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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第40話 思考機械  笠置山 勝一(1911-1971)

現役の早大生にして関取なんて現在では考えられないし、今後もありえそうもない。高校時代に相撲で実績のある学生は、「プロになれば学歴など関係ない」というノリで、相撲部の強い大学を目指すか、そのまま高卒で角界入りが常識だからだ。しかしプロとアマでは全く世界が違う。アマのエリート上がりでプロで鳴かず飛ばずという例はあらゆるスポーツに通じるものだ。笠置山は天性の相撲の才能に努力だけでなく、知力も加えたことで、名力士として名を遺すことができたのだ。双葉山の連勝が止まったのは笠置山の作戦あってのものと考えるなら、彼は相撲の歴史を変えた力士と言えなくもない。

 初の大卒力士として話題を集めた笠置山こと仲村勘治は、明治四十四年一月七日奈良県大和郡山市に生まれた。子供の頃から人並み外れて身体が大きく、尋常小学校六年の時には奈良県の児童相撲大会で優勝している。この頃から将来は力士になりたいと思うようになったが、進学した郡山中学には正規の相撲部がなかったため、柔道部に籍を置き、個人で各種大会に出場していた。

 昭和三年、旧制中学四年の時、常陸山の叔父に当たる内藤高治と剣道家島谷八十八の推薦で出羽海部屋に入門することになった。すでに身長一七〇センチ、体重一〇〇キロを超えていた勘治少年は、そのまま前相撲に出ても通用しそうだったが、親方は相撲よりもまず学問を優先するよう言い含め、早稲田の中等部に編入させた。というのも、仲村勘治と言えば、小学校時代から地元では神童と謳われるほどの秀才だったからである。

 「これから力士も学問をしておかねば時代に適応出来ない」という信念のもと、出羽海は学校を卒業するまで職業力士としての土俵は踏ませない方針で勘治少年を指導した。幸い当の本人も学問好きであったため、中等部を抜群の成績で卒業すると、早稲田高等学院を経て早稲田大学政経学部に籍を置き、学生相撲で活躍した。

 当時、早大相撲部の指導に当たっていたのは出羽海部屋の現役力士能登ノ海だった。その能登ノ海、他の学生力士に対しては親切に指導するのに、笠置山だけにはことのほか厳しく、周囲から見てもまるで彼だけ目の仇にされているかのようだった。事実、部屋でも特別待遇である笠置山に対する妬みがあったからだ。

 心の中で能登ノ海に対する反感を募らせていたある日のこと、能登ノ海から「お前が相撲取りになる?笑わせるな。学生たちはいわば道楽でやっている相撲だ。それと同じようにやって相撲取りになろうなんて、俺はお前を見損なっていたよ」と叱責され、目が覚めた。それからは能登ノ海を兄にように慕って修行に励んだ。


 ところが昭和七年一月、出羽海系を中心に大量の力士が脱退する春秋園事件が起こり、能登ノ海も天龍一派と行動を共にすることになった。笠置山は泣いて兄弟子を引き止めたが、能登ノ海の決意が覆ることはなかった。

 笠置山は大学卒業を待たすして初土俵を踏んでいる。親方としては、卒業までは大学相撲と部屋稽古の二足のわらじを続けさせるつもりだったが、脱退者が多く本場所が開けるかどうかの瀬戸際だったため、やむなく笠置山の申し出を受け、一ヶ月遅れで開催することになった二月場所の土俵に立たせることにしたのだ。

 幕下付出で初土俵を踏んだ笠置山は一度も負け越すこともなく、昭和八年一月には十両に昇進した。現役の大学生でありながら関取というのは史上初の事だった。同年三月に早稲田を卒業してこれも史上初の学士関取となったが、その頃から脚気に苦しみ、十両二場所で幕下に陥落した。

 病を克服した昭和十年一月場所は初日から飛ばし、同門の大関武蔵山とともに連日大鉄傘を唸らせた。幕内優勝争いの真っ只中にいる武蔵山はともかく、十両力士の連勝がこれほど注目されたのは珍しい。終わってみれば十一戦全勝で見事十両優勝を飾った笠置山は翌場所の入幕を確実とし、両国の彗星として新聞で大々的に紹介されるほどの人気力士となった。

 優勝しても奢ることなく稽古に精進した笠置山は、新入幕の五月場所も初日から五連勝するなど期待に背かぬ活躍ぶりで七勝四敗の好成績を残している。

 十両優勝が決まった千秋楽、部屋に一本の電話があった。能登ノ海の叔母からだった。脱退力士がのこのこ会いに行くわけにはゆかず、能登ノ海は部屋でラジオを聴きながら涙を流しているという。

 居ても立ってもいられなくなった笠置山は、後援者からの祝宴の招待まで辞退し、タクシーに飛び乗って数年来逢っていない兄弟子のもとに駆けつけた。


 一七二センチ一〇五キロという中アンコ型の体型でやや腰が堅い難点はあったが、左差し右押っ付けから左に寄る呼吸は抜群で、土俵を弧を描くように回りこむ理詰めの攻め口には定評があった。

 非力ゆえに右を差されると苦戦を強いられたのは正攻法の押し相撲にこだわりがあったからであり、後年によく用いた二枚蹴り、二丁投げの切れ味は抜群で、油断のならない力士だった。

 笠置山の代名詞となる二枚蹴りは、上位力士対策として鍛錬したもので、初披露は横綱羽黒山との初顔合わせだった。左四つ右前褌を取って一気に土俵際まで羽黒山を押し込んだ笠置山は、踏ん張る横綱の左足に右足で蹴りを加えると同時に腰を捻り、体が浮いたところを寄り切った。

 軸足を払われてしまえば、幕内随一の剛力を誇る羽黒山といえども、褌を引きつけるどころか突き落としさえ使えない。まさに頭脳の勝利と言っていいだろう。

 

 入幕三場所で関脇に昇進したものの、横綱・大関との対戦が義務付けられるこの地位では、さすがの業師も勝ち越すのがやっとという有様で、しばらくは幕内上位を行ったり来たりを繰り返していた。

 頭が切れるので、出羽海部屋の作戦参謀として打倒双葉山に精力を傾けていたことはよく知られるところである。安芸ノ海に双葉山の唯一の弱点である右足を狙わせ連勝をストップさせたのも、笠置山の研究の成果といえよう。その一方で自身は本場所では双葉山に一度も勝つことが出来なかった。

 唯一、昭和十五年十一月の九州場所で双葉山を寄り切った時は、準本場所にもかかわらず大変な評判となり、翌月発行の『野球界』の表紙を飾ったほどだ。これが大きな自信となった笠置山は十六年一月場所も好調を維持し、過去最高の十勝五敗という成績で、久々の三役返り咲きを果たしている。

 初めて双葉山に勝った時の喜びは想像を絶するものがあったようで、場所前から「本場所で双葉関に勝てたら引退してもいい」と公言したほどだったが、その夢は叶わなかった。

 土俵に上がれば宿敵でも双葉山とは親友の間柄で、双葉山からは「勘ちゃん(笠置山の本名)は考えすぎるから勝てないんだよ」とたしなめられていた。

 それでも角界随一の理論派で日頃から相撲研究に熱心だった笠置山は、その知識と分析力を買われて各誌に場所後の講評を執筆する一方、昭和十四年の『野球界増刊相撲号』の別冊付録として百頁以上に及ぶ四十八手の解説書を著している。引退後に評論家として活躍した元力士は少なくないが、笠置山は現役時代からすでに「相撲博士」としてその慧眼には一目置かれていた。

 さらに驚くべきことに、『新青年』昭和十五年六月号に掲載された小説『師弟』は、文豪菊池寛から「これまでに読んだ相撲小説の中で最高の出来」と激賞され、並々ならぬ文才の持ち主でもあることを世に知らしめた。「大関が先か直木賞が先か」と噂されたのも至極当然のことであった。

 十七年五月場所の張出関脇を最後に、土俵の方は次第に下降線を辿っていったが、十八年五月場所、大関前田山を鮮やかな二枚蹴りで仕留めた一戦といい、十九年一月場所、横綱羽黒山を蹴手繰りで崩して一気に寄り切った一戦といい、大物相手ほど相撲の巧さを発揮した。

 特筆すべきは、晩年の双葉山が苦手とし二勝三敗と負け越している照国に三勝二敗と勝ち越していることであろう。重心が低く、叩いては勝ち目がないと言われた照国に対し、あえてタブーの引き技で挑み、見事突き落としで破った初顔の一戦以来、笠置山はまるで照国の動きを見切っているかのように翻弄した。

 引き技で勝った後は、寄り切り、下手捻りと手を変え品を変え、照国を疑心暗鬼に陥らせたあたり、優れた技術に戦略まで加味したIT相撲と言えるかもしれない。

 この知将に私淑したのが、異能力士として活躍した那智の花である。

 三段目優勝直後に応召され、負傷して除隊した那智の花はすでに腰を痛め、得意の力相撲が取れなくなっていた。そこで笠置山は土俵上では滅多に見られない珍手や奇手をマンツーマンで教え込んだ。

 結果、大股(小股掬いの亜流)や三所攻めといった珍しい技を会得した那智の花は、昭和三十三年一月場所に三十八歳で引退するまで長い相撲人生を送ることが出来た(幕内は二場所のみ)。  


 昭和二十年十一月場所をもって盟友双葉山とともに土俵を去った後は、年寄秀の山を襲名し、時津風理事長(元双葉山)時代にはその懐刀として協会運営に手腕を発揮した。テレビ時代に入ってからは、これも親友だった玉ノ海が辛口ながらユーモラスな解説で人気を博したのに対し、秀の山はNET大相撲ダイジェストの解説者として取り口の専門的な分析が話題を集めた。


笠置山は横綱照国を翻弄したが、照国の知恵袋が”相撲の神様”幡瀬川だったことも意識したうえでの作戦を練っていたのだろうか。もしそうなら、まるで将棋の名人戦のようなIQバチバチの面白さもあっただろう。

あるいは引退後の笠置山がウィルスバスターのように照国の些細な欠点を完全にチェックし、矯正してくれていたとしたら、もともと欠点が少ない照国のこと、羽黒山を越える横綱になれた可能性も高いと思う。

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