第35話 人間風車 九州山 義雄(1913-1990)
以前に紹介した”大正の”九州山と同じく福岡出身の”昭和の”九州山である。さすがに現役時代を知る方はごく少数のはずだが、レフェリー時代を記憶の方は結構いるのではないだろうか。最高位が大関の九州山十郎に比べると線が細かったが、横綱、大関と接戦を展開するなど勝敗の数字以上に印象度の高い力士だった。
九州山は突っ張りもうるさいが、それを払うのに夢中になっているといきなり体をかがめて渡し込んでくる。渡し込みながらもう片方の手で突き放すため、相手は足を高々と上げてでんぐり返ってしまうので見た目にも派手であり、やられた方からするとたまったものではない。
当然、次回からは渡し込みを警戒するが、あまり下半身にばかり気がゆき過ぎると、そのまま突き出されてしまうからやっかいである。
最も得意な手は渡し込みだが、時に無双を切ることもある。十二年夏場所の玉ノ海戦では、突き負けした九州山が半身になって外無双の奇襲に出たが、玉ノ海が右足を突っ張ってこれを防ぐと、そのまま右手を引きながら左足に内無双を掛け、見事にひっくり返してしまった。
九州山が渡し込みで仕留めた最大の大物といえば、双葉山にとどめをさすだろう。十三年六月二十四日、西宮球場で行われた準本場所三日目に無敵の大横綱を破った一番は、本場所では一度も勝てなかった九州山にとって単に忘れがたい勝利であるというだけではなく、実は本場所での金星以上の価値があった。
双葉山の連勝を六十九でストップさせたのが安芸ノ海であることは、好角家ならずとも常識的な知識だが、これはあくまでも本場所に限定した話である。年に二場所だったこの時代は、巡業とは別に今日の地方場所に相当する準本場所というのが開催されており、準本場所の成績は番付には反映されないまでも給与査定の対象にはなっていたため、各力士とも通常の地方巡業の時とは気合の入り方が違っていた。
公式記録上の双葉山の連勝は昭和十一年一月の本場所からということになっているが、準本場所も入れると、翌年六月の大阪場所の初日と四日目に早くも黒星を喫しているため、実は一旦四十連勝で途切れている。その後五日目から再び始まった連勝は、二度の本場所を含む六場所連続全勝優勝を経て、八十七まで伸びており、西宮場所でそれにストップをかけたのが九州山だった。
もちろん、本場所での連勝記録はまだ継続していたが、非公式記録とはいえ、安芸ノ海が十四年初場所に大金星を挙げる以前に無敵双葉山に土をつけたという意味では、それに匹敵する殊勲の星といっても過言ではない。
西宮場所も九勝一敗で優勝を飾った双葉山は、夏の満州巡業中にアメーバ赤痢に罹ったため、九月の大阪場所を全休しており、安芸ノ島に敗れた初場所も、回復後間もないということで、休場を勧める声も少なからずあったようだ。ところが責任感の強い双葉山は、筋力、体力ともにベストには程遠い状態であるにもかかわらず強行出場し、十一勝四敗と期待を裏切る成績に終わっている。
そう考えると、ベストコンディションの双葉山に勝った九州山の快挙はもっと評価されてしかるべきであろう。事実、全盛時代の双葉山が「何をやってくるかわからない」という理由で、最も警戒すべき力士として九州山の名を挙げているほどだ。
九州山が対双葉山戦に手ごたえを感じていたのは、十二年の夏場所からである。
この一戦は突っ張り合いから、九州山が右から内掛けの奇襲に出ると、上手く外した双葉山が左足を飛ばして応戦し、両者ともまるで柔道の試合のように足技を繰り広げた。最後は上手を取られた九州山が寄り倒されて万事休したが、破れたとはいえ本場所三十二連勝中の横綱に冷や汗をかかせた健闘ぶりに大きな拍手が送られた。
この場所の全勝優勝で横綱昇進を決めた双葉山を最も苦しめたばかりか、大勢のファンや評論家がこぞって十二年夏場所最高の一番と評したのだから、九州山もそれなりの達成感はあったはずだが、この場所の双葉山戦には並々ならぬ思いで臨んでいただけに、帰りの花道では涙が止まらなかったそうだ。
かくして一年後に西宮場所で打倒双葉を果たした九州山は、今度は本場所で、と意気込んでいたが、十三年夏場所後に応召されたために果たせず、安芸の海の快挙を軍の宿舎で聞いた時は相当な悔しがりようだったという。
九州山は福岡県山田市出身で本名は大坪義雄という。
年四場所制と春秋園事件による番付繰上げの恩恵を受け、十八歳で新十両、昭和九年春場所には二十歳の若さで大正生まれとしては初の入幕を果たしているから、なかなかのスピード出世ぶりである。
軽量級のため、三役どまりであったが、闘志と技の多彩さは群を抜いており、先の双葉山戦のように、時に上位を脅かす意外性が持ち味だった。
前頭七枚目で迎えた十二年春場所は十勝一敗の準優勝だったが、渡し込み、大渡し、渡し掛け、足取りと下半身への手技で三番、逆に上半身も素首落しという奇手で一番と彼らしい波状攻撃が冴え渡った場所だった。
唯一の敗戦は玉ノ海に頭捻りを仕掛けたところ、怪力で逆に押し倒された一番だけで、動きが速い力士を苦手とする玉ノ海に余計な小細工を弄したのが裏目に出たようだ。双葉山に善戦したのはその翌場所で、前頭筆頭で七勝六敗と勝ち越し、自己最高位の小結に昇進している。
十三年夏場所後の九月、ちょうど力士として脂が乗ってきたところで兵役に取られたのは痛かった。力士も一般人と同じく徴兵検査は義務付けられていたが、応召されるのは稀で、たとえ召集令状が届いて連隊本部に出頭しても、力士とわかると「ご苦労!」の一言で送り返されるか、内地勤務が普通である。装備品のサイズを合わせるのにも一苦労なうえ、大食漢ときては兵士として従軍させるより肉体労働にでも従事させていた方がましだからである。
ところが、一般人よりガタイがでかいとはいえ筋肉質でスリムな九州山こと大坪二等兵は、応召されたばかりか、砲兵隊の一員として激戦区の北支戦線に送られてしまうのだからツイていない。
高級軍人にも贔屓筋が多い関取ともなれば、普通は内地勤務がいいところだからだ。せめてもの救いは連隊長クラスの上官からも敬意を表して「お関取」と呼ばれ、新兵のわりには好待遇を受けたことくらいだろう。これが職業野球の選手となると、敵性スポーツということもあって、ねたまれていじめられることも少なくなかったというから、国技の熟練者であり体格も体力も並外れている力士には多少の遠慮はあったのかもしれない。もっとも、連日百キロ超えの大男たちから助走をつけて張られたりかち上げられてして鍛え抜かれた力士のこと、軍人から素手で殴られた程度ではマッサージほどにも感じなかっただろうが。
大陸を転戦し昭和十五年八月に内地帰還したのと同時に除隊となるが、二年間のブランクは大きかった。
金鵄勲章に輝いた英雄の復帰を、相撲協会は本場所中に凱旋セレモニーを催すなど誠意をもって出迎えた。角界では無精ひげを除いて髯はタブーだが、この時の九州山は特例で、短髪に口髯という軍人スタイルのまま土俵上で挨拶をしている。正式に出場するのは翌十六年夏場所からだが、その間も九州山は口髭をたくわえたまま褌をつけて稽古に励んでいた。
当初は幕尻からの再起を予定されていたそうだが、所属部隊の連隊長から協会に抗議があり入隊前の前頭二枚目に戻されたというから、軍幹部の中にも贔屓筋がいたのだろう。角界復帰時に時の総理東条英機の筆による「必勝」の文字が染め抜かれた化粧まわしを贈呈されたのもその一例といえよう。
軍隊時代の相撲大会では力自慢の男たちを相手にいとも簡単に十人掛けをこなし、見物に来ていた中国人の子供たちからも人気があったという九州山も、さすがに本職相手となると勝手が違ったか、二場所連続負け越しとなかなか調子が上がらない。十七年夏場所初日の羽黒山戦は、影が薄くなりつつあったかつての業師が久々に脚光を浴びた一番だった。
立ち合いから九州山得意の突っ張りがフル回転で羽黒山に炸裂するが、横綱の鋼鉄の胸板には通じない。羽黒山が突き返せば引き、引けば突くの緩急自在の攻撃も次第に手詰まりになり、じりじりと土俵際に後ずさってゆく九州山。
追い詰めた羽黒山があと一突きを繰り出したと同時に、その腕をつかんだ九州山が飛び下がりながら足を飛ばすと、重心が乗った左足を払われた羽黒山は膝から崩れ落ち土俵に這いつくばってしまった。絶妙のタイミングで決まった蹴繰りで初の金星を獲得した九州山は、この場所八勝六敗一預でおよそ四年ぶりの勝ち越しを決めた。
十八年初場所は猫だましでたじろいだ大関名寄岩の足を取って引っくり返し、同年夏場所には売り出し中の東冨士を二枚蹴りで土俵中央に這わせるなど、重量級の大物を手玉に取る手取り相撲で大いに土俵を湧かせたが、幕内上位までは上がってこれず、終戦と同時に廃業届けを提出した。
最後の土俵となった二十年夏場所は前頭十七枚目まで落ちていたとはいえ、五勝二敗と好成績で外無双や三所攻めといった奇手も披露しているだけに、まだ幕内で取れる余力は残していたように思われる。
横綱、大関であれば、たとえ勝ち越しても不甲斐ない成績を恥じて場所後に引退することもあるが、三役以下の力士が勝ち越して引退というのは極めて稀なケースである。福柳や沖ツ海のように、不幸にも現役中に物故した力士と横綱、大関を除けば、昭和期における勝ち越し引退は、九州山の他には部屋との確執から廃業し、プロレスラーになった天龍源一郎しかいない。
大井競馬株式会社の嘱託を務めていた時に、日本プロレスリング協会常務理事永田貞雄から声をかけられ、設立間もない協会の事務局長に就任すると、昭和二十九年二月のシャープ兄弟の来日興行を大成功に導くなど辣腕ぶりを発揮。同年、来日したボビー・ブランズの勧めでレフェリーに転向した。
プロレスのレフェリーはボクシングなどと違って、反則を繰り返すレスラーを止めに入ったことで逆襲されたり、リング内外での乱闘騒ぎのとばっちりを食ったりと、常に危険と隣り合わせである。そういう意味では、力士出身で引退後も筋トレを続けていた九州山は、若手レスラーよりも馬力があり、レフェリーという仕事はまさに適任だった。
幸いブランズとともに来日した日系二世の沖識名がそのまま日本に残ることになったため、沖のコーチを受けて腕を上げ、日本人初のプロレス専門のレフェリーとなった。
元花形力士で知名度も高かった九州山はレフェリーとしても人気があり、力道山の信頼も厚かったため、日本のトップレスラーたちよりも給料が高かった。力道山の死後も日本プロレスの重鎮として月のコーチ料だけで三十万円、年収でも団体のナンバー2豊登とほぼ同額だったことで、傘下のレスラーたちから疎まれ、後に排斥された。
力士時代は気風のいい男だったが、プロレス界で厚遇されるようになってからは打算的な立ち振る舞いが目立つようになり、晩節を汚す形になったのは残念である。
力士は国技を担ってきたプライドと自覚があるのか、引退後も派手な髪形やいで立ちをすることがなく、清潔感のある身だしなみをした者が多い。私が覚えている中で口髭を蓄えていたのは写真で拝見した現役時代の九州山と引退後にタレント業に転身したの荒勢くらいのものである。




