第38話 風流を愛した雷神 稲妻 雷五郎(1802-1877)
江戸時代の横綱だが、没年が明治十年で、晩年も著名であったことから、彼以前の講談的エピソードにつづられた横綱たちと比べると、信ぴょう性が高い記録も多く残されている。息子の金太郎の晩年のことまで語り継がれていることを考えると、地元はゆうに及ばず、遷都後の東京の角界でもかつての大横綱として一目置かれる存在だったに違いない。
江戸後期を代表する名横綱である。力士としての技量もさることながら、知性と教養に溢れた人格者でもあったことから、世人の尊敬を受けること後の梅ヶ谷、常陸山、双葉山に匹敵するものがあり、まさしく同時代の力士の鏡といっていいほどの存在であった。
江戸相撲の記録では、茨城県稲敷郡東村阿波崎出身の根本才助は、文政三年に江戸に出て佐渡ヶ嶽部屋に入門し、翌年巻ノ島の四股名で初土俵を踏んだ、となっているが、九歳で相撲部屋に引き取られ九州や大阪でも相撲を取っていたという説もある。若い頃の詳細は不明だが、入門後の出世の早さから察するに、それまでにも力士経験があったと考えるべきだろう。
入幕した文政七年に雲州松平家のお抱え力士になると、領国である出雲にかけて「雲から出るものは稲妻」ということから稲妻雷五郎という四股名を与えられた。
「稲妻」は彼以前にも雲州出身の稲妻咲右衛門という力士がいたが、この四股名は土俵生活の晩年に名乗ったもので、全盛時は大鳥居門右衛門といった。この大鳥居の実兄が史上最長身力士の釈迦ヶ嶽雲右衛門(大関)で、共に松平家のお抱えであった。
新入幕の場所に七勝〇敗一預でいきなり優勝すると、入幕から六場所中三場所で優勝という快進撃で、文政十一年に大関に昇進した。京都の五条家はこの時点で横綱を承認しているが、吉田司家から正式な免状が発行されたのは文政十三年になってからである。
文政八年十月場所から天保六年一月場所まで、足掛け十年に渡って同じ場所で二度以上の敗戦がないという安定感は、谷風、雷電には及ばないまでも、後年の梅ヶ谷(初代)、太刀山とほぼ同格といっていい。
一八八センチ一四三キロという体格は、同郷の後輩横綱稀勢ノ里よりややスリムだが、横綱昇進時の大鵬とほぼ同じで力士としては理想的な身体つきである。加えてかの雷電に引けを取らないほどの怪力とあっては並みの力士ではちょっと付け入る隙がない。連勝記録は三十三が最高だが、生涯の敗戦は十三回に過ぎず、ライバル横綱阿武松を除けば同じ相手に再度不覚を取ることはなかった。
六代横綱阿武松緑之助は、貧窮のどん底から這い上がり三十一年ぶりに誕生した待望久しき横綱ということで相当の人気を集めたが、「待った」が多く、勝利に執着しすぎるなど、横綱の品格という点ではいまひとつのところがあった。
文政十三年(一八三〇)三月の上覧相撲では、待ったをされた稲妻が集中力を切らしてしまい、阿武松の巻き落としに屈したが、将軍家斉は「なぜ稲妻の勝ちにならない?」と側用人にぼやいたという。というのも、寛政三年(一七九一)に上覧相撲で谷風と小野川が対戦した際、待ったをした小野川が行司の吉田追風から「気合負け」を宣せられ、谷風が勝ち名乗りを受けるという前例があったからだ。
横綱たるもの、相手が立てば受けて立つのが当然と考えられていた時代、待ったをかけるのは勝負に水を差す卑怯な振る舞いだったのだ。おかげでこの頃の江戸っ子たちの間では、何かの拍子に「ちょっと待った」と言われると、「阿武松じゃああるめえし」と切り返すのが流行ったというから、天下の横綱も面目丸つぶれだった。
それに比べると稲妻は、自らを厳しく律し、まるで哲学者のように相撲道を極めようという姿勢で土俵に臨んでいた。三十一歳の時に自ら書した『相撲訓』には、力士としての心構えがつづられており、すでにその頃から一種の悟りの境地にあったことが伺える。
一時代前の強豪、雷電と同じく雲州侯のお抱えだったことから、好角家は稲妻の強さを雷電になぞらえ、次のような川柳が流行したという。
雷電と稲妻 雲の抱えなり
稲妻は もう雷電に成る下地
地元常陸では神格化された存在で「稲妻が締めた綱の下がりを煎じて飲めば子供の熱が引く」と言われていた。これは、彼が相撲の鬼であるだけではなく、義理人情に厚い人間味のある男としても知られていたからだ。
文政十三年三月場所千秋楽の前日、稲妻は珍客の訪問を受けた。客は麹町三丁目の越後屋という米屋の主人で、直接贔屓になるほどの財力はないものの毎場所欠かさず回向院に通っているという熱心な稲妻ファンだった。何でも近所に住む阿武松贔屓の八百屋と相撲談義をしているうちに双方熱くなってしまい、八百屋が「阿武松が負けたら寺に入って坊主になり、一生相撲見物はしない」と言い出したのに対し、米屋もつい「稲妻が負けたら、店をそっくりくれてやる」と啖呵を切ってしまったらしい。
後で冷静になって考えてみると、店を手放してしまえば大変なことになる、と青くなったが、それ以上に我慢出来ないのは「稲妻は阿武松より弱い」と触れ回られることだった。それで「明日は是非、勝って下さい」と頼みに来たのだ。
事の次第を黙って聞いていた稲妻は、「勝負は時の運だが、貴方の頼みがあろうがなかろうが、土俵の上では一生懸命だ。どうかそのつもりで御見物下さい」と米屋を諭した。過去の対戦成績は稲妻の三勝五敗二引分で、目下二十一連勝中の稲妻といえども阿武松に勝てる保証はなかったのだ。
かくして勝った方が優勝という千秋楽の一戦、稲妻は見事阿武松を下して三連覇を達成した。やがて小躍りして喜ぶ米屋のもとに稲妻からの使者が訪れ、某一流料亭に案内された。
稲妻は人払いをして誰もいない一室に米屋を連れてゆくと、畳に両手をついてはらはらと涙を流しながらこうつぶやいた。
「私も大関、御贔屓の客も随分あるが、長年売り込んだ店を人手に渡すのは惜しくないが、ただ稲妻は阿武松より弱いと言われるのが口惜しいので是非勝ってくれ、と昨夜言われた御一言に稲妻は泣きました。私にとっては第一番の御贔屓。これは是非勝たねばならぬ、負けたら部屋に帰って腹を掻き切ってお前様にお詫びする心で居りました」
感激した米屋は稲妻と手を取り合って感涙にむせんだというが、この逸話など稲妻の義理人情に厚い性格をよく表わしている。その勇名を伝え聞いた仁孝天皇の拝謁に預かったのも、同年のことである。この時、下賜された四斗樽を両手に提げて後ずさりしながら階段を下りる稲妻の怪力ぶりには天皇も感心しきりだったらしい。
天保六年冬場所を最後に阿武松が土俵を去った頃から、さすがの稲妻にも年齢的な衰えが忍び寄ってきた。
苦手力士がいなかった彼にとっては珍しく、小兵の業師鰐石には手こずり、土俵生活の晩年とはいえ一敗三引き分けで一度も勝てなかった。しかもそのうちの一番は、閂をかけられた腕を痛めてそのまま痛み分けとなるなど、さすがの怪力自慢も鰐石にはあの手この手で掻き回された。
この鰐石こそ、天保の三傑の一人と称えられた後の名大関剣山谷右ェ門である。剣山は優勝八回を誇る強豪で、一時は横綱推挙の声もあがったが、剣山自身が小柄で見栄えが良くないことを気にして好敵手の秀ノ山を推薦したため、秀ノ山が横綱を襲名することになった。
秀ノ山も優勝七回と実績は十分だが、勝率も剣山より低いことから、綱を張っても剣山には常に敬意を払っていたという(秀ノ山も一七〇センチ程度で力士としては小柄だった)。
天保七年二月場所に初めて全休すると八年一月場所の優勝を最後に休みが増え、十年三月場所には土俵生活初となる三連敗を喫してしまう。
同年十一月場所をもってついに現役を引退するが、四十歳にして四勝〇敗三引分三休と一度も負けずに最後の場所を勤め上げたところなど、さすが雷電の後継者と目された大横綱ならではの潔い去り際だったといえよう。
稲妻の横綱在位十年は小野川の八年半を超える立派なもので、同郷の常陸山と二代目梅ヶ谷に塗り替えられるまでは、史上最長の在位記録であった。
優勝回数は十回だが、参勤交代で松平侯が江戸の藩屋敷から雲州に戻る際に同行し、三年ほどのブランクを作っているため、それがなければさらに優勝回数を伸ばしていたと考えられる。
引退後は雲州松平侯より扶持を与えられ、松江で相撲指南をしていたが、幕末には同地の相撲が衰退したため、明治維新後には東京に戻り、引き続き松平家から扶養を受けながら悠々自適の生活を送っていた。
風流人でもあった稲妻は書道や俳句をたしなみ、数多くの作品を残している。その腕前は玄人はだしで、晩年も各方面から揮毫を求められるなど相変わらずの人気ぶりだった。
生年には諸説があり、正確なところは現在でもわからないが、死亡時はそれまでの歴代横綱中最年長となる八十二歳とされていた(近年では七十五歳説が有力)。仮に八十二歳とすれば、現在でも栃ノ海、北の富士、若乃花に並ぶ高齢ということになる。
嫡男金太郎は北辰一刀流の千葉周作門下の剣客として知られる。十三歳で周作の甥にして道場主である千葉重太郎の養子となり(後に重太郎の娘を娶る)、千葉東一郎と名乗っていたが、父の死に際して根本姓に戻っている。
重太郎は坂本龍馬に剣術を指南したことで知られる一流の剣客だったが、後継者と見込まれた金太郎も「小天狗」の異名を取るほどの達人だったそうだから、武芸者としての才能は父譲りだったのだろう。
ちなみに松江で娶った後妻との間の娘も、十七、八歳の頃、松平侯お召しの前で両手に米一俵ずつを掲げて下駄履きで歩行してみせたほどの怪力だったという。
尚、雷五郎は渋谷区妙円寺に葬られ、山岡鉄舟が揮毫した巨大な墓誌が立っていたが、昭和二十年五月に戦災で焼け爛れてしまい、現在の根本家の墓は三十一年に再建されたものである。
新政府の重鎮の一人である山岡も若き日は千葉門下であったことから、揮毫は金太郎への香典代わりだったのかもしれない。また金太郎が江戸三大道場の一つである「千葉」の名を継承する名誉に預かりながら、それを返上して「根本金太郎」として生きることを決意したのは、偉大なる父に敬意を表してのことだったに違いない。
武士の時代が終ったのを機に、金太郎は京橋で牛乳屋を開き、大正十四年まで健在だった。
稲妻には婚外子を含めて十五人の子がいたと言われており、没後に石碑が建立された際に相当数の遺品が分配されたが、一族がしっかりと遺品管理をしていたおかげで震災や戦災を潜り抜け、相撲史を語るうえで重要な品々が保存されているのは幸いである。
未見ではあるが、本家には晩年の写真が飾られていたというから、写真で見ることのできる最古の横綱ということになる。
稲妻は明治期まで存命であり、実現はしなかったものの、今日の還暦土俵入りの先駆のような形式での土俵入りが予定されていたというから、引退してかなりの年月が経っても知名度は高かったようだ。
辞世の句は、 稲妻の 去り行く空や 秋の風
なかなか秀逸である。
戦前の相撲雑誌や相撲関係の書籍をひっくり返して見ても、稲妻の肖像写真はいまだに見つからない。明治
十年まで健在だったので、その知名度を考えると晩年の写真くらいは残っていそうなものだが、地元茨城に
でも足を運ばないかぎりお目にかかれないのだろうか。




