第4話 未完の巨神兵 不動岩 三男(1924-1964)
現在の本場所の土俵の房の高さは、不動岩の身長に合わせたものと言われている。相撲は神事でもあるので、力士の髷が当たるのはまずいということなのだろうが、土俵の四本柱が取り除かれて現在の吊り下げ式になってから一度も高さの変更がないのは、不動岩を超える身長の力士が現れていないことを意味する。当時の関係者は、なぜ歴代一位というわけでもない不動岩より背が高い力士が今後現れないという確信が持てたのだろうか。
新高山一郎と不動岩三男。
ともに褌担ぎの下っ端力士にもかかわらず、この二人が三番稽古を始めると、まるで横綱同士の時のように周囲の注目を浴びたという。それも、ピリピリとした緊張感がみなぎる横綱・大関クラスの稽古とは違って、あちこちから野次が飛ぶなど賑やかなことこの上なかったらしい。
なぜなら、彼らはともに二メートルを越える巨人力士だったからだ。
これだけの大男同士の取り組みとなると、土俵が小さく見えなかなか迫力があった。兄弟子たちが面白がって幾度となくやらせたこの勝負、当初は痩身の不動岩より筋肉質で骨太の新高山に分があったが、不動岩の背がさらに伸び、体重が増えてゆくにつれて立場は逆転した。昭和十六、七年のことである。
昭和の初期には二〇四センチの出羽ヶ嶽と一九四センチの男女ノ川の巨人対決が大きな話題を呼んだが、二メートル越えの力士同士が取り組む姿など、力士の体格が大幅に向上した今日でさえお目にかかることが出来ない。近年で最も長身の幕内力士同士の取り組みは、二〇二センチの琴欧州と一九八センチの把瑠都、日本人同士となると一九九センチの双羽黒と一九三センチの大徹の例があるだけだ(双羽黒の身長は公称であり、実際は二メートルを超えていたそうだ)。
新高山は卓詒約という純粋な台湾人で不動岩より四つ年上だった。後に羅生門綱五郎と改名するが、巨人特有の鈍重さが災いして幕下までしか上がれず、戦後は力道山の誘いでプロレスラーに転向した。日本語が流暢で知名度も高かったことから、黒澤映画をはじめとする数多くの映画にも出演している。おかげで昭和三十二年に台湾でプロレス興行が行われた時は、台北市長から会食に招かれるなど大歓迎を受け、故郷に錦を飾った。
新高山は花籠部屋、不動岩は粂川部屋と所属は違っていても合同練習する機会が多く、双方にとっても体格的にもちょうど良い練習相手だったこともあって非常に仲が良かった。
新高山も入門時は稀に見る大男としてかなりの注目を集めたが、不動岩は新弟子時代に「出羽ヶ嶽を見下ろす野田少年」として大々的に紹介された後も、入幕するまでその順調な出世ぶりが逐一報道されるほど期待されていた。幕下以前からこれほど注目されたのは、少し遅れて入門してきた杉村こと後の横綱千代の山くらいであろう。
ちなみに千代の山は、当初双葉山の弟子になることを希望していたが、「双葉山に勝つ力士になれ」と諭されて、出羽海部屋に入門したといういきさつがある。もし、千代の山が双葉山道場に入っていれば、不動岩、大内山も含めた角界の長身関取トップ3が同部屋に勢揃いし、千代の山の横綱土俵入りもさぞかし壮観だったことだろう。
不動岩こと野田三男は熊本県熊本市藪の内町の出身である。父の仕事の関係で満州の新京に転居していた昭和十四年の夏、知人の紹介で朝鮮巡業に訪れた元大関鏡岩の粂川親方に紹介された。この当時十六歳で一九八センチ一〇〇キロ、しかもまだ伸び盛りとあって親方も大喜びで、そのまま巡業に加わらせた。巡業を終えた一行が東京に帰ってきた十二月の下旬には、すでに二メートルに達していたという。
新京商業では柔道、バレーボール、野球などで活躍する万能選手だった。一塁手を務めた野球では守備範囲が広い名一塁手として鳴らしていたという。巨人型力士というと、おおむね足腰に弱点を抱えているのが相場のところ、球技の下地がある不動岩は下半身がしっかりしていたぶん、他とは一線を画していた。思えばジャイアント馬場も、元プロ野球選手という下地があったからこそ、二メートルを越える巨人でありながら、足腰のバネが強く、当時プロレス界で最も権威のあったNWA世界ヘビー級チャンピオンにまでなれたのだ。
昭和十六年十一月、現役の横綱双葉山が福岡県太宰府市に双葉山道場を開くと、親友だった粂川親方は自ら体調がすぐれないこともあって、惜しみなく秘蔵っ子の弟子たちを双葉山に託し、自身は部屋付きの親方となった。この時、双葉山道場に移籍した力士の中には不動岩の他に後の横綱鏡里もいた。
素質はあってもまだ線の細かった不動岩は、日本一の大力士から連日稽古をつけてもらえるようになったことでさらに逞しくなった。
昭和十九年一月場所に幕下優勝を果たして十両に昇進すると、これをわずか一場所で通過して、同年秋場所には二十歳の若さで入幕。記念すべき新入幕の場所では、双葉山の太刀持ちに抜擢されている。
双葉山道場の力士の中で最も有望株だった鏡里が不動岩との稽古中に足首を痛めたのが原因で幕下で足踏みを続ける中、入幕から二場所連続で勝ち越した不動岩は、二十年十一月場所には早くも小結に昇進する。
上位と総当りするこの場所、五日目の横綱照国との水入りの大相撲は惜しくも敗れたものの、一敗の横綱安芸の海を得意の上手投げで下して優勝争いから脱落させた六日目の一番は圧巻だった。十日目千秋楽は前場所の覇者備州山(関脇)を寄り倒して五勝五敗。翌場所の関脇昇進を引き寄せた。
昭和二十一年は十一月の秋場所しか開催されなかった。前場所で双葉山が引退しているため、西関脇の不動岩が双葉山道場改め時津風部屋所属の力士としては番付最上位に名を連ねることになった。
前半は好調だったが、後半に六連敗したのが響いて(五勝八敗)と負け越したものの、千秋楽では、新入幕で史上二人目の全勝(当時は決定戦が行われていなかったため優勝同点)という快挙を成し遂げ、この二場所目も十勝二敗と快進撃を続ける角界最大のホープ千代の山を右四つに食い止めて寄り切り、先輩の貫禄を見せている。
この両者は千代の山が関脇、不動岩が前頭筆頭と立場が入れ替わった二十三年五月場所にも激突しているが、またしても不動岩が寄り切っている。同場所は、優勝した大関東富士と優勝次点の横綱照国を相次いで下して終盤まで優勝争いを演じた力道山(殊勲賞)を下手投げで一蹴するなど、三役を陥落した後もツボに入った時の強さは往年の巨人横綱男女ノ川を彷彿とさせるものがあった。
事実、一時期は「巨人横綱誕生か」と期待されたものだが、突っ張りがなく脇が甘いのが難点で、右上手が取れない時は攻め手を欠き、小兵の業師に苦戦を強いられることが多かった。師匠の時津風が引退からしばらくの間は自ら褌をつけて稽古をつける一方で、相撲の巧さでは定評のある神風に頼んで弟弟子の大内山ともども鍛えてもらったが、スピードのある力士から容易に懐に飛び込まれる欠点は克服出来なかった。
その点、幕内では不動岩に次ぐ二〇三センチの長身力士大内山は、強烈な突っ張りと脇の固さがあったぶん、あらゆるタイプの力士にも対応でき、大関にまで出世した。大内山にも稽古をつけた神風によると、欠点がなく底知れぬ強さだったそうで、右膝の怪我さえなければ横綱間違いなしの器だった。
同部屋のためこの両巨人が本割りで対戦するのが見られなかったのは相撲ファンにとってはさぞかし残念だったことだろう。離れて取れば大内山に分があるが、右四つに組んだ力相撲となると不動岩の怪力がモノをいったかもしれない。不動岩は幕下時代から大型の力士(といっても彼以上の長身はいなかったが)には滅法強く、十両時代には吊りの強さに定評があった長身の駿河海を相手得意のがっぷり四つから鯖折りで押しつぶしたこともある。
不動岩の怪力ぶりを語るうえで欠かせないエピソードが、二十一年四月の準本場所で起こった「不浄負け」の珍事である。
当時前頭四枚目の五ツ海は、一七七センチ八十八キロという軽量ながら後に技能賞を獲得して三役も務めたほどの技巧派で、あの神風が舌を巻くほど動きが素早い変幻自在の力士だった(両者の対戦成績は四勝四敗の五分)。
不動岩の長い腕がグイと褌をつかんで引き付けると、大蛇に絡みつかれた小動物のように、五ツ海がどうあがこうともはやどうにもならない。そのうち五ツ海の褌がほどけてしまったのだ。褌がほどけて見物客の目前で一物を露出してしまうことから「不浄負け」と呼ばれるこの珍奇な決まり手は、明治以降の本場所幕内の取り組みではこれ一度きりである。
全盛時に二一四センチに達した身長は、明治初期の巨豪武蔵潟伊之助(関脇)の推定二一〇センチを凌ぐ明治以降の最長身である。まだ土俵が四本柱の頃は、出羽ヶ嶽の登場以降、彼の髷が当たらないようにということで、幕の高さは二〇四センチに設定されていたが、二十七年九月場所から従来の柱を廃して釣り屋根に切り替えた際に、幕の四隅に下がる房の高さをすでに十両に陥落していた不動岩の身長に合わせたと言われている。その後、今日に至るまで不動岩を越える長身力士が現れないため、房の高さはそのままである。
二十六年五月場所に右膝の故障と腰痛で途中休場してからは急速に衰え、持病の坐骨神経痛の影響で下半身に粘りがなくなった。そのため出足が鈍くなったのを補うように、長い腕を生かして上手一本で相手を振り回す投げ技や、足を絡めて鯖折り気味に上からのしかかる外掛けを多用し始めた。
鯖折りを得意とする不動岩の外掛けは全体重を乗せて怪力で引きつけながら倒れこんでくるぶん危険度が高く、この技で敗れた出羽錦は右膝の靱帯を損傷し、その後の土俵人生は膝の不調を引き摺ったままだったという。
二十七年一月場所は五勝十敗と不振だったにもかかわらず、四番は外掛けで決めているように、出足の鈍さを突いた相手が懐に飛び込んでも、身体を寄せすぎると鯖折り気味の外掛けが待っており、動きが衰えたとはいえ、この大巨人は晩年の出羽ヶ嶽ほど簡単にあしらえる相手ではなかった。
性格は明るく温厚で付き合いも良く、力士仲間からは人気があったが、好きな酒を飲むときは寡黙だったという。酒豪ぶりでは弟弟子の大内山と並んで戦後の角界では最高峰という声も高い。
和歌山巡業中に雨天のため興行が中止になった時のこと。退屈をもてあました力士たちが、面白半分に不動岩が一升瓶を一気飲みできるか賭けをしたところ、不動岩はまるでコーラでも飲んでいるかのように息もつかずに飲み干してしまい、酒豪揃いの力士連中を唖然とさせたという。
元々内臓疾患を抱えていた不動岩は、三升の晩酌を欠かさなかった酒豪ぶりが災いして体調を崩し、力士生活の晩年には全盛時代一三八キロあった体重が一一八キロにまで落ち込んでいた。
二十九年一月場所後に引退した時は、まだ二十九歳の若さだった。元師匠の粂川の名跡を継いで協会に残り、検査役を務める傍ら、弁も立つので相撲雑誌の座談会にもしばしば登場していたが、三十六年末に廃業し、故郷熊本で地元の建設会社に勤務した。
突然角界を去ったのは、番付編成会議をすっぽかしたり、博打にはまり込んだりと自己管理能力に乏しいズボラな性格が元師匠の時津風理事長から疎まれたからで、馘首も同然の廃業だったらしい。
彼の訃報が知らされたのはそれからわずか二年半後のことだった(心臓疾患で入院中に死亡・享年39)。
巨人型の常というべきか、明治以降の2メートルを越える巨人関取はいずれも短命で、武蔵潟、出羽ヶ嶽、不動岩、大内山、双羽黒、曙のうち一人として還暦を祝うことはできなかった。
幾ら酒が強いからといって、ゾウやカバじゃあるまいし、一日三升も飲んでいれば近い将来肝機能が停止するくらいのことがわからなかったのだろうか。カバではなくバカだったのか?