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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第33話 切捨て御免  海乃山 勇(1940-1997)

リアルタイムでは海乃山の土俵を見たことはないが、昭和50年代に相撲関係の特番で過去の名勝負や伝説的な大技を紹介するコーナーでは常連だったため、なぜか名前だけはよく知っていた。中でも大鵬を蹴繰って秒殺した一戦は何度も放映されており特に印象深い取り組みである。もし平成の土俵に海乃山がいたら、白鵬も痛い目に遭っていたはずだ。現在なら豊昇龍あたりはじらされて熱くなったところで狙い撃ちされ、お得意さんになっていたかもしれない。

 土俵の通り魔のような男だった。

 行司の軍配が返ったと同時に居合いの達人のように相手の出足を一刀両断するのだ。

 海乃山が横に跳んだ、と思った次の瞬間、相手は土俵に這いつくばっている。

 注視していないと、海乃山がすれ違いざまに飛ばした足が見えず、相手が勝手につまずいて自爆したかのように見えてしまう。

 蹴り足のスピードが余りにも速いため、「蹴った」というよりも「斬った」という表現の方がふさわしいかもしれない。海乃山の蹴手繰りは、相手の骨まで断ち切る日本刀のように鋭く、芸術的ですらあった。

 古今最高の蹴手繰りの名手と言われる荒岩の実写フィルムが現存していない以上、技量の優劣を比較することは叶わないが、昭和以降では海乃山を越える使い手はいないと言っても過言ではないだろう。

 蹴手繰りは「蹴る」と「手繰る」という言葉の組み合わせどおり、相手の腕を手繰りながら重心がかかった足を蹴って払う技で、柔道の出足払いに近い。

 右足で蹴る場合は相手の右足を、左足で蹴る場合は相手の左足というように対角線上にある相手の足を内側から払うのが蹴手繰りで、腕を手繰らなければ「蹴返し」となる。ただし立ち合いと同時に、相手の手を手繰らずに足だけ飛ばして土俵に這わせた場合も決まり手は蹴手繰りとなる。したがって蹴手繰りと蹴返しはほぼ同種の技といっていい。

 紛らわしいのが二枚蹴りで、柔道の支え釣り込み足と同じ要領で、足を外側から払う技である。


 海乃山はその面構えからしてふてぶてしく、いつも何か企んでいるように見えることから「曲者」と呼ばれた。本来は四つ相撲の力士だったが、小兵ゆえに番付が上がるとそれだけではなかなか通用しないため、飛び道具を用いるようになった。持病の腰痛が悪化してからは、立ち合いも中腰になり、変化技が増えた。海乃山の代名詞である蹴手繰りと蹴返しが土俵生活の後年に多いのはそのためである。

 足技以外の決まり手にしても、蹴返しで崩してからの突き落としというパターンも多く、一発で決まらなければ、回り込みながら蹴返しの連打を見舞うこともあった。

 傑作なのが時折見せる「真空蹴り」で、フェイントにもかかわらず、相手が勝手に蹴られたと錯覚して倒れまいとつんのめりバランスを崩したところを突き落とす秘技?である。一瞬のことなので、蹴手繰りと見るか突き落としと見るかは審判部の主観によるが、海乃山が足を出せば「蹴った」と思わせるほど蹴りの頻度が高く、一部の力士にはそれが被害妄想のように脳裏に刷り込まれていた。


 最近はあまり見かけない蹴手繰りだが、海乃山は昭和四十二年秋場所から翌年秋場所まで七場所連続(計十一回)この荒技で勝ち星を挙げているのだから他とは格が違う。これに類似技の蹴返しまで加えると十場所連続となる。内訳は蹴手繰り十二回、蹴返し六回で、一場所あたり二回はこの必殺技を披露していることになる。

 警戒していても逃れられないという点においては、琴ヶ濱の内掛けに匹敵する名人芸と言えそうだが、上位力士相手の成功率となると、さすがの“南海の黒豹”も海乃山には及ばない。

 琴ヶ濱が内掛けで挙げた一〇三勝のうち、横綱・大関相手は十番だけで全体の八パーセントに過ぎないのに対し、海乃山が蹴手繰りと蹴返しで挙げた四十六勝のうち、横綱・大関相手は十四番、三〇パーセントにも達している(後書きの表参照)。

 蹴返しに限ると、栃剣(最高位前頭二枚目)は海乃山を上回る二十六回(蹴手繰りは二回)も決めているが、横綱、大関には全くといっていいほど通用せず、一度しかこの技で勝ったためしがない。

 横綱大関クラスで海乃山の「お客さん」というと、琴桜(十三勝十五敗)、清国(十二勝十三敗)、 北の富士(五勝六敗)の三名が挙げられる。彼らはいずれも三回以上、蹴手繰りか蹴返しの洗礼を受けており、これほど上位をカモにした力士も珍しい。平成以降、関脇以下の力士で横綱経験者と互角に相撲を取ったのは日馬富士に九勝十敗と健闘した嘉風くらいしか見当たらないが、タイプが違う複数の上位力士とこれほど拮抗した戦績を残している海乃山の場合は、単なる相性の問題というだけでは片付けられないだろう。

 若い頃は素人相撲で鳴らした父石松は、県の大会で後に横綱男女ノ川となる坂田供二郎に勝ったことがあるのが自慢で、息子にも早く横綱を倒せと叱咤していたから、海乃山も横綱を倒すことがライフワークのようになっていたのかもしれない。

 ただし本人によると、土俵に上がる前から作戦を立てることはなく、立ち合いの際の相手の足の出方次第で、飛び道具を繰り出すかどうか瞬時に判断していたという。


 海乃山贔屓にとって一番のお楽しみとなると大鵬戦に尽きる。

 幕内対戦成績こそ大鵬が二十一勝四敗と圧倒しているが、三段目から十両時代までは逆に〇勝四敗と歯が立たず、幕内での四敗のうち三敗が蹴手繰りか蹴返しとなると話は別。無敵の大鵬を一瞬で片付ける鮮やかさは、まるで剣術家の抜き打ちを見ているようだった。 

 警戒していても足技でやられるのは、海乃山が基本的には押し相撲の力士であり、軽量ながら突進力があるからだ。差すと見せかけて下がるタイミングが絶妙なため、押し負けまいと思って重心を前にかけすぎると、その軸足を狙われてしまうのである。それもそのはず、海乃山こと入井勇は茨城県竜ヶ崎中学時代、NHK主催の全国中学校陸上競技会において砲丸投げで準優勝したほどの腕力自慢だった。

 当時の茨城県下の中学校の体育の教科書には、中学生砲丸投げ茨城県記録保持者入井勇の名が載っていたというから、この頃から地元では有名人だったのだろう。

 腕力に自信があったからか、四股名は海力山で届けていたのだが、協会の人間が読み違えて、力を乃にして番付を作ってしまい、結局訂正しないまま海乃山になったそうだ。


 昭和四十年大阪場所、海乃山に喫した一敗のおかげで全勝優勝を逃した大鵬は、四十二年九州場所にも立ち合いと同時に鮮やかな蹴手繰りで連勝を二十五でストップされ(不戦敗を除く唯一の黒星)、十中八九間違いないと言われていた優勝まで阻止されている。

 九州場所十一日目まで土付かずの大鵬は、この時点で優勝を確実視されていながら、記者たちの前では「もう一人嫌な奴がいるよ」と警戒心を募らせていたが、この「嫌な奴」は対戦成績が五分の柏戸ではなく、対戦成績では圧倒している海乃山のことを指していた。

 大鵬が好調であればあるほど、首級を狙う海乃山の目はぎらついていた。

 大鵬を瞬殺した大阪場所は飛び道具だけでなく、意外な腕力を見せ付けた場所としても印象深い。とりわけ見事だったのは、この場所技能賞に輝いた小結清国が双差しから寄って出るところを左からの捻りを効かせた首投げで宙を舞わせた六日目の一番である。吹っ飛ばされた清国は擦り傷だらけで、「素人なら重傷だ。俺でよかった」と苦笑していたほどの切れ味だった。

 十四日目にも大関豊山を同じく左首投げで土俵に叩き付けているが、この時は海乃山が左膝をつくのが早かったとして、豊山が勝ちを拾った格好になった。記録上は黒星とはいえ、両褌を掴んで十分の横綱候補をそこから一回転させて捻り倒すというのは並大抵の腕力ではない。

 離れている時は足を警戒しなければならず、褌を取っても不用意に出ると首投げが待っているのだから、上位陣は海乃山との一番には相当神経をすり減らしたことだろう。


 その海乃山も柏戸にはまるで歯が立たず二勝十六敗と惨敗しているのは、速攻相撲が身上の柏戸は変化についてゆける鋭い追い足があり、足を払われてバランスを崩してもそのままの勢いで渡しこむように押し出してしまうからである。逆に警戒心が強く、攻めが慎重な大鵬は、動きの中で海乃山に蹴手繰りで仕留めるための伏線を張る時間を与えてしまっていた。

 それでも柏戸戦の二勝はいずれも蹴返しというあたり、海乃山の意地が感じられる。柏戸の方も海乃山はお得意さんどころか、勝ち相撲の後でも「あいつは怖いよ」と警戒心をあらわにしていた。これは三十八年春場所五日目に海乃山を寄り倒した際に、右肩関節を痛め、それから約半年間も休場したという苦い思い出があるからだ。

 また柏鵬から金星を奪った四場所は全て負け越しているところから、不調な時ほど柏鵬戦で存在感を見せつけようという思いが強いぶん、普段以上に危険な相手だったといえるかもしれない。

 上位力士に強いのがウリだったが、自身の番付が上位のときはあまり勝ち星が延びず、三役での勝ち越しは一度しかない。その代わり、下位に落ちたときは要注意で、平幕で十二勝を三度も記録しているように、上位との対戦が少ない番付のときは優勝候補の一人に数えられたこともある。

 三十八年九州場所は準優勝だったが、四十一年初場所は初日からただ一人十連勝して優勝争いの先頭を突っ走り、海乃山ファンを狂喜させた。上位との対戦がないぶん、一差で追う柏戸よりも有利と見られていたが、柄でもなかったのか終盤に負けが込み、またしても賜杯をつかみ損なっている。

 腰痛の悪化により、昭和四十五年初場所限りで引退した。ポーカーフェイスの老け顔だったせいか若い頃からベテラン然としていたが、意外にも引退時の年齢は二十九歳だった。

 現役時代から家族ぐるみで仲の良かった佐田の山に協力して、出羽海部屋で部屋付き親方としてコーチ業に励んでいたが、独立問題でこじれて四十六年に廃業した後は、大阪でちゃんこ料理屋の主人に納まった。


 三賞受賞は六回、うち技能賞三回は“曲者”海乃山の印象からすると少ないように思うが、立ち合いが不十分で不恰好だったため(今日であれば、不成立とされるような立ち合いが多かった)、

その分の芸術的評価が割り引かれたのかもしれない。

 昭和四十年代までは一芸に秀でた個性的な力士が多かったため、観客を唸らせる技のキレに加えて土俵マナーも重視されていたため、技能賞のハードルは今日より高かった。

 同時代では、栃錦に次ぐ業師と評された琴ヶ濱ですら技能賞が五回に過ぎないのは、立ち合いで相手をじらしたり、フェイントをかけたりする策士的なところが、下品と見られる向きがあったからだ。

 力士の体格向上に伴い、パワー相撲が主流となった現代の土俵では芸術的な大技は滅多に見られなくなった。海乃山のような瞬殺相撲が土俵を沸かせる日は再び訪れるのだろうか。

■得意技による勝利記録■

合 計 横綱 大関 関脇 小結   

琴ヶ濱 内掛け 103  5  5  9  7 三役以上25% 横綱大関 8%


海乃山 蹴手繰り 25  2  4  3  1 三役以上46% 横綱大関30%

    蹴返し  21  3  5  2  1

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