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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第32話 ガラスの金剛力士  武蔵山 武(1909-1969)

武蔵山は昭和初期のスピード出世の代表格である。横綱としては冴えない成績しか残せておらず、全盛期が小結時代というのも珍しいが、筋骨逞しい長身で見栄えが良く、人気だけなら歴代横綱中十傑に入る。怪我さえなければ双葉山にとっても大きな壁になっていたのは間違いない。

 少年時代から貧苦に喘ぎ、草相撲の商品を生活の足しにしていた孝行息子、という触れ込み だったが、これはあくまでも宣伝用の美談であって、実家は富農だった。むしろ、幼少時に甘やかされて育ったことが、気弱な性格を助長することになり、大成を阻んだといえるかもしれない。

 十六歳ですでに一八三センチ八十七キロというずば抜けた巨漢だったから、草相撲ではもちろん無敵で、その評判を聞いた出羽海一門の年寄武隈が兄と母の反対を押し切って強引に入門させた。

 大正十五年一月、十六歳で初土俵を踏むや、期待以上の出世ぶりで三年目に十両、四年目の昭和四年には早くも入幕を果たしている。驚くべきことに、入幕までに要した場所はわずか十一場所に過ぎず、うち全勝が五場所もある。しかも十九歳での入幕は史上最年少であり、それまでの勝率は八割六分六厘というとてつもないものであった。

 新入幕の四年五月場所で九勝二敗という好成績もさることながら、場所後の五月二十七日、海軍記念日に芝公園・水交社で開催された天覧相撲で優勝(準優勝が横綱宮城山)というのは凄い。横綱でさえ緊張する天覧相撲で、未成年の新入幕力士が横綱まで倒して優勝をさらうなど、一体誰が想像したであろう。  

 ここまでくると、実力だけでなく、そういう星の下に生まれてきたとしか思えない。

 その後も武蔵山の勢いは止まらず、三場所目には優勝同点、五場所目には二十歳で小結となる(昭和五年)。

 力士にしておくにはもったいないほどの端正なルックスと筋骨逞しい肢体はいかにもモダンで、『ヒコーキ出世』と比喩された前代未聞の躍進ぶりと相まって、角界随一の人気者となった。


 武蔵山は力士としてはソップ型の部類だが、怪力にモノをいわせた四つ相撲が得意で、組み合ってしまえば巨漢力士さえも投げ飛ばす力強さがあった。

 反面、突っ張り中心の速攻型には手こずることが多く、ライバルである男女ノ川が玉錦と五分に取れていたのとは対照的に武蔵山は玉錦に分が悪かった。褌さえ取れば玉錦にも力負けすることはないのだが、柔軟性に乏しいゆえに、突っ張って押し込んでこられると意外なほどの脆さを見せた。

 そのため、直接対決ではいい勝負であるにもかかわらず力士としてのスケールは男女ノ川の方が上と見られていた。ただし、男女ノ川は好不調の波があり、出世争いにおいては取りこぼしの少ない武蔵山が常にリードしていた。


 小結時代の武蔵山と言えば、後年まで古老の好角家の語り草になったほどの強さを誇っていた。

 在位六場所の通算成績五○勝一五敗一休(勝率七割六分九厘)はA級横綱のそれと遜色がない。この間、昭和六年五月場所は十勝一敗で優勝同点(優勝は玉錦)、翌七月場所は十勝一敗で初優勝している。   

 従来なら七月場所後の大関昇進は間違いないところだが、不可解なことに武蔵山は小結据え置きであった。昇進基準が明確化された現代に照らし合わせてみても、五月場所までの三場所通算が二六勝七敗(七割七分八厘)と、今日の昇進基準三三勝一二敗(七割三分三厘)をゆうに超えているにもかかわらずだ。

 この成績で関脇にすら上がれなかったのは、同門の大関大ノ里、関脇天龍が上位にいたからで、いかにヒコーキ出世の武蔵山といえども、上が詰まっていては昇進する余地がない。特に大関争いのライバルと目されていた天龍が、武蔵山の小結昇進と同時に関脇になって以来、在位五場所で七割近い好勝率を挙げていてはなおさらである。

 同門ゆえに戦わざるライバルと言われて久しい二人だったが、ついにその両者が雌雄を決する機会が訪れた。六年夏場所の直後、満州巡業の折に大連で開催された出羽海一門の関取二十余名によるトーナメント大会がそれで、四日間行われた各大会の優勝者四名が最終日五日目の決勝トーナメントに挑むというものであった。その結果、最終日の決勝戦に勝ち残ったのが武蔵山と天龍で、ファンにとっては本場所では決して見られない夢の対決となった。

 二十七歳の天龍は一八七センチ一一八キロ、対する二十一歳の武蔵山は一八五センチ一一六キロとほぼ同等の体格で、ともに横綱の器と期待される力量の持ち主である。

「本当はどちらが強いのか」固唾を飲んで土俵を見つめる満員の観客の前で、死力を振り絞って激闘を繰り広げた両雄は、四度の水が入っても決着がつかず、巡業中でありながら決勝戦は翌日へ持ち越しとなった。

 このような措置は、過密なスケジュールで移動を繰り返す地方巡業では、まさに異例中の異例である。しかも予定では決勝戦の終了と同時に船便で次の巡業地へ向かうことになっていたのである。本場所ならまだしも、地方場所の場合、このようなケースではどちらかが勝利を譲る形で早く試合を終わらせるのが慣例であるが、両者のプライドがそれを許さなかった。

 翌日は、本場所でも滅多に拝めない大勝負の噂を聞きつけた観客が、一番だけの取り組みを観るために一万人以上も詰めかけた。果たして再度の勝負も両者ともに相譲らず、二度の水入りとなった。

 たまりかねた審判団が土俵上で協議に及ぶ一幕もあったが、これだけの観客の前で決着をうやむやにするようなことはさすがに出来なかった。同門ゆえに本割りで相いまみえることは絶対にあり得ないのだから、角界の人気を二分する両者による最初で最後になるかもしれない真剣勝負は、観客だけでなく角界関係者にとっても絶対に見逃せない一番だったはずだ。

 かくして七度目の対決となり、気力体力ともに限界に達している両者は、これまでのがっぷり四つからの力相撲と打って変わって、身体を預けた投げの打ち合いで一気に勝負に出た。

 天龍の寄りを土俵際でこらえた武蔵山が体を入れ替えながら右からの上手投げを打てば、バランスを崩しながらもねばり腰でこれを残した天龍が下手投げを打ち返す。これでグラリときた武蔵山は倒れ込みな

がら強引な上手投げで天龍の腰を浮かし、両者ともに砂塵を巻き上げながら土俵下に転落した。

 行司は間髪いれずに武蔵山に軍配を上げる。本場所なら当然物言いがつきそうな際どい勝負であったが、これを裁いた行司が第二十代木村庄之助では異議を唱える者などいようはずがない。なぜなら、彼こそ後に大相撲の歴史の中でたったの三名しかいない「松翁」の称号を与えられた昭和最高の名行司であったからだ。

 後年、敗れた天龍が「私の方が少し早く落ちたと思う。松翁という人は絶対にミスのない人だった」と語っていることからも、第三代松翁の角界における揺ぎない信頼感が伺える。

 明治から昭和にかけて数々の名勝負を裁いた松翁が、生涯最も印象に残る一番として挙げたのが、本場所の取り組みではなく、都合三十分にも及ぶ天龍対武蔵山の巡業対決であった。

 実力で兄弟子を降して意気上がる武蔵山は、十月の本場所で八勝二敗一休(うち一敗は不戦敗)の成績を残し、場所後に関脇を跳び越して大関に推挙された。人気・実力を兼ね備えた二十二歳の若き大関の誕生である。

 年が明けた昭和七年一月六日、新番付発表の翌日、角界を震撼させる大事件が勃発した。春秋園事件である。

 この事件は出羽海一門で固めた西方幕内、十両の全力士が大井町の料亭春秋園に集結し、「相撲茶屋撤廃」「養老年金制度の確立」「力士協会の設立と共済制度の確立」など、角界の改革を目指した十か条の要求を協会側に突きつけたことに端を発する。ところが、協会側がこれを拒んだため、結集した力士たちが「新興力士団」を組織して協会を脱退すると、東方の一部力士までが協会不信任を唱えて「革命力士団」を結成し、前者と迎合することになった。これによって、協会は事実上壊滅状態となり、一月場所の開催は不可能となった。

 武蔵山も出羽海一門であることから、当初は「新興力士団」に名を連ねていたが、間もなく協会側の説得に応じ、帰参している。そのため二月場所の改訂番付には改めて新大関として名を連ねたものの、大ノ里(大関)、天竜(関脇)、綾桜(小結・前場所優勝)といった人気力士がごっそり抜けた後の角界の前途は暗澹たるものであった。武蔵山の拳闘界転向説が世間を賑わせたのは、事件の混乱冷めやらぬ二月場所直前のことであった。

 当時のわが国のスポーツ界で最も人気を集めていたのは東京六大学野球であり、これに次ぐのが相撲と拳闘であった。中でも拳闘すなわちボクシングは、一攫千金のスポーツの最たるもので、本場アメリカではスポーツ長者番付の上位を独占していた。昭和初期のメジャーリーガーでは、ベーブ・ルースが最高給取りだったが、ボクシングのヘビー級チャンピオンともなると、世界タイトル戦一試合でルースの年俸の2~3倍はゆうに稼いでいた。

 そういう意味では、力士らしからぬ筋肉質な身体の武蔵山は、ちょっと絞り込めばヘビー級ボク サーとしても十分通用するため、話題性も含めて拳闘界が触手を伸ばしたのは当然の成り行きだった。

 実は本人もボクサー転向は本気で、後援者の一人だった右翼の大物清水行之助に頭を下げて一旦は角界引退の了承を得ていたのだが、角界復興には欠かせない武蔵山慰留に各方面から働きかけがあり、最終的には清水が仲介者となって引退は白紙撤回されることになった。

 ところがこれまで快進撃を見せてきた武蔵山も、そこからの二年間は優勝争いに絡むこともなく足踏みを続けた。原因は大関昇進を決めた昭和六年十月場所九日目の沖ツ海戦で骨折した右肘にあった。

 以来肘痛に悩まされた武蔵山は右が十分に使えない状態であっても、入幕以来一度も負け越すことなく大関の座を全うしていたのはさすがであった。肘は相変わらず完治しないままだったが、三役時代から大関争いを繰り広げた男女ノ川が二度目の優勝を果たした九年一月場所後に大関に推挙され、ともに次期横綱候補として横一線に並ぶや、武蔵山の闘志も再燃した。

 何かと比較された天龍はライバルとは言っても所詮同門の兄弟子であったが、男女ノ川は本場所の土俵における最大の強敵である。一九一センチ一四六キロの巨体は、『動く仁王』と形容され、早くから大関・横綱の有力候補の一人に挙げられていた。

 入幕は六歳年上の男女ノ川の方が早く、武蔵山の小結時代には関脇であったが、右足関節炎の悪化や革新力士団への合流などでブランクを作ってしまい、大関に昇進した時はすでに三十歳になっていた。

 スケールの大きい巨漢力士として早くから注目を浴びていた男女ノ川(入幕当初の四股名は朝汐)と最年少記録男武蔵山の取り組みは、平幕時代から大変な人気カードであり、昭和五年一月場所千 秋楽における両者の顔合わせは、小結の朝汐、前頭二枚目の武蔵山ともに八勝二敗の同率で優勝争いに加わっていたこともあって、国技館が十八年ぶりに満員札止めになるほどの盛況であった。

 この一戦は武蔵山が制したものの、大関豊国も九勝二敗だったため、十九歳という史上最年少での優勝は叶わなかった。

 武蔵山の横綱昇進は十年五月場所の直後、二十五歳の時である。五月場所は、千秋楽に玉錦に敗れて優勝を逃したとはいえ、直近三場所の成績が二十六勝六敗一分(八割一分三厘)というのは少し甘い気もするが、大関昇進までに理不尽なまでの足止めをくったことを考えれば、これで相殺という意味もあったのかもしれない。

 この甘い昇進の恩恵にあずかったのが綱争いのライバル男女ノ川で、十一年一月場所に九勝し、直近三場所の通算成績が二十六勝になったことで、一足遅れて三十四代横綱に推挙されている。

 ところが、共に幸運な昇進が災いしたというべきか、横綱になってからの両者は全く振るわず、先輩横綱の玉錦や後輩双葉山の引き立て役に過ぎなかった。それでもほとんどの場所に皆勤した男女ノ川はまだしも、さらに肘痛が悪化した武蔵山に至っては皆勤したのはわずか一場所(十三年五月)という体たらくであった。

 それも千秋楽に六勝六敗の横綱同士が勝ち越しを賭けて対戦するという醜態まで晒している。この対戦はかろうじて武蔵山が勝ち、横綱が皆勤で負け越しという不名誉だけは回避したが、右肘に加えて膝関節まで痛めてしまい、年末から大分県別府市の九大温研病院に半年間も入院するはめになった。

 この間二場所全休したものの、回復にはさらなる入院が必要と診断されたため、十四年五月場所後、二十九歳の若さで引退を表明した。

 

 当代一の人気力士だった武蔵山の土俵人生は実質的には昭和十年いっぱいで終わっており、翌十一年からは双葉山の不滅の連勝記録がスタートしているのは興味深いめぐり合わせと言えるが、この二人の土俵人生には大きな接点がある。

 というのも、十両時代から双葉山の将来を有望視していた武蔵山こそ、後に双葉山の物心両面の支援者となる実業之世界社社長、野依秀市を引き合わせた人物だったのだ。

 時に昭和七年、日本橋浜町の料亭「御半」に武蔵山に伴われて同郷人の野依に紹介された時、双葉山は二十歳であった。

 未来の大横綱もまだ線が細く、入幕後は武蔵山に四連敗するなど全く歯が立たなかったが、昭和十年一月場所、大関武蔵山対小結双葉山の対戦は、全盛期の武蔵山にその一年後には無敵となる新鋭が胸を借りた歴史的な好取組で、四つに組んでの投げの打ち合いが続いたあげくに水入り後も勝負がつかず引き分けに終わっている。六十年以上本場所の土俵をつぶさに見てきた野依をして「これほど力の入った相撲は見たことがない」と言わさしめた名勝負であった。

 入幕以来贔屓にしてきた武蔵山の大関取りと、自らが後援会を立ち上げこれから売り出そうとしている新鋭の対戦は、野依にとって心中複雑な思いがあっただろう。武蔵山は横綱昇進後のふがいない成績から、昇進は時期尚早だったと見る向きが多いが、大関時代の九年、横綱昇進後の十年と二年連続大日本相撲選士権大会に優勝しているように、実力的には玉錦に匹敵する角界の第一人者であった。

 当時、この大会は本場所以外では最も権威のある大会だった。実質的な東西総当り制であり、番付上位者の優勝という規定もないため、全ての力士に平等に優勝の機会があった。そのうえ、最後まで勝ち抜いた力士は前年度優勝者との三番勝負が義務付けられていたため、奇策を用いた番狂わせも起こりにくい。

 七年、八年と連覇したのは自他共に認める最高実力者の玉錦だったが、二年連続して武蔵山に覇権を奪われ、十一年に悲願の覇権奪還を果たした時は、武蔵山は怪我で出場していなかった。

 したがって武蔵山は、新横綱として大日本相撲選士権大会を制していることも含め、昇進時には玉錦と双璧の実力者だったが、その後の巡業などで古傷が悪化し、本場所までに回復することなく強行出場したことが土俵人生を大きく変えてゆく原因となったと見るべきであろう。

 結果、武蔵山は歴代横綱の中では陰が薄い存在になってしまったが、栃木山の引退から双葉山の台頭まで、相撲史に残る数々の死闘を繰り広げている点において、記憶に残る力士ではあった。

 休場が多い横綱だったため、あまり披露する機会がなかった横綱土俵入りだが、こちらの方はギリシャ彫刻のように勇壮で凛々しく、玉錦以降の戦前の横綱の中では最も華麗だったという声も多い。

 所作の美しさは常ノ花の露払いを務めていた頃から際立っており、太刀持ち天龍も含めた常ノ花の土俵入りが、三者のバランスが最も優れていたと言われている。


 引退後は早々と角界を離れ、様々な事業を興したがどれも上手くゆかなかったばかりか、土俵人生のその悲劇性を強調するかのようなまがいものの自伝まで本人に無断で出版され、墜ちたヒーロ ーのイメージが定着したのは気の毒だった。

 晩年は知人と始めた不動産業が軌道に乗り、息子の角界入りの際には久々にマスコミの前に姿を見せたが、結局大成することなく親子ともども世間から忘れ去られていった。

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