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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第36話 南海の黒豹  琴ヶ濱 貞雄(1927-1981)

”南海の黒豹”と聞けば、「三丁目の夕日」時代以降生まれの方なら、イケ面大関若島津のことを思い浮かべるに違いない。ここで紹介する”南海の黒豹”こと琴ヶ濱は「三丁目の夕日」世代にとっては忘れがたい一時代を築いた人気力士だった。むしろ必殺技を持っていたぶん、二人の黒豹を比較して見ることができた相撲ファンにとっては、”初代”のインパクトの方が強かったに違いない。

 九州は不知火(諾右衛門)、雲龍の昔から双葉山時代を経て、昭和三十年代の朝潮、佐田の山など各県万遍無く名力士を輩出しているが、長らく占領下にあった沖縄は別にして、宮崎県だけはこれといった力士が出ていない。

 高速道路が開通するまで「陸の孤島」と陰口を叩かれていたことと関係あるなしはともかく、少なくとも相撲に関しては「途上の地」と言っていいかもしれない。

 ところが実は一人いたのだ。それも飛びきりの名物力士が。

 昭和三十年代の栃若時代から柏鵬時代の幕開けまでにかけて、時に主役を食うほどの名脇役として土俵を暴れまわった琴ヶ濱こと宇草貞雄は、正真正銘、宮崎県産の力士である。番付で出身が香川となっているのは、父の他界後、母の実家がある香川県観音寺市に転居しており、そこが本籍地となっているからである。  

 兵庫県生まれの貴闘力が、中学時代を過ごした福岡県を出身地としていたように、このような例は意外と多く、中には最初は長く生活した土地を出身地としながら、途中から出生地に戻すなど、出身地を変える例もある。

 琴ヶ浜の四股名は入門の仲介をしてくれた兄弟子琴錦の琴と観音寺が浜に面していたことからつけられたものだが、鳴き潮で知られ日本の音風景百選、日本渚百選の両方に選ばれている島根県の名勝と同名であるため、島根県出身と勘違いされそうで何とも紛らわしい。


 琴ヶ濱の二所ノ関部屋入門は終戦直後、昭和二十年秋のことだった。翌年には、同学年で後に親友となる若乃花が入門してくるが、初土俵を踏んだ昭和二十年十一月場所の成績が〇勝四敗という散々たるものだったように、出世は遅く、若乃花からはあっという間に抜き去られてしまう。

 二十二年には稽古での打ちどころが悪かったのか、外傷性左膝関節炎を発症し、一時期は再起不能も覚悟した。幸い奇跡的な回復を見せ、半年後に土俵に復帰した時には左足がやや湾曲してしまっていたが、この曲がった左足が彼の土俵人生を大きく変えてゆくのである。


 琴ヶ濱の代名詞といえば内掛けである。立ち合いが巧いので、得意の左四つになるのが速く、そこから狙い済ましたような左内掛けで相手を土俵に這わせる技術は天下一品だった。決まり手の三割以上を占め、一場所に三回以上は仕掛けてくるため、相手も当然警戒はしているのだが、それでもこの技で仕留めてみせるところが名人の名人たる所以であった。

 通常の内掛けは足を絡めながら投げを打つが、琴ヶ濱の場合は足を伸ばしたまま太股に相手の身体を乗せて、柔道の内股のように鋭く刈り上げるのだ。

 単に足を掛けてくるだけならば、身体の柔軟な力士は内股すかしのように掛けられた足を素早く抜いて逆襲に転じることができるかもしれないが、太股から刈られてしまうとバレエダンサー並みに開脚できない限りは逃れられない。

 脚力が強い右足を支点とするため、左からしか掛けてこないにもかかわらず、栃錦、栃ノ海といった小兵名人から千代の山のような巨漢力士まで新旧の横綱七名をこの技の餌食にしているのは、左足が微妙に湾曲しているがゆえに絡めた足を抜かれにくいうえ、絶妙のタイミングで左太股に相手の重心を乗せる技術が優れているからである。

 琴ヶ浜を一番苦手としたのが朝潮で、四度も内掛けで投げ飛ばされている。そのせいか、琴ヶ濱の足技を警戒しすぎるあまり、徳俵まで追い詰めながら、そこで攻めるのを躊躇した瞬間、回り込まれて突き落としを食い、九分九厘勝ってした相撲を落としたこともある(三十二年九州場所)。

 一七七センチ一一五キロという体格は親友若乃花とほぼ同じで、力士としては小柄である。こういう力士は、朝潮が若乃花と互角に渡り合っていたように、腕力のある巨人型に四つに組まれると力でねじ伏せられる危険性が高い。

 ところが胴長短足の琴ヶ濱は、四つに組まれても腰を引いて相手の褌にぶら下がるような格好になると、ちょっとやそっとの腕力では身体を起こされることはなかった。しかも腰を振って褌を切るのが巧く、一度切られると朝潮のように腕の長い力士でも掴み直すのは至難の業だった。もし力任せに上体を起こそうとすれば、まさに思う壺で、相手の上体が伸び上がった瞬間に内掛けが飛ぶのだ。

 この伝家の宝刀に挑戦状を叩きつけたのが同時代きっての技能派力士北の洋である。

 三十二年九州場所十三日目、「内掛けがきたら外掛けで倒してやる」と挑発した外掛けの達人を見事な内掛けで屠り、先輩関脇の意地を見せると、翌十四日目には重心が低いことから「潜航艇」の異名を取った岩風まで物言いがつく大熱戦の末に内掛けで仕留めている。

 翌三十三年初場所は「わしは内掛けなど絶対に喰わん」と豪語していた栃錦まで内掛けの餌食にし、負けた栃錦が自身は内掛けを封印することを宣言したほどその切れ味は抜群だった。なにしろ、岩風、栃錦ともに内掛けによる黒星は長い土俵人生の中で琴ヶ濱戦一度きりしかないのだ。

 吉葉山も対戦成績では圧倒しながら三度も内掛けで引っくり返されているが、それだけに対策を練っていたのだろう。三十二年九州場所では内掛けががっちり決まっていたにもかかわらず、逆に浴びせ倒すような外掛けで押し潰し、名人の鼻っ柱をへし折っている。


 昭和三十年初場所から三場所連続で金星を獲得するなど、上位に強いことから大関は時間の問題と思われていたが、彼の大関昇進は過去に例がないほど厳しいものだった。

 最初のチャンスは、三十二年九月場所で、前二場所は十二勝、十二勝といずれも準優勝しているため、十一勝なら当確と見られていたにもかかわらず、十一勝の準優勝でも見送られてしまった。五月場所が平幕だったとはいえ、三場所連続三賞と相撲内容も良く、昇進のかかった九月場所は三横綱一大関を破っているのだ。レベルは低いかもしれないが、仮にも三場所連続準優勝で大関に昇進出来ないというのは稀有な例であろう。四横綱三大関と上位が詰まっているのが昇進見送りの要因であったにしてもである。

 翌九州場所で十勝、二横綱を倒して殊勲賞を獲得した三十三年初場所も十一勝を挙げ、五場所連続二桁勝利となったが、これでも昇進は見送られてしまった。横綱吉葉山が引退したことを考えれば、上位を喰って三場所通算三十二勝なら特に問題はなかったはずだ。

 三十三年春場所は、千秋楽を控えて横綱若乃花、大関朝潮、関脇琴ヶ濱が二敗で並ぶ混戦だった。

 ファンは同門の親友対決を見たかったに違いないが、若乃花が千代の山に敗れて脱落したため、朝潮と琴ヶ濱の決定戦となった。先述のように琴ヶ濱には苦手意識が染み付いていた朝潮も「大阪太郎」の異名を取るだけあって、大阪場所は別人のように強く、本割り、決定戦のいずれも琴ヶ濱を圧倒した。琴ヶ濱はこれで四度目の準優勝と相変わらずツキがなかったが、十三勝二敗、技能賞、殊勲賞のダブル受賞となれば大関昇進は当然のことだった。

 昭和三十三年の琴ヶ濱は六場所全て二桁勝利を挙げ、連続二桁勝利を十場所にまで伸ばしている。

 これは横綱になれなかった力士の最長記録で、琴ヶ濱に次ぐのが佐渡ヶ嶽部屋の後輩にあたる琴風の八場所連続となっている。安定感抜群でしばしば優勝にも絡みながら、大魚を逃し続けたのは平成の稀勢ノ里によく似ている。稀勢ノ里に至っては、初優勝して横綱に推挙されるまでに十一場所連続二桁勝利、十一度の準優勝を経ているのだから、これまた気が遠くなるような道のりだった。


 昭和三十六年初場所千秋楽、勝った方が初優勝という大事な一番に柏戸の下手投げに屈し、またしても準優勝に終わった琴ヶ濱は、持病の腰痛に加えて右足親指の脱臼という怪我に見舞われ、次第に精彩を欠いていった。軸足となる右足の踏ん張りがなければ内掛けが使えないことから、三十六年夏場所、名古屋場所と連続で負け越した時には、多くの関係者が琴ヶ濱の大関陥落は避けられないと見ていたが、それから一年間、大関の座を死守してみせた。

 もっとも、現在と違って大関は三場所連続負け越さなくては陥落しなかったため、この制度を最大限に利用した力士、と揶揄されもしたが、右足の負傷をよそにカド番の三十六年秋場所から引退までの三十七勝中十二勝を内掛けで挙げるなど、名人芸には最後までこだわりを見せた。


 同郷人である西鉄ライオンズの中西太とは非常に仲が良く、九州場所ともなると中西が陣中見舞いに訪れるのが恒例となっていたが、大の相撲好きで相撲にはいささか自信のある中西は、オフになるとトレーニングを兼ねて佐渡ヶ嶽部屋の若い衆と相撲を取っていた。中西の相撲の強さたるやとても素人とは思えないほどで、十両クラスといい勝負をしていたという。佐渡ヶ嶽親方が、本職になっていれば三役間違いなしの器、と太鼓判を押していた中西だからよかったものの、幾ら体力に自信があるプロ野球選手といえども、本職の関取と取り組むなど正気の沙汰ではない。

 とはいえ、中西のメジャーリーガーを驚かせたほどの打球の速さと飛距離が、相撲によって鍛えられた強靭な下半身によって生み出されたものだと考えるならば、中西の練習相手を務めた琴ヶ濱他の佐渡ヶ嶽部屋の力士たちは、日本球界屈指の強打者のスキルアップに一役買っているといえるかもしれない。

 琴ヶ濱が盟友若乃花の後を追うように土俵を去ったのは、昭和三十七年の九州場所を全休した直後だった。生まれ故郷である九州の地で最後の晴れ姿を見せることは叶わなかった。

 琴ヶ濱の四股名を継承した息子は、三段目で優勝するなど一時期は注目されたが、幕下でつまずき、関取には届かなかった。

 

 昭和五十六年、彼が亡くなった年の初場所に入幕するや、その美男ぶりとスピード感溢れる取り口でたちまち千代の富士の向こうを張る人気力士となったのが、「二代目南海の黒豹」こと若島津六男(鹿児島県種子島出身)である。

 若島津は全勝を含む優勝二回を記録する名大関となったが、投げ技が主体で足技は得意ではなかったため、取り口は琴ヶ濱とは全く異なるものだった。したがって「南海の黒豹」の呼称は、南国育ちで浅黒く精悍な容貌からそう呼ばれただけで、琴ヶ濱との共通項はない。

 それでも、若島津は元若乃花の二子山親方の愛弟子だけに、親友にかつての呼び名を継いだ弟子の活躍を見せられなかったことは、二子山親方もさぞかし心残りだったのではないだろうか。

琴ヶ濱の内掛けに挑戦状を叩きつけた北の洋、岩風はまさしく土俵のエンタティナーである。勝ち負けはあくまでも結果であって、相撲の見どころは勝負の過程であることを考えると、必殺技に挑戦する力士とそれを受けて立つ力士がいるなんて、観客からすればたまらないだろう。こういう相撲もあっていいのではないだろうか。

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