第43話 快刀乱麻のゼロファイター 神風 正一(1921-1990)
私たちの世代にとっての神風はNHKの名解説者である。これまでに大勢の個性豊かな解説を聞いてきたが、
話のテンポ、解説のわかりやすさにおいて神風は傑出していたと思う。さすが力士にならなければ、海軍兵学校という地頭の良さとあらゆるスポーツに通暁したオールマイティのアスリートの経験値をミックスしたスペシャルカクテルの解説だけのことはある。
昭和八年、小学校六年生の時に朝日新聞社主催の全国健康優良児コンテストで準優勝した後の神風こと赤沢正一少年はスーパー小学生だった。
香川県大川郡三本松小学校は、学問もスポーツも優秀で県下にその名を轟かせていた。特にスポーツは各種大会で優勝旗を何本もかっさらってくるほど秀でていたが、これはたまたま運動神経が良い子供たちが集まったというより、小学生に対し遊びの延長ではなく競技を基礎から叩き込む本格的な指導者がいたことによる。
その中でも万能選手として四国はおろか関西にまでその名が知れ渡っていたのが赤沢正一だった。
当時の得意種目は野球で、その速球の威力を買われて名門平安中学や浪華商業から声がかかるほどだった。力士を引退した直後ですら、西鉄ライオンズの名将三原脩から入団の誘いがあったくらいだから、野球の道に進んでいてもプロになっていた可能性は高い。しかし他県に進学するのはどうも気が進まず、地元の大川中学を選んでいる。
大川中学には野球部がなかったため、柔道部に所属する傍ら、小学校時代と同様に陸上、水泳、バレー、バスケットとあらゆる競技に出場してはメダルをごっそり持ち帰ってきた。
中学四年の時にはロサンジェルス、ベルリンオリンピックの金メダリスト遊佐正憲を擁する日大水泳部から「オリンピックを目指そう」とラブコールを受けるが、本人は自信のある柔道(三段)を続けるため武道専門学校(京都)への進学を考えていた。もちろん柔道の顧問の先生からも「君なら日本一になれる」というお墨付きであった。
現在でも小中学校くらいまではあらゆる競技に長けた万能選手はいるかもしれない。しかし、高校生で(旧制中学四年は今日の高校二年に相当する)これほど複数の競技でスカウトの対象になるような選手がいるだろうか。それでいて赤沢少年は成績もトップクラスとあって、父母は当時東大以上に難関だった海軍兵学校への進学を希望しているというのだから、まさに将来は選り取り見取りだった。
そんな彼の人生に突然割り込んできたのが、同地に巡業に訪れた玉錦、鏡岩、双葉山の大相撲一行であった。中でもすでに赤沢少年の評判を聞いていた玉錦は、本人に面会したうえで熱心かつ強引に口説きにかかった。
相撲経験がない中学生に対し、学業はそのまま続けさせるうえ、必要なら契約金も出すという破格の条件を提示してきたくらいだから、余程閃くものがあったのだろう。
当の本人は全く相撲などには興味がないし、相撲の世界が厳しいことを知っている両親も大反対だったが、諦めきれない玉錦は隣村出身の代議士三土忠造を通じて圧力をかけてきた。本場所にも通うほど相撲好きの三土は何度も閣僚経験がある大物である。直接交渉は三土の実弟で現職国会議員の宮脇長吉が当たったが、この時代にこれほどの政治力を駆使されては、「NO!」と言えるはずもなく、泣く泣く角界入りが決定した。
昭和十二年四月、正式に二所ノ関部屋の一員となった赤沢正一は、自ら「神風」の四股名を名乗ることにした。これは朝日新聞社の企画で行われた東京-ロンドン間の飛行で最短時間記録を打ち立てた「神風号」にあやかったものである。
早朝三時から朝稽古をした後、上野中学に通うという生活はこたえたが、労苦を糧に前相撲を最高の成績で終え、新聞紙上にも「神風、新序に躍進」と写真付きの見出しで紹介された。
それだけではない。まだ新弟子というのに、雑誌『野球界』からも「初土俵の記」という題目で執筆依頼まで受けた。アマチュア相撲で相当鳴らした力士ならまだしも、この世界では無名の新人が入門時か
らこれほど注目された例はない。おまけに『野球界』の記事を読んだ古老の相撲評論家から文章が面白いと誉められたとあっては、同僚たちの妬みは想像を絶するものであったに違いない。
それでも横綱玉錦の付き人として四六時中行動を伴にしていたため、兄弟子たちのいじめに遭わなかったのは幸いだった。また、気性が荒く何かと言うと弟子たちに拳骨を振るう玉錦も、余程目をかけていたのか何故か神風だけにはやさしかった。
番付に初めて四股名が載った十三年一月場所は、負けた時は近寄りがたいほど不機嫌になる玉錦が、自身は千秋楽に双葉山に敗れていながら、神風の好成績(五勝二敗)を喜び、励ましてくれた思い出の場所となった。
昭和十七年一月場所に新入幕。途中右足の骨折や師匠玉錦の急死など予期せぬトラブルに見舞われながらもわずか八場所で入幕というのは、同時代の力士の中では羽黒山、千代の山、照国に次ぐスピード出世である。この場所を十一勝四敗と健闘した神風は、押しも押されもせぬ人気力士となった。
一七九センチ一〇五キロというスリムな身体ながら、柔道で鍛えた強靭な足腰を生かして放つ投げ技は、上手投げ、下手投げともにダイナミックで見応え十分。知的で端整なルックスからは想像がつかないほどの攻撃的な相撲が身上だった。
両腕を真っ直ぐに伸ばして腰を引いた独特の仕切りから、猫科の捕食獣のように相手に飛びかかってゆくスピード感溢れる取り口は、まさに「神風」の名にふさわしかった。
人間的にも人格者で、人気に溺れることもない真面目な若者だった。入門時こそ特別待遇ぶりに反感を覚える力士も多かったが、十両昇進が決定した時は、付け人の希望者で溢れたという。かの力道山も下っ端時代は神風の付け人だった。
上位との対戦が組まれ、その真価が問われた十七年五月場所は七勝八敗と惜しくも負け越したが、六日目の関脇安芸ノ海との対戦は、この場所優勝同点で大関昇進を決めた期待のホープをぎりぎりまで追い詰めた名勝負であり、神風株がさらに高騰するきっかけとなった。
この安芸ノ海戦、実は一部の力士たちからは因縁の一戦として密かに注目されていた。
昭和十五年の巡業中、まだ幕下だった神風が取り組みを終えてのんびり風呂につかっていると、そこに安芸ノ海が入ってきた。すでに関取衆の入浴時間が終わっていたことを知らなかった安芸ノ海は、「ワシの前に風呂に入りやがって」と凄い剣幕でいきなり神風を殴ったが、幕下が関取に逆らえるわけもなく、そこは泣き寝入りするしかなかった。ところが、この一件が先代師匠玉錦と親しかったヤクザの親分の耳に入り、後日安芸ノ海が神風に詫びを入れるという事態を招いたのである。
その事が尾を引いていたのかどうかはわからないが、両力士とも闘志剥き出しで、激しい投げの応酬に館内は興奮の坩堝と化した。神風が得意の上手投げを打てば、安芸ノ海は回りこみながらこちらも得意の掬い投げで切り返す。
しかしバランスの良い神風は二度、三度と投げ技を連続して安芸ノ海の腰を浮かせると、懐に飛び込みざま腰を跳ね上げるような渾身の上手投げで勝負に出た。
投げた瞬間は神風の勝ちかと思われたが、しぶとい安芸ノ海が片足立ちのまま捻りを加えたことでほぼ同体で落下し、物言いの結果(行司軍配は神風)、取り直しとなった。
取り直しの相撲もがっぷり四つの熱戦だったが、最後は体力に勝る安芸ノ海が下手投げで際どい勝負をモノにし、全勝を守っている。
この二人は神風が右上手、安芸ノ海が左下手で十分な型になるため、常に双方得意の左の相四つに組み、そこからのせめぎあいが見ものだった。通算成績は神風の二勝四敗だが、どの取り組みも熱戦で、両者の対決は毎場所大きな話題となった。
十八年五月場所は、双差しの安芸ノ海が、このまま寄り切るかと思われた瞬間、身体を寄せた神風が上手投げで仰け反らせてからの外掛けで逆転勝利。これが神風にとって初金星だった。
十九年一月場所、十一勝四敗の好成績で小結に昇進すると、初の三役でも八勝二敗。十一月場所には関脇となり、遂に大関を狙える位置にまでこぎつけた。切れ味抜群の投げ技はますます冴えわたり、五月場所に横綱照国を下手投げで横転させた一番は圧巻だった。
ところが、大関取りの試金石となるはずの十一月場所は五勝五敗と調子が今ひとつだった。戦火が厳しくなり、もはや相撲どころではなくなっていたのだ。
昭和二十年三月十日の東京大空襲で部屋も焼け落ち、勤労奉仕の合間を縫って寺の境内で練習するようになってからは、さすがの稽古の虫もお手上げだった。
易学に詳しいファンに勧められて神風から二所ノ関部屋由来の海山に四股名を変えてみたりもしたが、結果が残せず、戦後は元の神風に戻している。やはり神風の方が生に合っていたようで、三役に戻ってからはまた神風らしいきびきびとした歯切れの良い相撲が取れるようになった。
関脇に復帰して二場所目(昭和二十二年十一月場所)に足首の怪我で途中休場し、一度平幕に落ちたものの、そこから四場所連続勝ち越しを決め、ようやく大関取りも現実味を帯びてきた。
初の三賞に選ばれた二十三年十月場所は、前田山、照国から二日連続で金星を挙げた他、大関汐ノ海も破るなど絶好調で、成績は七勝四敗だったが、その他の対戦相手の内訳も凄かった。神風が勝った吉葉山、鏡里は後の横綱、三根山(当時関脇)は後の大関、名寄岩は元大関であり、負けた千代の山、東富士も後の横綱、増位山は後の大関である(場所後に東富士は横綱、増位山は大関にそれぞれ昇進)。
この豪華メンバーと互角以上に戦えたのは、体重も一二〇キロに達し大型力士にもそうそう力負けすることもなくなったからであろう。身体ができあがり技にも磨きがかかった神風は、二十四年一月場所も優勝力士東富士(横綱)と取り組み中の怪我で痛み分け(引き分け)を演じるなど激しい相撲で土俵を沸かせて小結の座を守ると、五月場所は横綱前田山と優勝力士である大関増位山を撃破し、翌場所三たび関脇に復帰した。
ところがまたこの肝心な場所で、ほったらかしにしていた太股の腫瘍を悪化させて途中休場。さらに悪いことに手術後経過が良いのを見た協会から後半戦の出場を強要され、協会との間に大きなしこりを残してしまった。
いくら力道山と並ぶ二所ノ関部屋きっての人気力士とはいえ、医者から二三週間の安静を言い渡されている力士を、客の入りを増やすという営業上の目的だけで出場させるというのはあまりにも理不尽である。
神風はあくまでも休場を主張して協会と対立したが、最後は自分の相撲を観に来てくれているファンのために出場し、復帰後三連敗で場所を終えた。
このことが伏線になっていたのか、前頭二枚目で迎えた二十五年一月場所の神風は二横綱(東富士、羽黒山)の一大関(汐ノ海)を破る活躍で九勝六敗。誰もが三役復帰間違いなしと見ていたにもかかわらず、新番付では西前頭筆頭に据え置かれていた。
一月場所は関脇三根山が三勝六敗三休、小結羽嶋山が四勝十一敗と振るわず、翌場所は平幕への陥落が確実だったため、順当であれば東の前頭二枚目の神風と東前頭三枚目で二横綱二大関を倒した吉葉山(十勝五敗)が三役に上がる。しかし蓋を開けてみると小結に上がったのは東前頭筆頭で八勝七敗の出羽錦だった。
出羽錦は勝ち越しているとはいっても東富士と羽黒山の途中休場による二つの不戦勝のおかげであり、その他の横綱大関(照国、佐賀ノ花)には負けているため、内容的にも神風や吉葉山とは雲泥の差がある。その出羽錦が三役に上がったのは、師匠である出羽海理事長の力という以外には説明がつかない。
これでやる気の失せた神風は惰性で出場した五月場所、初日から五連敗を喫した後、二十八歳で引退を決意した。
翌九月場所でも番付上の不満から関脇力道山が引退届けを出すなど、出羽海一門の横暴ぶりには目に余るものがあった。もし今日のように厳正な番付編成会議が行われていれば、神風、力道山ともに力量的には大関になっていた可能性が高いだろう。その代わり、プロレス王と名解説者が生まれていなかったかもしれないことを考えると、それも二人の運命だったのかもしれない。
神風がキレなければ、彼を慕っていた力道山も髷を切らなかったかもしれない。しかし、プロレスラー力道山が高度経済成長期に日本に与えた大衆娯楽の影響力を考えると、力道山の衝動的な廃業は正しい決断であり、それを遡る神風の廃業も”いいね”の嵐ということになる。ということは、横暴な出羽の海の自己中心的な企みはスポーツ界全体で見れば、その貢献度は計り知れないということか。




