第44話 美男の槍騎兵 輝昇 勝彦(1922-1967)
神風の大親友としても知られるが、容貌が似ていることが縁で片岡千恵蔵とも懇意になり、千恵蔵の主演映画『土俵祭』(昭和十九年三月封切)では輝昇が相撲所作指導を行っている。ちなみにこの作品の脚本・脚色は黒澤明が担当している。
鳴り物入りで角界に入った神風とは、同級生にして最大のライバルだった。
初土俵はともに昭和十二年だが、新序で一番出世の神風は入門前からの注目株で、常に輝昇よりも一歩先を駈けていた。もちろんこの頃は輝昇のことなど知りはしない。
両者の初対戦は昭和十五年初場所、輝昇が三段目五枚目、神風が幕下三十八枚目の時のことだ。
抜群の反射神経を誇る神風は、輝昇の突っ張りをかわして格の違いを見せつけるが、負けたとはいえ、序二段に続いて三段目でも優勝した輝昇は幕下に上がり、ここはわずか一場所で通過。
この時、同じ七勝一敗ながら番付上位の神風が幕下優勝となり、二人並んで十両に昇進する。ともに十九歳の若さで、当時の角界最年少の関取となった。
幕下時代から互いをライバル視し始めた二人は、体格はほとんど同じながら取り口が全く違うこともあって、よくぶつかり稽古をするようになった。突っ張りを主体とした押し相撲の輝昇と四つ相撲を主体とした業師の神風は、ちょうど良い練習相手であると同時に、同期入門の同い年という出世争いも絡んでいたため、稽古中は互いに激しい競争心を燃やしていた。
日に二、三十番は当たり前というほとんど真剣勝負のような二人の取り組みは、稽古場の名物の一つになったが、ひとたび土俵を降りると相撲について熱く語り合う仲だった。
一日に千本から三千本も突っ張り稽古に費やす輝昇の押し相撲は日に日に威力を増してゆき、十両時代は神風に連勝。十六年夏場所は十四勝一敗の成績で十両優勝を土産に入幕を勝ち取った。
昭和十七年春場所はともに二十歳の新入幕力士が、双葉山一強の土俵に新風を吹き込んだ。
輝昇は初日こそ陸奥ノ里を土俵際に追い込みながら逆転の打棄りで惜敗したが、軽量らしからぬ一直線の押し相撲は当たるを幸いなぎ倒してゆき、十二勝三敗(不戦勝一回)という見事な成績で、一躍土俵の新星ともてはやされるようになった。
映画スター片岡千恵蔵に酷似したルックスの良さもさることながら、相撲っぷりも男前で、この場所、投げ技による勝利はなく、引き技も六日目の両国戦の叩き込み一番だけだった。その他の決まり手は、突き出し、突き倒し、押し出し、押し切り、とほとんど相手の褌に手をかけることなく決着をつけているのだから、突進力には相当な自信があったのだろう。突きと押しだけで十一番勝つというのは極めて珍しい例である。
神風がスピードと変幻自在の技の切れで十一番勝ったのとはいかにも対照的だった。
軽量の輝昇が徹底した押し相撲でこれだけの白星を稼げたのは、単に突っ張りが速く、強いというだけではない。咽喉輪をミックスしたような輝昇の突っ張りは、下から相手の喉元を突き上げるように繰り出されるため、首筋に入ると衝撃が大きく、重量級力士といえども顎が上がってしまうのだ。それも直線的に前に出るのではなく、突き返してくる相手のバランスを崩そうと横への動きを交えながら突いてくるのから始末が悪い。
もう一つの特徴は突っ張りにフォロースルーが利いている点である。空手やボクシングなどの打撃系格闘技全般に言えることだが、パンチは単に目標を狙って打つより拳一つ先を打ち抜くようにした方が衝撃度は増す。輝昇の突っ張りは当たった瞬間はまだ肘が完全に伸び切っておらず、そこからもう一押しするように掌低が食い込んでくるため、突っ張り返そうとした相手は重心を前に移すタイミングが微妙にずれてしまい、次第に防戦一方に追い込まれてゆくことになる。
この独特の突っ張りの威力が最大限に発揮されたのが、六日目の大関照国戦だった。
重心が低く、絶対に前に落ちないと言われる照国は、小型で機敏な力士に対しても腰を落として両筈押しでじりじりと追い詰めてゆくような相撲を取るため、変化技でも崩しにくく、取りこぼしの少ない力士だった。
大方の予想どおり両者の激しい突っ張り合いから始まったこの一番、照国が下からあてがうように前に出たところ、右にまわりこまれて叩かれ、あっという間に土俵に這いつくばってしまった。
照国にしては珍しく足がついてゆかず、上体だけで突っ張り返そうとしたところを見透かされて体を開かれたことが敗因だが、輝昇の突っ張りが効いていて重心が後ろに下がっていたため、バランスを崩したものと思われる。
照国は「前に落ちるなんて大関として恥ずかしい」と反省しきりだったが、以後必要以上に輝昇の突っ張りを警戒するようになったせいか、二十一年秋場所と二十二年秋場所では、逆に慎重になきすぎて相手のスピードについてゆけず、褌も取れないまま土俵から押し出されている。
欠点らしい欠点がない照国がやや苦手とするのが、褌を取られて出し投げ気味に左右に振られることだが、最も負けにくいパターンである叩き込みと押し出し、突き出しで敗れているところをみると、輝昇の緩急が効いた突っ張りと叩きを意識しすぎるあまり、後手に回ってしまったようだ。
輝昇にとって最高の稽古相手は神風だったが、横綱羽黒山が頻繁に胸を貸してくれたことで、さらに突っ張りに磨きをかけることになった。
突っ張り中心の力士はしばしば張り手が顔面に当たることから、喜んで胸を貸してくれる力士は少ないのだが、羽黒山だけは顔面への張り手を食らっても嫌な顔一つせず「輝、もう一丁こい」と熱心に稽古をつけてくれた。
輝昇に言わせると、固定された柱や羽目板と違って、手応えがあり、時に汗で滑ったりする動く標的を突く方が実践的な練習になったそうだ。
羽黒山からすれば、強烈な張り手を武器にする前田山をやや苦手にしていただけに、輝昇にあんまをさせることで張り手の克服を考えていたのかもしれないが、やがて自身が音を上げるほどになった(ただし本割では輝昇に一度も負けなかった)。
突っ張りの強さでは双璧といわれる増位山とは毎場所のように激闘を演じ、五勝七敗の戦績を残しているが、最も勢いのあった戦前の対戦に限れば四勝二敗とむしろ押し勝っていた。
十七年夏場所も、押し技で七番勝った他は、叩き込み二番、引き落とし一番と、褌を取っての投げ技では未勝利のままである。九日目の陸奥ノ里戦は、珍しい徳利投げまで披露している。「褌を取られたら三段目」といわれるほど四つ相撲は不得手で、稽古場では幕下あたりからも不覚を取るほどだったが、相手に褌を取らせない技術は天下一品だった。
十七年春、夏と入幕から二場所連続二桁勝利という快進撃で前頭筆頭まで番付を上げた輝昇は、十八年春場所、九勝六敗で小結に上がると、夏場所も八勝七敗と勝ち越し早くも関脇に昇進した。
体格に恵まれない力士が正攻法の相撲で一度も負け越さずに関脇まで上がったのは、栃木山以来のことである。稽古場では六分、七分の割りで輝昇に勝っている神風でさえ、幕内上位で足踏みをしている中、輝昇が本割りになると不思議なほど強かったのは、一番勝負で集中力を発揮するタイプだったからだ。
本場所では明荷に気持ちを奮い立たせるような勇ましい標語を書くのが習慣になっており、「輝昇の標語」は毎場所力士間では結構話題になっていた。
輝昇こと小林勝彦は北海道留萌町の出身で、父は公務員だった。六尺有余の大男だった兄賢通が相撲好きだった影響で相撲を始め、地元の宮相撲では無敵だった。
昭和十三年夏、一足先に出羽ノ海に入門していた兄が健康上の理由で力士を廃業したのと入れ替わるように、勝彦は高島部屋に入門した。以来、同じ北海道出身のよしみで何かと勝彦に目をかけてくれ、押し相撲の真髄を叩き込んだのが、「弾丸力士」として人気のあった巴潟だった。
昭和十六年に巴潟が年寄玉垣を襲名し玉垣部屋を創設した後も、輝昇はずっと巴潟に師事していた。巴潟はどちらかというと誉め役で、叱り役が元力士で当時軍医学校に勤務していた兄だった。
場所中、時間を見つけては弟の取り組みを見に来る兄は、勝った一番でさえも反省点を細かくチェックしては苦言を呈する辛辣な批評家だったが、経験者による的を得た指摘だけに言い返すことも出来なかったそうだ。しかし、結果として早い出世にも天狗にならず、かえって研究熱心な力士になったことが、輝昇の成功につながったといえる。
東西対抗の時代は、常に支度部屋が一緒だった神風と取り組み前に相撲談義に花を咲かせていたが、押し相撲と技のスペシャリスト同士の作戦会議はやはり有意義だったようで、対抗する出羽海部屋きっての業師笠置山には、輝昇が三勝二敗、神風が五勝一敗、若手ホープの豊島には輝昇が四勝一敗、神風が二勝四敗、と格上相手に健闘している。
十九年夏場所、輝昇より一年遅れで三役入りした神風が関脇で迎えた秋場所、輝昇は小結で、初めて二人揃っての三役となったが、輝昇が応召によりこの場所を休場したため、二人揃って三役として土俵に上がったのは、一般には非公開の二十年夏場所が初めてということになる。
この頃、すでに糖尿病を患っていた輝昇はここから意外に伸び悩む。
非公開場所で二勝五敗とふるわず小結から陥落すると、二十年秋場所も二勝八敗で、小結に復帰した神風と明暗を分けた。
昭和二十年の暮れ、国技館が進駐軍に接収され「メモリアルホール」と名を変えた。相撲の常設館がボクシングやバスケットのできる進駐軍専用の多目的スポーツアリーナへと改装されることになったため、ファンが期待していた春場所の開催は不可能となり、相撲協会は窮地に立たされた。
最終的には改装工事の終了後、一場所限りの条件で十一月に秋場所が開催されるはこびとなったが、この一年間のタイムラグが体調不良の輝昇にとっては幸いし、秋場所は久々のベストコンディションで臨むことができた。
二日目に横綱照国、三日目に大関東富士と重量級力士を突き出した輝昇が迎えた四日目の相手は入幕以来土つかずの十三連勝を続ける戦後最大のホープ千代の山(東前頭筆頭)だった。
ともに突っ張りを武器とする正攻法の力士同士の対戦ということで激しい攻防が予想されたが、体格的に有利と見られた千代の山の方が押し込まれ、苦し紛れに叩いたのが仇となって一気に寄り倒された。
大関前田山には力負けしたものの、この場所絶好調で場所後に大関に昇進する汐ノ海まで一方的に押し込んで全勝をストップさせた輝昇の奮闘は素晴らしかった。三賞制度が発足していれば文句なしの受賞だっただろう。東軍の上位陣をほぼ総なめした内容が買われ、九勝四敗の成績ながら西前頭九枚目から一気に番付が飛んで、翌二十二年春場所は東小結に上がった。
再び神風(東関脇)と三役を務めた春場所は、二人仲良く勝ち越しを決め、三役の座を死守した。
二十三年夏場所は四年ぶりに関脇に返り咲くも一場所で陥落。その後は浮き沈みの激しい相撲を繰り返した。自己ワーストの一勝十四敗という無残な成績に終わった二十六年秋場所は、後半に九連敗しているが、翌二十七年初場所は初日から自己ベストの十一連勝と突っ走り、最終的には十二勝三敗で二度目の敢闘賞を受賞した。
昭和三十一年春場所、十両十七枚目で二勝八敗五休と幕下転落が確実になったことで、ついに引退を決意する。引退後は協会に残らず、親友神風の骨折りでTBSの相撲解説者に抜擢されるが、普段は弁舌鮮やかな輝昇も、技術的な分析能力に乏しかったため解説業には不向きで、短期間でお役御免となった。ただし、新聞や雑誌に掲載された勝負の寸評に関しては、表現が巧みで豊かな文才の持ち主だったと評されている。
昭和三十五年一月、三十八歳で突如プロレスラー転向を表明。力道山門下に入りトレーニングを積んでいたが、これは年寄りの冷や水で半年でギブアップ。晩年は板橋で雑貨商を営んでいたという。
末弟の良雄も昭和十八年に角界入りし、序二段に昇進したところで応召されたが、復員後も角界には戻らなかった。そのため佐藤家の三兄弟も、兄弟力士は出世しないという角界のジンクスを破ることはできなかった。




