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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第37話 柏鵬を撃て! 栃ノ海 晃嘉(1938-2021)

 柏鵬華やかなりし昭和三十年代後半、彼らの独走を許すまじと、しばしばその首級を脅かす熱戦を繰り広げ、柏鵬時代に彩りを添えたのが「出羽三銃士」と呼ばれた栃ノ海、栃光、佐田の山の三力士である。

 この中の最年長は昭和八年生れの栃光で、栃ノ海にとっては春日野部屋の兄弟子に当たり、栃ノ海が入門した時はすでに幕内力士だった。昭和十三年生れの佐田の山は同系列の出羽海部屋だが、栃ノ海とは同学年ということで入門時から仲が良く、栃光からは同郷(長崎県)のよしみで可愛がられていた。

 三人とも力士としては線が細かった。一八二センチの佐田の山が一一〇キロ台、一七七センチの栃ノ海が一〇〇キロそこそこ、一七六センチの栃光で一二〇キロ台だから、いずれも現在では小兵あるいは軽量級である。この体格で大型力士の柏鵬に立ち向かうのは並大抵のことではない。

 実直な押し相撲の栃光は、入門から三年目の昭和三十年三月場所に十両で全勝優勝するなど、出世は速かったが、単調な相撲が災いしてか、入幕からしばらくは足踏みが続いた。

 速攻が身上の栃ノ海は、若き日の大鵬を圧倒する技のキレで順調に番付を上げ、大鵬に遅れること一場所、昭和三十五年春場所に入幕を果たしたが、小型軽量のため幕内では思うように星を伸ばせず、怪我の影響もあってわずか二場所で十両に陥落してしまった。

 興味深いのは、入門当初から一番素質があると見られていた佐田の山が入幕まで一番もたついたことであろう。気迫溢れる突っ張りを武器に、組んでも離れても相撲が取れる佐田の山はオールマイティー型だったが、体重がなかなか増えず、入幕したのは親友栃ノ海より一年も遅い。

 ところが、わずか三場所目の昭和三十六年夏場所に平幕優勝すると、同年秋場所には小結を飛び越えて関脇に昇進している。この時、同時に新関脇になったのが栃ノ海で、栃光も関脇に復帰したため、奇しくも仲良し三人組が東西の関脇の座を独占することになった。

 しかもこの場所は殊勲賞が佐田の山、技能賞が栃ノ海、敢闘賞が栃光と三賞までこの三人で総なめにしているのだから驚く。ついでに言うと、出羽の三関脇で迎えた名古屋場所も三人揃って八勝七敗で勝ち越しと足並みを揃えている。


 栃光、栃ノ海、佐田の山は三人三様の取り口だが、技量も拮抗していたため、違うタイプの力士に対する順応性を高めながら各自の長所を伸ばしてゆくことができたともいえる。普段は仲良しの三人も稽古場では常に真剣勝負で競い合っていた。栃ノ海は栃光には強かったが、佐田の山には分が悪く、佐田の山は栃光が苦手と、いわゆる三すくみだったのも励みになったのかもしれない。

 この中から最初に抜け出したのが佐田の山で、昭和三十七年夏場所の二度目の優勝を土産に先陣を切って大関に昇進した。入幕から所要八場所で大関というのは柏戸よりも速い。

 親友の大関昇進に刺激されたか、翌名古屋場所は栃ノ海、栃光、佐田の山の「出羽三銃士」が優勝を争うという出羽一門にとっては願ったり叶ったりの展開になった。しかも正念場の十二日目からこの三人が優勝争いの一角を占める大鵬を三タテし、賜杯レースから引き摺り下ろしたのだ。

 結果、十四勝一敗の栃ノ海が初優勝し、栃光、佐田の山がともに十三勝二敗で準優勝。先輩大関佐田の山を旗手に、栃ノ海、栃光の三銃士が同乗した優勝パレードは、出羽一門の黄金時代の再来を期待させる盛り上がりを見せた。

 場所後、栃ノ海、栃光の同時大関昇進が決定した。兄弟弟子が二人揃って使者を迎い入れるというのは非常に珍しく、大きな話題となった。

 昇進前の三場所の成績は優勝二回の佐田の山が三十勝十五敗と一番低く、栃ノ海は三十二勝十三敗、優勝経験のない栃光が三十四勝十一敗と一番高い。今日の規定からすれば、栃光以外は甘いと思われるかもしれないが、佐田の山は入幕以来、全休の一場所を除くと七場所中四場所で二桁勝利を挙げ、皆勤での負け越しはない。

 また栃ノ海も再入幕以来負け越しはなく、六場所連続で三役の地位を守っている。この二人に関しては優勝経験と安定感が加味されての昇進と言うことができるだろう。 


 出羽一門の三大関鼎立は大正期の栃木山、常ノ花、大ノ里、昭和二十五年の増位山、千代ノ山、汐ノ海、以来三度目のことである。ただし過去の二例と異なるのは、三人とも横綱を狙える力量を備えていたことである。

 大先輩の大ノ里や汐ノ海は昇進時にすでに三十歳を越えており、客観的に見ても大関までが精一杯だった。実際大関になってからは優勝争いに加わることもなかったのに対し、唯一綱に届かなかった栃光にしても、昇進の翌年には二度にわたって千秋楽まで優勝争いに絡んでいるように、まだ綱を期待できる力士だった。

 実際、大関昇進から一年間の成績は六十三勝三十一敗の栃光が最高で、同時期の佐田の山が五十六勝二十四敗十休、栃ノ海が五十五勝三十敗五休と続く。好不調の波があるとはいえ、好調時には柏鵬と優勝争いを演じる佐田の山はともかく、腰を痛めていた栃ノ海は二桁勝つのがやっとという状態で、初優勝から一年後には、体格的なハンデを考えれば綱は厳しいのでは、という悲観的な声をちらほら出始めた。

 しかし、世の中はわからない。最も期待が薄かった栃ノ海が一気にまくるのだから。

 気性が激しく負けず嫌いの栃ノ海は、出羽三銃士の中で三番手になると燃えるのだ。大関昇進を決定付けた三十七年夏場所も、場所前には栃光の大関取りにこそ注目が集まっていても、三役の常連とはいえ前二場所が一桁勝利の栃ノ海はノーマークだった。それ以上に新大関佐田の山の連覇に期待する声の方が大きかった。

 十一日目を終わった時点で一敗力士は、大鵬(横綱)、栃ノ海、二敗が北葉山(大関)、佐田の山、栃光と二所一門対出羽一門の対決構図になっていた。

 初日の若三杉に薄氷の逆転勝利(打棄り)、五日目には柏戸に一方的に押し出されるなど序盤は内容的に冴えない相撲が多かった栃ノ海が尻上がりに調子を上げ、十二日目に相撲では勝っていた大鵬を咄嗟の渡し込みで逆転して独走態勢に入った。


 師匠春日野(元栃木山)は、身体の小さな栃ノ海に対し「褌を取らない相撲を取れ」と教え込んできた。自分のように突っ張りとハズ押しで一気に勝負をつけるスタイルを身につけない限りはこの世界でやってゆくのは厳しいと考えたからだ。

 栃木山ほどの腕力に恵まれなかったため、十両に上がってからは体格差で圧倒され力負けすることが多かったが、先代の没後に引退した栃錦が春日野を継いでからは、栃錦直伝の技が加わり、大型力士も苦にしなくなった。

 相手の懐に飛び込みざま、両手で前褌を掴むとそこから両肘がつくほど腕を返しながら一気に寄って出れば柏鵬といえどもひとたまりもなかった。問題はこの磐石の型に持ち込めない時で、立ち合い負けして後手に回ると軽量ゆえの脆さを見せた。

 再入幕してから大関に昇進するまで一度も負け越していないにもかかわらず、大勝ちすることがなかったのは、特に下位力士に対する雑な取り口が目立っていたからだ。身体は柔軟でも腰が軽いのが致命的で、四つになると苦しかったが、栃錦譲りの投げ技、捻り技を会得したことで、三役の壁を破って大関に昇進することができた。

 初優勝の場所の決まり手は、上手出し投げが五番と最も多く、相手から攻められても回り込みながら捻るタイミングの良さは栃錦以上と言われた。その他、蹴返し、外掛けが二番ずつ、切り返しが一番と足技も冴え、褌を許して受身になっても、相手の出足に合わせるように繰り出す捨て身の技が幾度も窮地を救った。

 それまでの栃ノ海は、苦し紛れの投げ技や足技しか使えず、かえって相手を呼び込んで自滅することも少なくなかったが、余裕を持って狙い済ましたように技が出せるようになったことで相撲の幅が広がった。神風によると、巧さだけ見れば幡瀬川や栃錦をもしのぐ昭和では最高の技巧派力士ということだ。

 栃ノ海がここまで進化できたのは、自分と同じく小型軽量でありながら綱を張った栃木山、栃錦から両者の奥義を直伝されたことと、良き仲間に恵まれたことに尽きる。

 出羽一門の稽古で最後に土俵に上がるのは、栃光、栃ノ海、佐田の山の仲良しトリオだが、三人がへばるまでぶつかり稽古をした後で、先輩の大晃、出羽錦が胸を貸して仕上げをしていた。当時相撲解説をしていた東富士が「出羽の稽古は質、量ともに角界随一」と絶賛するほどの激しさだった。

 また、三賞十回、通算獲得金星十個のベテラン出羽錦が、かつての笠置山のような出羽の作戦参謀として毎場所、対柏鵬戦のアドバイスを送ってくれたことも若い三人にとっては良い勉強となったようだ。

 栃ノ海こそ現役最高の技巧派であることを自ら証明して見せたのが、昭和三十七年一月場所十日目の横綱若乃花戦だった。蹴繰り、巻き落とし、突き落としの連続技で振り回した挙句に、とどめの蹴繰りで強靭な粘り腰を持つ若乃花を土俵中央にひっくり返した一番は、負けた若乃花が引退を決意するきっかけとなったことで知られる。


 昭和三十八年九州場所、最大の注目株は前場所千秋楽に栃若以来の横綱全勝対決を制し、涙の全勝優勝を遂げた柏戸だった。二場所全休明けからの復活劇ということで、強すぎて面白くない大鵬よりも柏戸に同情が集まり、初の連続優勝に大きな期待が寄せられていた。

 二番手の豊山は元の双葉山の時津風理事長イチオシの時津風部屋最大のホープである。秋場所十三勝二敗の好成績を残しているだけに、十四勝以上で優勝すれば綱取りも夢ではない。

 前場所同様、優勝争いは大鵬、柏戸、豊山の三つ巴と見られており、栃ノ海は三番手以下の扱いに過ぎなかったが、蓋を開けてみれば初日に柏戸、二日目には豊山、三日目には大鵬と本命が立て続けに序盤に黒星を喫する波乱の展開で、六日目にして全勝は栃ノ海ただ一人になった。

 久々に好調の栃ノ海は十一日目に北葉山に連勝をストップされたものの、終盤の直接対決で柏鵬を連覇する磐石の相撲で十四日目に優勝を決めた。

 初の綱取りがかかった昭和三十九年初場所は、十四日目に大鵬に敗れて十三勝二敗に終わり、横綱推挙は微妙となった。これで優勝した大鵬が十四勝一敗であれば、二場所の成績が優勝、準優勝でまずは問題のないところだったが、大鵬は全勝優勝で、準優勝は十四勝一敗の平幕清国だったため、十三勝でも準優勝に該当せず、そのうち琴桜戦が不戦勝であるというのもマイナス要素となった。もっとも最大の懸念材料は、小型軽量の業師に果たして横綱が務まるか、ということだった。

 それでも栃ノ海の横綱昇進が決定したのは、五大関が乱立して後が詰まっているうえ、柏戸が休場がちという角界の事情が追い風になったからだ。時に栃ノ海二十五歳。若い横綱の誕生だった。


 昭和三十九年大阪場所は初日から二日連続黒星という苦い横綱デビューとなった。土俵の主役は相変わらず柏鵬で、二度目の千秋楽全勝対決で大いに大阪を盛り上げた(優勝は大鵬)。

 横綱になっても「第三の男」に甘んじることになった栃ノ海は、柏戸が途中休場した夏場所、大鵬を破って三度目の優勝を飾り、男の意地を見せたが、持病の椎間板ヘルニアを悪化させ、以後の十五場所中、休場が八場所というふがいない成績に終わった。せめてもの救いは親友佐田の山がスランプから抜け出し、昭和四十年初場所に横綱昇進を果たしたことであろう。

 この場所は奇しくも部屋別総当り制が始まった場所で、これまで本場所では戦うことがなかった出羽一門が出羽海部屋、春日野部屋に別れて相まみえることになった。結果は稽古場と同じく栃光が佐田の山に勝ち、佐田の山が栃ノ海に勝ったが、前場所準優勝の佐田の山は綱取りがかかった場所だっただけに、栃光も栃ノ海もさぞかし取りにくかったことだろう。

 その代わり、春日野部屋の二人は大鵬を倒して優勝争いから引き摺り下ろし、佐田の山綱取りのアシストを果たしている。かつて佐田の山が初優勝した時も、優勝を競っていた大関北葉山を栃ノ海が、横綱大鵬を栃光がそれぞれ下しているから、佐田の山にとっては二度目の友情アシストということになる。

 佐田の山は優勝回数だけ見れば柏戸(五回)を超える六回を記録し、十分横綱の重責は果たしたと言えるのだが、そのわりに地味な存在に甘んじたのは、対柏鵬戦の相性の悪さによる。特に大鵬には通算五勝二十七敗(不戦勝・不戦敗各1)とまるで歯が立たなかった。これでは大鵬に十六勝二十敗とほぼ互角の成績を残し、毎場所のように熱戦を展開した柏戸より評価が低いのはやむをえない。(佐田の山は柏戸に対しても十勝十七敗とかなり分が悪かった)

 栃ノ海も大鵬に六勝十七敗、柏戸に六勝十敗と苦戦を強いられてはいるものの、数字ほども実力差があるような印象は持たれなかった。というのも、柏戸に分が悪かったのは三役時代までで、大関昇進以降は五分の星を残している一方、大鵬は幕下から十両にかけて六連勝とカモにしていた時代もあったからだ。

 未曾有のスピード出世により幕下時代から並みの関取以上に注目を浴びていた大鵬の一番の苦手が栃ノ海だった。この頃より上背、体重ともにはるかに勝っていた大鵬がいいようにあしあしらわれていたことは好角家にはよく知られるところであり、大鵬が同一相手にこれほど不覚を取り続けた経験は後にも先にもこれきりだった。

 取り口が研究され尽くしたのか、六連勝の後は八連敗と逆にカモられていたが、横綱同士の対戦成績となると、綱の自信と責任感の成せる業なのか、三勝五敗と健闘しており、柏鵬時代の脇役と見なされがちだった佐田の山に比べると、むしろ好敵手に近いという印象が残る。

 軽量でありながら正攻法で柏鵬に勝てるのは栃ノ海だけだった。


 凋落が早かったのは、右腕上膊部の筋肉断裂という致命的な怪我をしたからで、右がほとんど使えない状態で柏鵬とまともにぶつかっては勝ち目などあろうはずがない。

 栃ノ海が引退し、柏戸が怪我で休場がちになったことで土俵は大鵬一強状態となり、相撲人気が停滞したことは、ライバル不在の大鵬にとっても不幸なことだったと言えるかもしれない。これは白鵬が稀勢の里、日馬冨士の予期せぬ引退によって優勝記録を伸ばし続けても、人気は下降していったのによく似ている。

 短命ではあったが、面構えも酷似している日馬富士を思わせる速攻相撲は美しかった。

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