第41話 沈黙の巨砲 大砲 万右衛門(1869-1918)
角界の二十世紀は、小錦の引退と大砲の横綱昇進によって幕を開けた。
史上最小の横綱が土俵を去った後、史上最大の巨人横綱が誕生するというのは、アジアの小国から世界でも指折りの軍事大国へと発展を遂げようとしていた当時の日本を象徴しているようで、いかにも因縁めいている。
しかし、小さくともスピード相撲に活路を見出して名横綱と呼ばれるにふさわしい活躍を見せた小錦に比べると、大砲は恵まれた巨躯を生かしきれず期待外れに終わった感が強く、さながら時代遅れの大鑑巨砲主義に傾倒して破滅への膨張を続けていった軍事大国日本の行方を暗示しているかのようだった。
明治三年十一月二十八日、宮城県刈田郡三沢村に生まれた角張万次は十三歳にして六尺を超える長身にして四斗俵を左右に一俵ずつ下げて歩く怪力ぶりが評判となり、十七年夏に尾車部屋に入門した。
後に一九七センチに達する大砲は、昭和六十一年に一九九センチの双羽黒が横綱に昇進するまで歴代最長身の横綱として名を留めるだけに、明治中期の角界では一頭抜けた巨人力士だったかと思いきや、上には上がいた。
大砲が初土俵を踏んだ明治十八年一月場所をもって引退した元関脇の武蔵潟は、二一一センチという大巨人で、入門当時の大砲よりも頭一つ大きかった。その武蔵潟と入れ替わるように、同年花 籠部屋に入門してきた男山応輔も二メートルを超える巨人だったため、彼らより一回り小柄な大砲はまだそれほど注目を浴びる存在ではなかった。
それでも当時としては常識外れの巨漢だったことは確かである。わが国初の相撲アナウンサーとして知られる松内則三が横浜駅前で人力車に乗る大砲を見かけた時のこと。車夫が梶棒を持ち上げたと同時に車がメリメリと音を立てて壊れ、仰天したという。
この時の大砲は尻餅をついたくらいで済んだが、男山は巡業中に地方旅館の便所の床を踏み抜いて尻から落下し、尾骶骨骨折の重傷を負ったばかりか、療養中に急死している(明治十九年九月)。
明治の日本は、二メートル、百数十キロ級の巨人にとっては住みにくい世界だったようだ。
入門当初の大砲は立派な図体を持て余し気味で、相撲はからきし下手だった。初のエジプト出身力士として話題となった大砂嵐が「ボディビルに励んでいた頃、体重が半分しかない相手と相撲を取って全敗したことが相撲道に進むきっかけとなった」と述べているように、相撲というスポーツは奥が深く、身体が大きく腕力があるからといって、それがそのまま通用するほど甘くはない。
天賦の体躯と怪力を有しながら、初土俵から幕下まで五年もかかっているのは、根が不器用で力任せの相撲から抜け切れなかったからであろう。それでも協会副取締役の雷権太夫(初代梅ヶ谷)は大砲の資質を疑わず、「あいつは必ず横綱になる」と断言していた。
その入れ込みようときたら一人娘のセンの婿にしようと画策したほどだったが、センがあまり乗り気でなかったことや、他部屋の関取を婿養子に取ることに対して雷部屋内でも異論があったため、この話はお流れとなってしまった。
大砲がようやく安定した力を発揮するようになったのは、十両に上がった明治二十五年一月場所の頃からである。この場所八勝一敗一分の好成績を残した大砲は、翌五月場所に目出度く入幕を果たした。
期待された男山が巡業中に客死していたため、相撲協会は大砲を武蔵潟以来の大物巨人力士として売り込もうと、露骨な番付優遇措置まで講じたが、立ち合いが拙く得意技を持たない大砲が幕内で勝ち進むのは難しく、お情けで昇進した三役にもなかなか定着しなかった。
明治三十二年五月の大関昇進時も前三場所の成績が十四勝一敗十分二休に過ぎず、かなり作為的なものが感じられる。確かに負けは一度だけかもしれないが、引き分けが多すぎるのである。しかし別の見方をすれば、負けない相撲を身に付けてきたとも言える。
動作が緩慢な大砲は、俊敏な相手を苦手とし、横からの攻撃にもろかった反面、一度相手をつかまえてしまえば力負けすることはなかった。かの大横綱常陸山ですら大砲との対戦成績は二勝六分で、がっぷり四つに組んだら最後、常陸山の突進力を持ってしても全体重をかけて押さえ込もうとする大砲に土俵を割らせるのは至難の業だった。
体格で劣る常陸山はまだしも、太刀山と互角に立ち合っていた頃の駒ヶ嶽ですら四度の対戦はいずれも引き分けているように、腕力に秀でた大型力士の中にも、守りに入った大砲を力でねじ伏せることができる者はいなかった。
たとえ双差しになっても、大砲の怪力で閂を決められては、投げは打てず、前傾姿勢でのしかかられると足技も届かない。そのうえ大砲の上半身は骨太でごつごつしており、針金のように硬い胸毛が密生しているため、組んだまま動こうとすると頭を付けた相手の方がおでこが擦り切れそうなほど痛かったらしい。
これでは相撲が長くなればなるほど、並外れた持久力を誇る大砲の思う壺で、大砲に勝つためには褌を取られないうちに速攻で勝負を決めるほかはなかった。
大砲の閂と言えばこんなエピソードがある。明治四十年五月場所七日目、場所後に引退する大砲は小兵で素早い尼ヶ崎に懐に潜り込まれてたちまち双差しを許してしまったが、そのまま両腕を決めて吊り上げようとしたところ、尼ヶ崎が場内に響くような大声で「痛てえ、痛てえ」と叫び始めた。尼ヶ崎の腕が折れては大変と行司が割って入り、引き分けを宣告して事なきを得たが、我慢強いはずの力士が、あまりの痛さにたまらず土俵上で声をあげたというのは聞いたことがない。
大関になってからの大砲は受けて立つ相撲に徹するようになったことで、相手の動きに惑わされず、落ち着いた相撲を取ることが出来るようになった。往年の武蔵潟は、巨人特有の下半身のもろさが仇となって大関にはなれなかったが、大砲は下半身も安定しており懐が深かったので、素早い相手には強烈な突っ張りからの叩き込みや突き落とし、組んでは怪力で引き付けての割り出しという勝利のパターンを確立させ、一気に綱まで駆け上ることが出来たのである。
全盛期は明治三十三年五月場所から三十六年一月場所までの三年間で、この間の成績は四十勝四敗七分一預一休と素晴らしい。大関を無敗で通過し、三十四年五月に横綱に昇進した時には、周囲から郷里出身の大横綱谷風の四股名襲名を勧められたが、思慮深い大砲は「どうして私ごとき者に谷風の勇名が継げましょうか」とこれを固辞した。
優勝経験がないまま横綱に昇進した力士を周囲がここまで持ち上げたのは、三役定着後は取りこぼしが減り、横綱昇進までに土付かずの場所が六度、十連勝以上が三度もあるからだろう。
もっとも、預かりや引き分けが認められているため、攻め手を欠いた時は引き分けに持ち込むのが得意な大砲には有利だったことは確かだが、三十一年一月場所から三十二年一月場所まで二十一番連続土付かずの後、逆鉾戦の黒星を挟んで再び三十四年五月場所八日目に常陸山に敗れるまで三十一番連続土付かずという安定感には目を見張るものがある。
この成績で優勝できなかったのは、預かり、引き分け、休場などがからんでずらりと白星を連ねる場所がほとんどなかったことによるものだ。とはいえ、土付かずの場所が大砲よりも多い明治以降の力士となると、通算十六回の白鵬を筆頭に十五回の初代梅ヶ谷と常陸山、十回の太刀山、九回の栃木山だけで、大砲の通算八回というのは、小錦、二代梅ヶ谷、双葉山、大鵬に並ぶ不倒記録なのである(但し、白鵬、双葉山、大鵬は純粋な全勝記録)。
こう並べてみると、土付かず八回以上の力士はいずれも一流横綱であり、一般的に「二流」と評される大砲の力量は過小評価されているように思えてならない。
ちなみに大砲の全盛時代を知る好角家の多くは、滅多に負けない代わりに強敵との対戦では故意に引き分けに持ち込もうとするような不恰好な相撲が目立ち、「強い」という印象はあまりなかった、としている。
明治三十五年五月には悲願の初優勝を遂げ、さらなる飛躍を期待されたが、三十六年一月場所後に日露開戦の気運が高まる中、陸軍の歩兵を志願し三場所を全休。復帰後はリューマチを悪化させたのが原因で低迷が続いた。
現役最後の場所となった四十年五月場所は、九日間の取り組み全てを引き分けるという珍記録を残しており、土俵生活の晩年は引き分け率の高さから「あれは横綱ではなく、分け綱だ」と揶揄される始末だった。
それでも横綱になってから連敗は一度もなく、最晩年の二年間でさえ半分の場所は皆勤している。体力が衰えてからの横綱は、格下にころころ負けるような無惨な姿はさらしたくないから、調子が上がらければ怪我や体調不良を理由にさっさと休場してしまいがちである。しかし大砲はボロボロになりながらも土俵に上がり続けた。
歴代横綱中、昇進後に連敗経験がなく、最後の二年間のうち半分の場所に皆勤したのは大砲と太刀山だけである(急病死、実質的な引退勧告を除く)。
引退場所が九勝一敗と十分余力を残して土俵を去った太刀山の場合はともかく、力の衰えた横綱を倒して金星を得んと意気込んでくる飢えた狼のような若手力士たちを相手に、勝てないまでも負けないというのは大変な労苦であろう。
大砲があえて勝ちにこだわらなかったのは「横綱というのは決して負けるものではない」という初代梅ヶ谷の言葉に忠実だったことによるもので、力の落ちた晩年でさえ腰を引いて守りを固めた大砲を攻め落とすのは並大抵のことではなかった。現役最後の場所の横綱対決でも、当時全盛の常陸山ががっぷり四つから動くことができず時間切れで引き分けているほどだ。
横綱として優勝が一回しかない大砲は、梅ヶ谷(二代)と常陸山による梅常陸時代の脇役のように見られているが、常陸山には一度も勝てなかったとはいえ、明治から昭和にかけての名勝負をリアルタイムで見てきた評論家の栗島狭衣は、明治三十三年五月場所と三十六年一月場所の大砲対常陸山戦(ともに引き分け)を「正攻法の真髄」と激賞している。
ケレン味のない両者の対戦は慎重すぎて素人眼には冗長に見えたかもしれないが、玄人からすると死力を尽くした駆け引きに妙味があったということだろう。
特に三十六年一月場所千秋楽結びの一番は、ここまで一敗の大砲が勝てば常陸山の初の全勝優勝を阻止するだけでなく、番付上位の大砲が逆転優勝で二連覇となる大事な一戦だった。
両者鬼気迫る張り差しから右四つに組むや、常陸山が強引に吊り上げる。これを土俵際でしぶとくこらえた大砲が寄り返せば、左に組み替えた常陸山が得意の下手投げで巨体を揺るがすが、大砲の腰は重い。その後も揉み合いが続くが、両者万策尽き果てて、水入りのあとは互いに守りを固めて引き分けとなった。
大砲と言うと、動きがスローモーで長丁場の勝負が多かったことから、性格的にも愚鈍と思われていたが、実際は話し上手で頭脳も明晰だった。引退後、年寄待乳山を襲名すると、相撲協会の検査役のかたわら、巡業の売り込みや巡業先の先乗り(地元との打ち合わせ・準備)を仰せつかっていたが、交際上手で何事も抜かりがないことから興行先や協会からも絶大な信頼を得ていた。
国技館の竣工にあたっても、資金繰りは待乳山の粘り強く少々強引なまでの交渉術によるところが大きかった。さすが現役時代負けない相撲に徹していただけあって、協会に不利益をもたらすような妥協とは無縁だった。
スピード相撲で売った同門の名大関荒岩が、角界屈指の頭脳派力士だった現役時代の面影はどこへやらというほど、協会役員としては無能さをさらけ出してしまったのとは好対照である。
ついでに言うと、この大砲、外交術に長け情愛豊かなところから、意外にも女性にはモテた。ところがこちらの方はややヌケていて、愛人のために三越で長襦袢を注文して送ったところ、顔が利くのでツケにしていたのが仇となった。自宅に届いた請求書から妻に浮気が発覚し、散々絞り上げられたそうである。
明治四十五年、巡業先の宴席で待乳山と君ヶ濱の親方同士の取っ組み合いという椿事が起こった時も、原因は女がらみだった。待乳山が君ヶ濱がご執心の芸者に秋波を送っていちゃついていたため、嫉妬に狂った君ヶ濱がいきなり飛びかかり、爪で顔面を引っ掻いたのだ。幸い、周囲の親方衆が双方を引き離したため大乱闘にまでは発展しなかったが、面の皮をざっくりと抉られた待乳山は大きな絆創膏を張って見るも痛々しい形相だったという。
当時は力士同士の喧嘩など珍しくも何ともなかったとはいえ、躾役の親方がこれでは、今日なら引責辞職ものだろう。そもそも現役時代は十両が最高位の君ヶ濱が協会重鎮の元横綱に殴りかかるということ自体が常識では考えられない。
しかし、失礼ながら大砲がそのヌーボーとした顔で言葉巧みに女性を口説くところを見せつけられると、やるせないという気持ちよりも許せないという気持ちになるのもわかるような気がする。
大砲の名誉のために付け加えると、別に女性に限らず、情は厚かったようで、取り的時代から世話になったタニマチから宴席に招待されたときは「世間へ出れば横綱でも、ここの家では俺は横綱ではない」と言って風呂で主人の背中を流すのが常だったという。
普段は付き人数名がかりで身体を洗わせている現役の横綱が一般人の背中を流すというのは珍しい。裏を返せば、そのやさしさゆえに闘争心に火が点かず大成を阻んだともいえる。
明治二十九年に師匠の二代尾車が客死した時は、骨壷を首から提げて各地を巡業し、毎日読経していたそうだ。
大砲は自身の四股名からも伺えるように、現在で言うところのミリタリーオタクだったようで、弟子にも水雷清二郎、軍艦保、砲台五郎吉、小大砲繁二といった兵器にちなんだ四股名をつけている。
当時は日本中が日露戦争の勝利に酔いしれていたこともあって、勇壮な四股名が流行ったが、揃いも揃って名前負けし、ほとんどが幕下にすら上がれないまま力士生活を終えている。つまり大砲だけが唯一の例外だったのだ。
晩年は長らく糖尿病を患っていたが、それとは無関係の肩の悪性腫瘍の摘出手術を受けた後、容態が急変し帰らぬ人となった。負けないことが身上の分け綱も、病の前には呆気なく土俵を割ってしまった。
大砲の大関戦績 14勝 0敗 5分 2預 15休
横綱戦績 34勝 7敗 29分 2預 45休(勝率90・2%)
大砲は負けにくさに関しては一流横綱であることがわかる。引き分けばかりではファンも納得がゆかないかもしれないが、下手に勝負に出たはいいが、ころころ転がされてばかりでは横綱としてはもっと恥さらしだろう。




