正十五年のことである。身体が小さいことで、最初に入門を希望した出羽海部屋では断られ、小部屋の高島部屋に拾われた。

 当時の部屋の経営は楽ではなく、弟子たちは親方の自宅に居候し、稽古は近隣の大部屋で行うというのも珍しくなかった。高島部屋も自前の練習場を持たないため、一門の本家である雷部屋での合同稽古に参加させてもらうという肩身の狭い思いを強いられたが、同じく小部屋に所属する玉錦に目をかけられたおかげで、関取になるまでの五年二十場所の下積みを乗り越えることができた。

 巴潟の新弟子時代、すでに幕内力士だった玉錦はしょっちゅう自宅に招いては豪華なご馳走を振舞い、小遣いまで渡してくれたという。玉錦自身、入門したばかりの頃は全く期待されず、小部屋ならではの悲哀も味わい尽くしてきただけに、貧乏部屋の若い衆には同情的で気前が良かった。

 稽古場では鬼神のように厳しくとも男気のある玉錦を徳とした巴潟は、門前払いを食わせた出羽海部屋を見返し、師匠の暮らしを楽にさせたい一心で稽古に精進した。

 かくして昭和七年春場所、春秋園事件で力士が大量に脱退したことによる繰上げという幸運もあって、ついに関取の座をつかんだのである。

 直近の昭和六年秋場所の番付が幕下二十五枚目ということを考えると、この場所の成績五勝一敗では本来ならば十両に昇進することはない。それも三十五人以上抜いて十両四枚目まで上がっているのだ。数年前までは人員整理の対象だった男が、昭和恐慌の最中に弱冠二十歳で予想だにしなかった関取の座をつかんだのだから、まるで宝くじに当たったような気分だっただろう。もし廃業していれば、東北で少女の身売りが後を絶たないような不景気の中で、相撲以外は何の取り得も学もない青年がどうやって食い扶持を見つけただろうか。彼にとって春秋園事件は人生を変える出来事だったに違いない。

 いざ関取になってみると、「地位は人を変える」という言葉の通り、これまでの二十場所中、半分の十場所しか勝ち越したことのなかった巴潟の相撲は見違えるほど力強くなり、十両を二場所で通過すると新入幕の昭和七年夏場所も八勝三敗と大健闘。一旦、平幕下位に下がるも、そこから四場所連続の勝ち越しで、十年春場所後(七勝四敗)に小結に昇進した。

 この場所の優勝力士は兄貴分と慕う横綱玉錦で、巴潟にとっては二重の喜びとなった。

 元来、練習熱心で、地方巡業などでもまだ暗いうちから提灯をぶら下げて真っ先に練習場にやってくるほどだったが、合同稽古の際でも、小兵名人で鳴らした元緑島の立浪親方から「誠公、出てきていっちょうやれ」と名指しで鍛えられたことも大きい。

 仕切りの際に小さな身体を丸めるようにして勢いよく飛び出す姿は、「弾丸」と例えられたが、それにいつしか流行の「流線型」という言葉がくっついて、「弾丸流線式巴潟」などと呼ばれるようになった。中には「爆弾三勇士」をもじってか、「爆弾力士」などというぶっそうな呼称もあった。

 ケレン身のない相撲が売りの巴潟だったが、仕切り中の動作は顔のあちこちを掻いたり、鼻をかんだり、腕を回したりとせわしないことから、行儀が悪いと眉をひそめられる向きもあった。一般に力士というものは仕切りの間に集中力を高めてゆくものだが、巴潟は常に落ち着きがないように見えたからだ。

 実際はバッターボックスに立った野球選手にしばしば見られる、必要もないのに帽子や袖に一通り触れてからバットを構えるのと同様、お決まりの動作をしているに過ぎないのだろうが、目の前で見ている対戦相手からすると気が散って仕方がなかったのだろう。それでいて時間一杯になると、弾丸のように突進してくるのだがら油断も隙もない。

 また石頭で知られる巴潟のこと、対戦相手はよほど気を引き締めて立ち合わなければ、低い体勢で頭から突き上げてくるため、頭同士がぶつかるのは常識の世界とはいえ、当たり所が悪ければ一瞬ひるんだところを一気に持っていかれてしまう。

 元貴闘力(関脇)の鎌苅忠茂が、白鵬のエルボースマッシュのようなえげつないかちあげに対する対抗策として、「かちあげてくる瞬間は脇が開いて顎ががら空きになるので、低い体勢から顎目がけてぶちかませばいい」と言っていたが、巴潟はまさにその手本のような相撲を取っていた。

 小型力士は巨漢力士のかちあげやぶちかましをまともに食らうとひとたまりもないが、巴潟にはそのセオリーは通用しなかった。とびきりの石頭が顎に照準を合わせて地対空ミサイルのように低い位置から飛び出してくるのは、むしろ動きの鈍重な巨漢力士にとっては恐怖だったに違いない。


 巴潟は自らの相撲スタイルを「玉砕戦法」と表現しているように、一直線に相手を押すだけというシンプルなものだ。この点においては、昭和三十年代に「褐色の弾丸」の異名を取った同タイプの力士、房錦とは異なる。

 房錦には変化も含めて攻撃にバリエーションがあったぶん、動きが読まれにくかったが、巴潟は小細工を弄するタイプではなかった。それどころか、「精一杯相撲を取るだけで、勝敗は関係ない」と勝負師らしからぬ発言もしているほどで、その潔さが「玉砕」を美化する軍国主義の時代にマッチしていたこともあって、一時期は大変な人気があった。

 香車のような一直線の押し相撲のため、立ち合いの変化にはもろいところがあったが、スピードがあり、一旦懐に入ると間髪入れずにおっつけてくるため、そこから投げ技や足技を弄するのは困難だった。相手の出足が良く、突進を止められた場合は、一旦相手から離れて、至近距離からの当たりを繰り返すヒット・アンド・アウェー戦法も多用した。

 軽量で非力であっても、短いインターバルで何度もぶつかってゆけば、相手のバランスも少しずつ崩れてくるからだ。しかも呼吸が合わずに仕切りが長くなると、顔色が蒼ざめてくるのがわかるほど褌を締め上げているため、相手力士が褌をつかむのに戸惑っている間に有利な体勢に持ち込めた。

 関取になる前から弟弟子のように稽古をつけてやり、手の内がわかっているはずの幡瀬川でさえ初対戦では投げを打とうとしたところを押し切られてしまっている。『(二代目)相撲の神様』と謳われ、常に考えながら相撲を取る幡瀬川も、巴潟の予想外の攻めのスピードには脱帽だった。

 四つに組まれて長い相撲になると不利なため、相撲の展開が速く、昭和十一年春場所二日目、新鋭出羽湊が巧い立ち合いで十分の右四つから一気に寄ってきたところを、巻き落として片膝をつかせた一番など、巴潟の引き足が速すぎて攻め手の足がついてゆけずに腰砕けになってしまうという典型だった。

 取り口に慣れられるにつれ、叩かれたりいなされたりして、あっさり土俵を割ることが多くなったが、正攻法で受けて立つ力士にとっては相変わらず手強い存在だった。

 中でも武蔵山は巴潟を苦手としていたようで、横綱昇進がかかった十年一月場所では、初日に顔を合わせた巴潟に一直線に寄り切られてしまい、昇進が翌場所後に持ち越されている。対戦成績は二勝二敗で、新横綱となった十一年一月場所でも金星を献上している。また、ともに平幕時代に対戦のあった双葉山とは一勝一敗だったが、速攻を得意とする安芸ノ海には二戦二勝と一度も負けなかった。

 昭和十三年十二月、友綱親方から見込まれて親方の娘と見合い結婚し婿養子となった。二十七歳の若さで弟子を持つ身となったが、縦社会の角界では珍しく、全ての弟子を平等に扱った。これは、褌担ぎだった頃に物心両面で玉錦に支えられたことに恩義を感じていたからであろう。

 自身の相撲はさっぱりした楽天家であっても、義理人情に厚く、面倒見のよいことから、若手からは慕われていた。

 昭和十五年夏場所を最後に引退し、年寄玉垣となる。戦後、高島部屋を継承し、吉葉山を横綱に三根山を大関にそれぞれ育てあげるなど、指導者としても手腕を発揮した。岳父友綱の死に際して友綱の名跡を継承し、直弟子の魁輝(後に関脇)が関取になったところで協会を定年退職する。

 昭和五十一年には実弟と部屋の跡地に『ちゃんこ巴潟』を開店した。この店は「日本一のちゃんこ」と評判になり、現在に至っている。

 晩年は相撲中継のゲスト解説者としても活躍する一方で、月刊誌『相撲』に「弾丸巴潟、相撲夜話」を連載するなど多彩な才能を発揮した。

小兵力士というと一般に離れて相撲を取る業師タイプがほとんどだが、巴潟は軽量を顧みず正攻法にこだわったところが凄い。しかし理屈から言えば、スピードが速ければ軽量でも衝撃度は向上するので、石頭の小型軽量力士は巴潟のような相撲を身に着ければ、豊昇龍、霧島くらいなら吹っ飛ばせるのではないかと思う。

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