第42話 孤高の勝負師 大錦 卯一郎(1891-1941)
入幕から五場所で横綱昇進という相撲界歴代最短記録の持ち主が大錦卯一郎である。おそらく未来永劫絶対に記録更新は不可能だが、不可能であるがゆえに現在彼の記録が言及されることはまずなく、マスコミを賑わす大抵のスピード記録は”昭和以降””年六場所制以降”などと但し書きがつくのが定番になっている。梅ケ谷(初代)、太刀山にしかり、更新不可能な記録を持つがゆえに、彼らの偉業をスルーし、以降の記録が対象とされる悪習、何とかならないものだろうか。
明治後期から昭和初期にかけての出羽海部屋の隆盛ぶりは凄かった。御大常陸山の引退後も、愛弟子の大錦、栃木山、常ノ花が相次いで綱を張り、最盛期の大正六年から十五年までの十年間全二十場所中、出羽海部屋が優勝掲額を果たしたのは実に十七場所に及ぶ。
昭和十年代に双葉山、羽黒山を擁した立浪部屋の無敵ぶりも際立っていたが、昭和十一年五月場所から二十年十月場所までの二十場所中、優勝は十六場所で、全盛期の出羽海部屋には及ばなかった。
反面、筆頭取締(現在の理事長に相当)となった歴代の出羽海(常陸山、両国)が、その威光を傘に独断的な協会運営を行ったことは、後に大きな火種となった。中でも番付決定における出羽海系の優遇措置は、力士たちのみならず相撲ファンの間にも不信感を植え付けた。
常識外れのスピード出世、甘い昇進基準によって、出羽海部屋は短期間で三人の横綱を輩出したが、その最大の恩恵を受けたのが、入幕から五場所で横綱昇進という信じられない超スピード記録を打ち立てた大錦である。
年六場所制になったことで、入幕から二年少々という横綱昇進までの最短期間記録こそ、大鵬によって半年ばかり更新されたものの、大鵬ですらそれまでに十一場所を要しており、今後とも入幕五場所で横綱などという破天荒な記録を破る者は決して現れないだろう。
大関から横綱に昇進するためには、最短でも二場所連続優勝かそれに準ずる成績が必要であることを考えれば、入幕二場所目までに大関にならなければ、大錦の記録は抜けないからである。
万が一、新入幕から二場所連続全勝優勝するような怪物力士が現われたとしても、東西の大関が同時に
引退か関脇陥落によって空位になるという異常事態が起こらない限り、相撲協会がそのような異例の大関昇進を認めることなどありえない。
明治二十四年十一月二十五日、大阪市南区八幡筋鍛冶屋町に生まれた大錦こと細川卯一郎は、天王寺中学時代は水泳の選手だった。ところが陸軍幼年学校の受験に失敗したのを機に、その恵まれた体躯を生かすため力士を志願した。
明治四十二年の同期入門には常ノ花、福柳らがいるが、出世は断然早かった。その大錦を追走し、同時に幕内に上がったのが二歳年下の栃木山であり、二人は終生本割りでは戦わざるライバルとして共に出羽海部屋の隆盛を築き上げた。
大錦という四股名は、出羽海部屋を紹介してくれた知人が「大阪に錦を飾るような力士になれ」という思いを込めて付けたものである。当初本人は「大常陸」を希望していたが、さすがに師匠の常陸山もこれには苦笑して「お前に大常陸は重すぎるだろう」と却下したため大錦に落ち着いた。
この時、すでに幕内を張っていた常陸山の高弟の四股名が「小常陸」なのだから無理もない。
自信家だけあって、大錦の出世は早かった。体格は師匠常陸山と変わらないが、非力なため四つ相撲にこだわらず、鋭い出足から左を差したらそのまま一気呵成に寄るか吊り出す相撲を心掛けたのが功を奏した。
栃木山も立ち合いは速かったが、大錦は体重が乗っているぶん当たりはさらに強烈で、出世争いではライバルと目されながら、横綱昇進までは稽古場では大錦の方が強かった。
大正四年一月、大錦と栃木山は同時に入幕を果たした。入幕までの所要場所は大錦の九場所に対して、栃木山は当時の記録である七場所である。その後も番付の上昇は両者ともに驚異的に速い。
東前頭十三枚目の大錦は八勝一敗一休の成績で一気に小結、同十六枚目の栃木山は八勝二敗で東の二枚目までゴボウ抜きである。さすがに幕内上位との対戦が多くなるこの地位では、まだ体重が一〇〇キロに届かない栃木山は、取りこぼしも少なくなかったが、体格に勝る大錦は新三役で初日から八連勝し、九日目に全勝対決で太刀山に屈しただけの一敗にとどめ、場所後に関脇を飛び越えて大関に昇進した。
大錦の入幕以来の成績はいずれも優勝に準ずるもので、確かに非の打ちようがない。それでも入幕からたったの二場所で大関というのは時期尚早もはなはだしい。おそらくこんな記録は二度と出ないであろう。
さらに大錦の幸運は続く。大関で八勝二敗、七勝三敗、十勝〇敗(初優勝)で、六年五月場所には早くも横綱である。しかも、これで空位になった大関に推挙されたのは、三役二場所の成績がいずれも六勝三敗に過ぎない同門の栃木山である。
これを現在の十五日制に直せば、十勝五敗を二場所続けただけで大関ということになり、今日では絶対に有りえない大甘の昇進基準である。
この悪しき前例は、常ノ花の大関昇進にも生かされている。栃木山ほどではないにせよ、七勝二敗、六勝一敗で大関というのも通常では考えられない。それも師匠出羽海によると「全会一致の決定」というのだから、出来レースもいいところである。
常ノ花は横綱昇進に際しても、前三場所が四勝四敗、九勝〇敗(優勝)、八勝二敗だから、まさに幸運児という他はない。
大正時代に出羽海部屋が生んだ三名の横綱のうち、横綱への昇進で客観的に納得のゆく者は大関で二場所連続優勝した栃木山のケースだけである。いかに出羽海のゴリ押しがまかり通っていたかがよくわかる。裏を返せば、彼らが番付で優遇されたぶん、不利益をこうむった力士もいるわけだから、こういった作為的なスピード記録は、話題性において大相撲人気を煽る役割を果たしたとしても、出羽海系以外の力士にとってはモチベーションの低下を助長するだけで、角界の質的向上には繋がらない。
それでも大錦、栃木山、常ノ花は幸運な昇進に奢ることなく精進を続け、名横綱と言われるまでになったことは評価すべきであろう。
大錦は知的相撲の第一人者であった。栃木山が押し相撲に磐石の型を見出したのとは対照的に、相手によって取り口を変えたのだ。まず彼は幕内力士全員の仕切りの癖を研究し、筋肉の動きや表情の変化からいつ仕掛けてくるかを読み取ろうとした。
組んでからは相手の得意技を出させない工夫をこらし、自分の非力さを補うために相手の力を利用する方法の研究にも余念がなかった。
「柔よく剛を制す」の理想を追い求めた大錦は、講道館の嘉納治五郎の門下に入り、その奥義をいかに相撲に生かすか、嘉納館長とともに取り組んでいたというから本格的である。
稽古場ではそれほど強く見えない大錦が、本番の取組みになると別人のように強かったのは、今日風に言うところのIT相撲に長けていたからである。
小手投げと掛け投げを封じるため身体を密着させて鳳を破った一番といい、空声だけで立たないと見切った太刀山にいきなり突っかけ、そのまま二本差しで寄り切った一番といい、研究熱心な大錦ならではの勝利と言えよう。
稽古場では恐ろしく強いくせに本割りの土俵では緊張感からか本来の力を発揮できない力士を稽古場横綱と言うが、大錦はこれと真逆のケースで、横綱になっても進境著しい栃木山はおろか関脇の両国あたりからもころころ転がされていたという。
その姿があまりにもみっともなかったことから、大錦は素晴らしい実績の持ち主であるにもかかわらず一流横綱と見る向きは少なかった。
これは勝つための戦略に長けていても、勝利に執着するあまり相撲が汚いとして、記録ほどの評価を受けていない白鵬に通ずるところがある。
日本の相撲は単に記録や勝敗を競うスポーツではなく伝統と尊厳が重視される一種の芸術的神事でもあるため、美醜も評価の基準に加えられる。常陸山や双葉山が角聖とまで称されるのは、一方的に己の強さを誇示することよりも、受けて立つことで相手の力も十分に発揮させること、すなわち相手力士に対し敬意を払って相撲を取っていたことに尽きる。
大錦にせよ栃木山にせよ、出世が早かったおかげで横綱になった年齢が二十代半ばと若いうえ、前時代の力士たちとは段違いのスピード相撲で国技館を沸かせた点において、まさに新時代の申し子にふさわしい存在であった。
実力が伴わないうちに横綱になったのが裏目に出たのか、大正六年五月場所から八年五月場所まで栃木山の五連覇を許してしまい、横綱としての初優勝は九年一月場所までお預けとなった大錦も、そこから三連覇と盛り返し、いよいよ彼の時代が到来したかと思わせたが、それも長くは続かなかった。
大正十二年一月八日、力士会総会の席で伊勢ヶ浜部屋の司天龍から提案された養老金の倍額要求は、角界を揺るがす大きな事件へと発展した。
当時、年寄名義株を襲名するには、その前名義者あるいは遺族の扶養料として一万円を要したのに対し、協会から支給される養老金は横綱一万円、大関七千円、幕内五千円、十両三千円であり、幕内で引退しても年寄株を手に入れるのは容易なことではなかった。
力士会からすれば、昨今の相撲人気からして待遇改善は当然という思いがあったに違いない。
対する協会側は、国技館の再建費用など予期せぬ出費がかさんでおり、財政状態は芳しいものではなかったため、即答に応じられず、「場所打ち上げ後五日以内に」と問題を先送りした。もちろん力士会はこの提案を拒否し、両者の間には険悪なムードが漂い始めた。
かくして一月場所が始まる前日、力士会の承認を得ないまま協会は触れ太鼓を叩いて回ったことで、事態はさらにこじれてしまう。「問題が未解決なのに太鼓を回すとは、我々を無視した行為である」と激怒した関脇以下七十余名は、三河島の日本電解工業の工場に立て籠もってしまった。
これを労働争議と見た所轄の相生警察署長が調停に乗り出すと、警視庁からも幹部が派遣され、力士会と協会の間に立って話し合いを続けた結果、双方から白紙委任状を取り付けることで事態は収まった。
最終的な調停は赤松警視総監の手に委ねられ、妥協案として養老金五割増しと、その分の財源補填のため興行を一日増やし、その日に場所中の預かりや取り直しの一番を行うことで、ようやく双方の同意に至ったのである。
ところがその夜の手打ち式の席で、力士会長の大錦は、自ら切った髷を包んだ服紗を差し出すと、事態紛糾の責任を取って現役引退を宣言したのである。一瞬場は凍りついた。
ショックで号泣する司天龍を振り切るように宴席を辞した大錦は、その夜、訪ねてきた記者に「師匠の墳墓の土のまだ乾かぬうちに、出羽海部屋の力士までがこの運動に加わって、かかる紛擾を起こしたことは、部屋頭の自分としてまことに申し訳なく思った。相撲道の権威たる横綱の栄位を辱めた責任を感じた」と引退理由を語ると、後日廃業届けを提出した。
前場所に優勝した横綱がこのような形で土俵を去るというのは前例がない。明治以降では初代梅ヶ谷に次ぐ幕内勝率八七・三パーセントという素晴らしい実績を残しながら、後世の評価が意外に低いのは、常陸山に対する梅ヶ谷(二代目)、太刀山に対する駒ヶ嶽のようなライバルに恵まれなかったことや、妥協を許さない自己中心的な言動が目立ち、協会の覚えも悪かったからであろう。
一方、酒や博打、女遊びにうつつを抜かす力士を蔑視し、節制と倹約に務めたことで力士間でも変わり者扱いされており、まさに孤高の横綱だった。
大錦が吝嗇扱いされても蓄財に励んだのには理由がある。ごっちゃん稼業の力士には珍しく、社会福祉事業に非常に関心が高かった大錦は、地元大阪での大関昇進披露の時に堂島市場から集められた米俵を地域の貧民たちに分け与えたほか、疫病が流行った時も布団代わりにといって自宅の倉庫に保管していた大量の幟を各地の病院に送っているのだ。
上記以外にも巡業中の食費などを削って一定額の金が溜まると、福祉事業に寄付するのを常とした。
つき合いが悪いと言われたのは身銭を切ってまで飲み歩くことがなかっただけで、酒も強く誘われれば無下に断ることはなかったらしい。大正初期の博多巡業の際には雨天で取り組みがなくなったのをいいことに、栃木山、宇都宮、伊達ノ矢と四人で差し入れの四斗樽を平らげた後、酒瓶を何本かぶら下げて繁華街に繰り出したというから、同門の関取連中とは楽しくやってようだ。
責任感が強い性格だけに、綱を張ってからは横綱の尊厳を守るために自身を厳しく律するとともに、後輩力士たちの素行にも目を光らせるようになった結果、話のわからない男というイメージが定着していったものと思われる。
また親孝行でも有名で、海外巡業にも父親を同伴したばかりか、老後の蓄えにという理由で朝鮮の果樹園を寄贈している。
廃業後は築地で細川旅館を経営する傍ら、早稲田大学に聴講生として通い、相撲評論家としても活躍した。
今日は”幕下付け出し”というキャリア組優遇のスキップ制度があるため、”初土俵から〇〇場所”との条件つきで、新記録を吹聴することもある。しかし、スキップ制度は必要なのだろうか。武蔵山、羽黒山、照国といった超特急の出世組でも幕下までに黒星は喫しているわけだがら、アマのエリートなら三段目までは一蹴できると見なしてしまうのは早計だろう。逆にかなりの大物でも新弟子から三段目まで無敗で勝ちあがるのはむしろ不可能ではないかと思う。一体新弟子から21連勝以上できた力士が明治以降何人いるというのだ?




