第34話 復讐の白狐 阿久津川 高一郎(1897-1972)
阿久津川は生涯平幕のままだったにもかかわらず、三役に負けず劣らず人気があっただけでなく、豪華なタニマチたちの厚い支持を受けていた。血気盛んで行動も破天荒なのだが、決して愚かな人間ではなく、頭は切れるタイプだった。現代風に言えば、秀才のくせに不良をやっているようなところが魅力だったのだろう。
泣く子も黙る右翼の首魁、頭山満と杉山茂丸から贔屓にされた土俵の熱血漢である。
そんな阿久津川こと永井高一郎の少年時代は、意外や意外大変なインテリで、栃木県の名門宇都宮中学を目指して勉学に励んでいた。武運つたなく受験に失敗したのを機に上京し、大手出版社の博文館に入社する。
若者向けのモダンな流行雑誌『新青年』の発行元で知られる博文館は、明治四十四年創刊の『野球界』の増刊号として大正期から『相撲画報』を刊行し、飛躍的に発行部数を増やしてゆくことになるが、その頃は力士阿久津川として雑誌に掲載される立場になっていた。
スポーツ雑誌を発行していることもあって、当時の博文館は昼休みになると若手社員たちが社屋の隣で相撲を取るのが慣わしになっていたが、高一郎少年は小柄な身体に似合わず相撲が滅法強かった。それが博文館御用達の平福百穂画伯の目に留まり、相撲取りになるよう勧められる。
画伯の勧めを真に受けた高一郎少年は、さっそく宇都宮に戻ると、自身の剣道の師匠である直心陰流『振武館』館主、阿久津辰之助の伝手で師匠の義兄弟分である横綱常陸山に紹介してもらう。
ところが、百人を超す大所帯の出羽海部屋では小兵の素人など入門させる余地はない。御大常陸山からあっさりと断られた高一郎は、小部屋だった錣山部屋に拾われ、剣道の師匠の名字にちなんだ阿久津川を名乗る。大正三年のことである。
入門以来、阿久津川を支えていたのは「打倒、出羽海」という執念だけだった。出羽海部屋の力士との取り組みになると、物凄い気迫で向かっていった。勝負がついていても故意に土俵下の溜りに突き落とすほど敵意を剥き出しにした。
新弟子時代は色白で稽古でも負けるとさっさと引っ込むことから「白狐」(人を馬鹿にしているという意味だろう)などという有難くない綽名をつけられたが、小兵名人玉椿に仕込まれてからは速攻相撲を身に付け、一場所も負け越すことなく順調に出世した。
大正八年一月、一七〇センチ七十五キロの身体で十両に昇進すると、二場所連続十両優勝を飾り、翌年一月、二十二歳で新入幕を果たしている。
大正十一年夏場所は、初日に横綱栃木山、二日目に大関常ノ花、三日目に小結大門岩、四日目に関脇大ノ里と出羽海部屋の役力士をなで斬りにする大活躍を見せた。六日目に全勝対決で横綱大錦に逆転の叩き込みで敗れたとはいえ、上位とむらなく対戦する前頭六枚目で七勝三敗というのは大したものだ。中でも光るのは大関昇進後、引退までの実働十六場所中、黒星が八つしかない栃木山から挙げた金星である。
栃木山の右筈押しを振りほどきざま、突っ張りの猛攻で一気に押し切った執念の一番は、奇策を用いずに正攻法で番狂わせを演じたことで、栃木山の自信を揺るがせた。大関昇進から引退までに栃木山が初日に星を落としたのはこの一回きりであり、その間、栃木山を破った最も番付下位の力士が阿久津川だった。
阿久津川の突っ張りは、必ずしも正面から突いてくるとは限らない。相手の突っ張りをまるでボクサーのように左右にかわしながら相手の斜角から素早い突きを返すのを得意とした。
ボクサーのストレートが正面から顔面を捉えるより、斜めから当てた方が相手の首にかかる負担が大きくナックアウトを生みやすいのと同様に、阿久津川の突っ張りもカウンター気味に斜めから突き出されるため、軽量を補って余りある威力を生んだのだ。
掌底、胸の中央、肩の位置が三角形を描くことから、この突っ張りは「三角突っ張り」と呼ばれた。
一般人と変わらない身体つきで関取になった阿久津川の根性には、さすがに元常陸山の出羽海親方も自身の不明を恥じたと見え、ある取り組みの直後、二百円もの祝儀を手渡している。
太っ腹の常陸山はいい相撲を取った弟子には習慣的に十円ほどの金一封を渡していたが、他の部屋の力士に公務員の初任給の三倍にあたる大枚をはたくというのは、よほど個人的な思い入れがあってのことと察せられる。
常陸山に認めてもらったことで力士としての阿久津川は終わったのかもしれない。幕内に上がってからの阿久津川は、気迫溢れる相撲で人気はあったものの、自身より小兵でありながら三役まで務め上げた玉椿、緑島、両国のような相撲名人にはなれなかった。
多彩な技を持たない阿久津川は、相撲を覚えられてしまうとなかなか勝てなくなり、最高位は前頭筆頭でついに三役には手が届かなかった。
話は変わるが、阿久津川は力士時代、二度死にかかっている。
新弟子時代、淡路島巡業中に兄弟子たちが食べ残したふぐちりの残り汁を丼飯にかけてかきこんだところ、よりによって彼一人だけがふぐ毒にあたってしまったのだ。当時、ふぐ毒の民間療法として知られていたのは砂浜に首だけ出して埋めるか、肥溜めに漬けるというものだったが、普段から強情っぱりで扱いにくい阿久津川のこと、この機会に思い知らせてやろうと悪戯心を出した兄弟子たちは肥溜めの上澄みをすくって喉に流し込んだ。すると大量に嘔吐した阿久津川は覚醒し、二十日間ほどで完全に回復したという。
二度目は、大正十二年夏、北海道巡業中のことである。スランプの憂さ晴らしにと宿の十畳間から銚子が溢れるほどの日本酒とジョニーウォーカーを六本空けた後、酔い覚ましにバケツ一杯のビールをがぶ飲みしたところ、脳充血でぶっ倒れてしまった。意識不明のまま北大病院に運び込まれた時には、そのまま逝ってもおかしくないほどの重篤だったが、これも奇跡的に回復する。
しかし、この時の阿久津川の自棄酒が一人の男の人生を変えることになった。退院した阿久津川が療養先の城山鉱泉で見出したのが、後の横綱男女ノ川だった。
男女ノ川は優柔不断な性格で一種の変人でもあったため、師匠としては散々苦労もさせられたが、弟子を横綱に育て上げたという実績は大きく、三役経験もない阿久津川が相撲協会の理事長補佐にまで抜擢される一因となったことは間違いない。
昭和四年三月に引退後は、年寄佐渡ヶ嶽となったが、一門の総帥である高砂浦五郎(二代目朝潮太郎)とは仲が悪く、年寄株の購入に当たっても高砂からふっかけられて金策に困っていたところを、立浪親方から安価で譲り受けられたことで角界に残留することができた。
男女ノ川の所有権についても高砂から出し抜かれて立腹し、ドスを抜いて高砂部屋に殴り込みをかけたほどだ。協会の最高権力者の一人として君臨する高砂を”てめえ”呼ばわりするほど反発しながら干されなかったのは、政財界の大物たちですら頭が上がらない頭山満や杉山茂丸といった国士の後ろ盾があったからだろう。
関取になった後でさえ、大陸で馬賊になろうと思っていた時期があるほど愛国心が強かったため、その筋の方々には人気があったのだ。
義侠心の強い元阿久津川の佐渡ヶ嶽は、贔屓筋への恩義は忘れない男だった。昭和十二年、頭山から「安政の大獄」に刑死した維新の志士たちの荒れ果てた墓所の改修を依頼された時など、協会を動かして寄進相撲をうち、自らが現場監督に立って回向院の志士の墓所を見事に改修してみせた。
その手際の良さは右翼の巨魁、頭山満が「佐渡君、有難う」と両手をついて感謝の意を表したほどだ。
佐渡ヶ嶽は、年長者にも平気で楯突き、怒り狂うと何をしでかすかわからないことから、協会内では腫れ物に触るように扱われていたが、一方で生理学を学ぶなど勉強熱心で、前身が出版関係ということもあって、相撲関係の著書を著すなど文才にも長けていた。
角界の指導者としてだけでなく、相撲体操を考案して学童の体位向上に努め、アマチュア相撲の発展にも多大な貢献をしたことから角界の個人としては初の藍綬褒章まで受賞している。
昭和九年五月に桟敷部長、十四年五月に勝負検査役、十五年五月には理事と協会で出世街道を歩んだのも当然のことだろう。昭和十七年の愛弟子男女ノ川の引退に際しては、緊急理事会を開いて横綱の一代年寄制度を強引に可決し、男女ノ川は制度適用の第一号となった。
昭和二十九年に廃業した後は、戦前に発足させた財団法人大日本相撲研修会(旧名国技研修会)の会長として、協会の外から相撲を見守っていたが、昭和三十三年に相撲協会に営業上の不正疑惑が生じたときには、元天龍の和久田三郎とともに証人台に立ち、古巣を糾弾した。
結果、出羽海理事長(元横綱常ノ花)が割腹自殺を図る(未遂)など角界は大混乱に陥ったが、出羽海が理事長の座を追われる最後の一押しをしたのが、かつて出羽海部屋から門前払いを食った元阿久津川の佐渡ヶ嶽だったのも何かの因縁だったのかもしれない。
ちなみに両者の土俵での対戦成績は阿久津川の一勝六敗一分となっている。
阿久津川が育てた男女ノ川は横綱、協会理事にまでなりながら、組織になじめずに協会を離れたあげくに後半生を棒に振ったような形になったが、反骨精神だけは師匠譲りであっても、理知的なところが欠けていたため、中途半端な物真似をしたあげくにずっこけた感が強い。一般人の人生もしかりで、束縛を嫌い自由を求める姿は恰好良いが、阿久津川のように孤立しても知性と創造力で人生を切り開いてゆけるという自信と裏付けがなければ、精神が”わがままな子供”のまま人生から取り残され、男女ノ川の二の舞になってしまうのがオチだ。




