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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第39話 土俵を舞う飛翔天  逆鉾 與治郎(1871-1939)

明治の土俵きっての業師である。三役どまりの力士でありながら、好敵手が名大関として名高い荒岩というのも凄い。我々の世代には「逆鉾」というと鶴ヶ嶺の息子(寺尾の兄)しか思い浮かばないが、この四股名を名乗った力士は他にもいて、その最高峰が”明治の逆鉾”である。

 逆鉾というのはちょっと変わった四股名だが、江戸時代以来十名以上の力士が継承した人気の四股名で、今日では井筒部屋の専売特許となっている。由来は鹿児島と宮崎の県境にある高千穂峰の山頂に突き刺さっている天逆鉾あまのさかほこである。

 天逆鉾には、高千穂峰に天孫降臨した瓊瓊杵尊ににぎのみことが国家平定に用いた後、二度と使われることのないようにとの願いを込めて鉾を山頂に突き立てたという説や、伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみの夫婦が天地開闢の時に鉾で地中をかき混ぜたという説など、様々な伝承が入り乱れており定説は存在しないが、日本三奇の一つとして知られる。

 新婚旅行で同地を訪れた坂本龍馬夫妻が山頂から鉾を抜いた話は有名だが、その後龍馬が仲介した薩長同盟によって幕藩体制が崩壊し、近代日本が夜明けを迎えたという事実も含めれば、一種の霊力を秘めた聖鉾と言えるかもしれない。

 明治以降、逆鉾を名乗った四力士がいずれも鹿児島出身であるのは、故郷の聖鉾の霊力にあやかりたいという気持ちの表れだったのではないだろうか。 

 ここに紹介する逆鉾(本名・利永與次郎)も鹿児島県日置郡金峰町の出身で、宮相撲で活躍していたところを巡業中の高砂一行にスカウトされて角界入りした。すでに二十一歳になっていたが、わずか三年で入幕を果たし、兄弟子でもある同郷の西ノ海(横綱)が井筒部屋を興して分家独立したのに従い、明治二十九年からは井筒部屋所属となった。


 明治期の大相撲の黄金期を築いた梅・常陸時代には、玉椿、海山、緑島といった技能派の脇役陣も粒が揃っており、毎場所土俵上では四十八手が飛び交うスリリングな相撲が展開されていた。その中でも横綱、大関クラスと互角に渡り合い、スピードとフットワークにかけては古今随一と言われた名人が逆鉾である。

 中でも目を見張ったのが引き足の速さで、攻めている方が下がる逆鉾に追いつけずに体勢を崩して逆転されることなどしょっちゅうだった。徳俵に足がかかってからも、そこから円を描くように回り込むのが実に素早く巧みで、「踵に目が付いている」と評されたほどだ。

 一六八センチ八十二キロの小兵にとってはスピードこそが生命線だったが、運動量が多いぶん消耗も激しいため、たとえ巡業中であってもどれほど頼まれようが、「身体が小さく力が弱いから、二番取ると負けるのだ」と言って、絶対に一番勝負にしか応じなかった。

 その代わりここ一番にかける気迫は誰にも負けず、勝敗は別にして、常に観客の前では磨きぬかれた熟技を披露した。


 関脇が最高位の力士でありながら、必ず好敵手として名が挙がるのは、六度もの優勝を飾りながら横綱になれなかった悲運の大関荒岩である。

 前述の玉椿、海山、緑島も上位陣を脅かす存在として観客の多くが番狂わせの期待に胸をときめかせたものだが、率直に言って、いい相撲さえ見られれば満足、というところもあった。

 ところが逆鉾は彼らとは違って勝つことが期待されていた。しかも、明治以降最強の大関との声も高い荒岩と毎場所のようにどちらが勝つかわからない息を呑むような熱戦を演じるだけの技量も備えていた。

 両者の対戦成績は、荒岩が八勝四敗一分で数字上は圧倒しているが、逆鉾が三役の常連だった明治三十四年までは荒岩の四勝三敗一分とかなり拮抗している。同時期までに荒岩がすでに五度の優勝を果たしていることを考えれば、全盛時の対戦はほとんど互角といっていいだろう。十両時代の初対戦で預かりとなって以来、二人の対戦は明治後期屈指の黄金カードとして長らく語り草になったほど、数々の名勝負を生んでいる。

 二人は若い頃から出世争いでも競い合っていた。入幕は逆鉾が一場所先んじたものの、明治二十九年夏場所に十両優勝した荒岩が新入幕から二場所連続優勝して追い上げ、三十一年春場所に小結、翌夏場所には関脇といずれも同時昇進を果たしている。

 逆鉾は優勝には一度も縁がなかったが、入幕三場所目はチャンスがあった。上位が低調のこの場所、優勝した荒岩の成績は六勝一敗二分だったのに対し、逆鉾は六勝三敗だったが、直接対決で荒岩に勝っていれば優勝は七勝二敗で逆鉾のものだった。


 両者の対戦で歴史的に名高いのが明治三十七年春場所四日目である。この時期は両雄ともにスランプに陥っていて、荒岩が前頭筆頭、逆鉾が二枚目という平幕対決だったが、相手が相手だけに最近の不振もどこへやら。横綱同士でも滅多に見られない見事な立ち合いから最後の一瞬まで全く目が離せない大相撲を披露した。

 荒岩に突っ張られて後退した逆鉾が素早く左を差すと、剛力の荒岩はすかさず差し手を絞り上げながら一気に寄って出た。俵に足がかかった逆鉾はそこで踏ん張り、荒岩が捻りを加えたのに乗じてうまく回り込み、再び両者は土俵中央に戻る。

 土俵を三周するほど動きの激しい攻防の末、体重と腕力に勝る荒岩が左筈押しから強烈な喉輪で逆鉾の上体をこじ上げるとそのまま土俵際までもってゆき、弓なりになって踏みこたえる逆鉾も最後には力尽きて腰から崩れ落ちた。

 精根尽き果てた逆鉾はこの場所途中休場し、翌場所も全休と坂道を転がり落ちていったが、この大勝負を制した荒岩は、翌場所小結に復帰した後、三十八年春場所に六度目の優勝を果たし、大関に推挙された。

 片やこの春場所以来、明暗分かれた格好になった逆鉾は、荒岩が大関になったことに触発されたか、前頭十枚目まで落ちたところから再起を果たし、上位総崩れという幸運もあって三十九年夏場所から関脇に返り咲いた。ところがそこから大関昇進後は休場続きの荒岩に付き合うかのように休場が増え、四十一年春場所、番付上は小結のまま引退に踏み切った。

 一歳年下の荒岩の引退はそれから一年後のことだった。

 

 逆鉾は一門、部屋を問わず、稽古熱心な若い力士たちをよく可愛がった。それもただ稽古をつけるのではなく、こういうときの攻め方、守り方、と事細かく指導した。弟弟子の浪ノ音(最高位関脇)は逆鉾よりもやや小柄であるにもかかわらず、兄弟子の熱心な指導のおかげで一流の業師となり、明治四十年春場所には生涯唯一の優勝を飾っている。

 その浪ノ音が生涯忘れられない取り組みとして挙げているのが、明治三十三年一月場所五日目の逆鉾対国見山の一戦である。

 前場所に十両優勝して幕内に上がったばかりの国見山は当時としては巨漢で、後に幕内優勝して大関にまで昇りつめる原動力となった突進力は、関脇の逆鉾といえども侮れないものがあった。

 果たして国見山は逆鉾に褌を取らせないよう一気に前に出た。たちまち徳俵まで追い詰められた逆鉾は国見山が腰を落として左右の突っ張りを繰り出してくるため、横にも回り込めず万事休したかに思われた。ところが国見山がとどめの一発を胸元めがけて突き出そうとした瞬間、国見山の肩に片手をかけるや跳び箱を跳ぶように頭上を越え、空中で反転しながら対面の徳俵に爪先で着地したのだ。

 突然目標を見失った国見山は勢い余って土俵から飛び出してゆき、一瞬何が起こったのかわからず呆然としていた。直後に軍配が逆鉾に上がると、観客は総立ちとなり、羽織や座布団が場内に舞う大混乱となった。

 これが逆鉾の名人伝説の一つ「八艘跳び」である。

 平成四年一月場所七日目、舞の海が立ち合いで八艘跳びを見せたことがあるが、この時は北勝鬨の肩を押さえて回り込むように跳んだもので、頭上を越えたわけではない。

 北勝鬨はかろうじて踏みとどまり、振り返りざま舞の海と組み合ったが、浮き足立っていたのだだろう、内無双の奇襲で呆気なく横転してしまった。

「技のデパート」の異名を取った舞の海も、本家の牛若丸ばりの跳躍力には遠く及ばなかった。


 ところがこの稀代の軽業師を空中で一回転させて土俵に叩きつけた荒業師がいた。

 明治三十四年夏場所初日に対戦した鬼竜山は入幕二場所目ながら、「魔手」と称されるほど足取りの巧い力士だった。低い体勢から逆鉾の懐に潜り込んだ鬼竜山が頭を胸につけて両膝を抱え込むように一気に後方に反り返ると、逆鉾は鬼竜山の頭上を飛び越えて土俵で横転した。

 プロレスのフロント・スープレックスに酷似したこの技こそ「居反り」である。

 逆鉾は足取りを警戒して重心を前に傾けたところ、軽量が災いして小兵の鬼竜山の頭の上に乗っかった形で投げ飛ばされたのだ。それも鬼竜山が弓なりに反ったため、この時ばかりは八艘飛びとはゆかなかったようだ。

 これは逆鉾の負け相撲だが、観客を仰天させた一番として名高い。

 逆鉾を奇手で仕留めるほどの業師ぶりを見せた鬼竜山だが、入幕が三十四歳と遅かったため、活躍期間が短く三役にもなれなかった。

 鬼竜山は愛弟子の鏡岩(大関)を自身とは逆の怪力で鳴る力士に育て上げたが、血は争えないというのか、鏡岩は横綱男女ノ川を師匠譲りの居反りで投げ飛ばしたことがある(昭和十二年一月場所)。横綱がこのような荒技で宙に舞うというのは非常に珍しい例である。

 逆鉾は変幻自在の手取り相撲だけでなく、左半身からの筈押しもなかなか強烈で、大型力士から褌を取られる前に一気に攻め落としてしまうことも少なくなかった。軽量でこれだけの突進力がああるのは、類希な跳躍力の源となっている脚力、特に足の指先の強さと発達した背筋力のおかげである。

 逆鉾の背筋力の強さは、趣味である弓道によって培われた。

 明治三十五年十月の宮崎巡業の最中、ちょうど同地の宮崎神社で神武天皇を奉斎する弓術大会納競技が開催されていた。境内には地元に古くから伝わる南蛮鉄の大兜を用意されており、これを射抜いた者は永久にその名を残すという謳い文句に釣られて百余名もの弓自慢が集結したが、誰一人としてこの兜を射抜くことが出来なかった。

 これを最後まで見物していた逆鉾が、「しからば俺が」とおもむろに一寸二分の強弓を取って矢を射ると、ものの見事に南蛮鉄を貫いた。

 大勢の見物人が感嘆の声を漏らす中、すかさず放った二の矢も一の矢の隣に並ぶように兜に突き刺さった。神社はこの偉業を称え、矢の刺さった兜は逆鉾與治郎の記名入りで本殿に奉納された。

 温厚な性格で酒宴でも淡々としていたことから、力士の間では下戸で通っていたらしいが、弓の練習をする時は冷酒を一升あおってからでも易々と的を射抜いてみせたというから、普段はあまり飲まなかっただけのようだ。

 力自慢の多い力士の中でも、一寸二分を引けるのは逆鉾の他には巨人横綱の男女ノ川しかいなかった。一寸二分というのは日本一の弓の達人、源為朝の強弓と同じで、弦を引くのに一一三キロの力を要する。一般人で六分(二〇キロ)程度だから、昭和十年代の角界きっての剛力を誇る男女ノ川でさえ引くのがやっとで、的にはなかなか当たらなかったそうだ。

 ちなみに荒岩も弓道ではちょっとした名手として通っていたが、八分(三八キロ)どまりだったという。

 逆鉾と荒岩は仕切りの美しさも古今随一と言われ、こちらの方でも好敵手だった。

 人気者で贔屓も多かった逆鉾の化粧廻しは、珊瑚を散りばめた豪華なものもあり、絢爛さにかけては横綱級だった。

 現役引退後は協会に残って検査役を務め、晩年は伊豆修善寺で旅館を営んでいた。


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