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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第31話 二所の荒鷲  玉ノ海 梅吉(1912-1988)

近年の大相撲の辛口解説といえば、亡き北の富士を思い出すが、昭和の終わり頃は玉ノ海だった。北の富士が現役時代から変わらぬ人を食ったようなユーモラスな語り口で人気があったのに対し、玉ノ海は頑固な性格そのままの辛辣な批評に独特の味があった。彼らのような個性的なご意見番の登場を期待したいものである。

 実力は大関級と評価されながら三役止まりだった力士は少なからずいるが、この人の場合は大関を通り越して横綱とほぼ互角に渡り合った昭和以降最強の三役力士と言えるのではないだろうか。

 全く苦手がいなかったといっても過言ではないほど、ほぼ全ての対戦相手に勝ち越している羽黒山が最も苦戦したのが玉ノ海で、対戦成績は羽黒山の一勝二敗一引分となっている。

 二回以上顔を合わせて羽黒山が負け越した相手は、玉ノ海の他には土俵生活の晩年に対戦した朝潮(〇勝二敗)だけで(二度の不戦敗で負け越した備州山は除く)、双葉山と直接対決の機会がなかったにせよ、対戦一回で黒星を喫した玉錦と対戦成績五分の千代の山の他は男女ノ川、安芸ノ海、前田山、照国、東冨士、吉葉山、栃錦、若乃花といった新旧の横綱に全て勝ち越しという安定感は歴代横綱の中でもトップクラスであった。

 その羽黒山が四度目の対戦まで玉ノ海に勝てなかったのは、その代名詞でもあった怪力右腕にある。

 玉ノ海の右で前褌を取られたら最後、同時代の横綱、大関といえどもこれを切って有利な体勢に持ち込むことはほぼ不可能と言われていた。

 左腕よりも六~七センチ太かった玉ノ海の右腕は、三段目の頃、小野ヶ嶽という巨人力士との稽古の最中に左腕を痛めたため、しばらくの間右腕だけで稽古していた結果鍛え上げられたものだ。

 一七六センチ一〇九キロという軽量ながら、腕力だけなら幕内随一の巨人横綱男女ノ川が得意の泉川に極めても、右からの引き付けを抑えられずに腰が浮いてしまうほどの怪力ぶりは上位陣の恐怖の的だった。 

 羽黒山もこの右は常に警戒していたのだが、十三年一月の初顔では左上手をがっちり取りながら玉ノ海の右下手投げで吹っ飛ばされ、翌場所も右を取られて何もできずに突き出されるという力自慢の彼らしからぬ敗北を喫している。

 十四年一月場所の対戦は、左を差して右前褌を取った羽黒山が頭を付ける万全の体勢だったにもかかわらず、玉ノ海の万力のような右で動きを封じられれ、水入りの末に引き分けという大熱戦だったが、土俵を降りた羽黒山の右腕は痙攣していたという。

 羽黒山は引退にあたって現役時代の忘れられないライバルとして前田山と玉ノ海の名を挙げているが、綱を張った前田山はまだしも、これほどの大横綱が三役止まりの力士に敬意を表していたのは、自身が唯一力負けした相手だったからだろう。


 玉ノ海が苦手としたのは、安芸ノ海や前田山のようなスピードで撹乱する力士だけで、力相撲で挑んでくる武蔵山に二勝〇敗、男女ノ川に四勝四敗、照国に二勝一敗と、横綱相手でも全く引けを取らなかった。大関経験者では五ツ島に六勝二敗、増位山に三勝三敗、名寄岩に二勝二敗、清水川に一勝〇敗、汐ノ海に〇勝一敗と数字の上でも大関を越えている。

 とにかく右を差せば梃子でも動かず、右肘を張って腰を振りながら相手の左を切る巧さも絶品だった。それゆえに右腕一本に依存した不恰好な相撲が多かったが、差し手が早く、変化にもついてゆける強靭な足腰があったため、手取り力士の奇襲戦法も滅多に通じなかった。

 そんな彼がお手上げだったのが、同い年で親友の双葉山である。双葉山は稽古場で玉ノ海に右で前褌を取らせても微動だにせず、「玉、もうええのか」と一声掛けてから左から抱え込むようにして投げ飛ばしていた。

 十三年五月場所は右で前褌を取って双差しという磐石の体勢に持ち込み、四連覇中の双葉山も防戦一方で連勝が止まるかと思われたが、絶対有利な玉ノ海の方がじわじわと土俵際に追い詰められ、寄り切られている。これが双葉山の強さで、稽古場ではあの羽黒山が全く相手にならなかったというのもわかる気がする。

 玉ノ海はこの後、武蔵山、男女ノ川の両横綱を連破したほか、関脇名寄岩、小結羽黒山といった次代の大関、横綱まで一蹴するほど絶好調だっただけに、悔いの残る敗北だった。


 天下の双葉山をあと一歩まで追い詰め、小結に復帰した翌場所での必勝を誓った玉ノ海を予期せぬ悲劇が襲った。十三年十二月四日未明、盲腸炎のため大阪の病院に入院していた師匠玉錦が急逝したのである。

 玉錦は現役横綱にして年寄二所ノ関として親方を兼ねる二枚鑑札で、十二月三日から三日間阪急梅田駅前で行われる興行の勧進元を務めていた。

 九州巡業を終え別府から大阪に船で渡る前に腹部の痛みを訴えた玉錦は、寄港した今治で診察を受け、盲腸炎と診断されたが、手術を拒んで大阪まで行ったのが致命傷となった。一旦は手術によって命を取り止め、三日の興行は滞りなく行われたが、その夜腹膜炎を併発し帰らぬ人となったのである。

 初場所を控えて師匠を失った二所ノ関部屋は部屋の継承問題で大混乱に陥った。

 この時、古株の力士も何人か候補に上がったのだが、弟子の大半が人望の厚い玉ノ海を推したことで、まだ二十代ということもあり大役を担うことに難色を示していた玉ノ海も最後には折れた形になった。

 現役力士と親方の兼務というのは想像以上の激務で、この決断が玉ノ海の大関挑戦の足枷になったとも言われている。


 十四年一月場所は師匠の弔い合戦の意味合いもあり、玉ノ海は並々ならぬ覚悟で場所に臨んでいたが、「双葉山に勝ってもう一度優勝したい」と口癖のように言っていた師匠のためにも、双葉山にだけは絶対に負けるわけにはゆかなかった。もし負けた時は、二度と二所の敷居は跨がないと心に決めていたという。

 玉錦急逝の余韻も冷めぬ一月場所は、四日目に連勝が六十九で止まった双葉山がよもやの三連敗を喫したばかりか、鏡岩、前田山の両大関、名寄岩、綾昇の両関脇まで序盤でつまずくなど大荒れとなった。

 ライバルが次々と脱落してゆく中、悠々六連勝で優勝戦線を引っ張る男女ノ川と七日目に対戦した玉ノ海は、双葉山から殊勲の星を挙げた安芸ノ海、両国、鹿島洋を三タテした巨漢を真っ向勝負で押し出し、賜杯の行方をさらに混迷させた。

 この余勢をかって臨んだ九日目の双葉山戦では、右を差した後も動きを止めずに掬い投げや出し投げを連発して腰を浮かせておいてから一気に寄って出るという頭脳的な相撲を見せ、遂に親友から本割りでは生涯唯一の勝ち星を挙げることが出来た。

 アメーバ赤痢から回復間もない双葉山が本調子ではなかったにしても、進退まで懸けた執念の勝利は土俵人生の中で最も忘れられない一戦となった。

 場所中は師匠の後を継いだ玉ノ海に対する同情の声が大きく、玉錦の霊前に双葉山戦の勝利の報告に行ったことも美談として話題になったが、玉錦には師匠としての恩義こそ感じていても、人間としては軽蔑に近い気持ちを抱いていた。

 酒乱で喧嘩早いが、太っ腹で男気があるとして、世間では玉錦はいい意味での豪傑と見なされていたが、最後を看取った玉ノ海に言わせると、全くでたらめな人間だったらしい。

 清廉潔白な玉ノ海からすると、先代が筋者とも懇意にしていたことが我慢ならなかったようで、戦後はこの手の反社会的勢力とは一切関係を絶っている。

 性格はさておき、玉錦は昭和五年に長崎県大村市から力士になるために上京した玉ノ海こと蔭平梅吉を二所ノ関部屋に入門させ、三役に育て上げた恩人であることだけは確かである。

 地元の宮相撲では猛者として知られ、筋肉質でガタイの良かった玉ノ海は、昭和六年の初土俵で序ノ口優勝という幸先の良いスタートを切り、九年には幕下優勝。十両は一場所で通過し、十年一月場所に入幕した。

 入幕三年目からは三役の常連になったが、気性が激しく相撲も強引さが目立っていたため、上位には強くても下位に取りこぼすことが多く、大関取りの機会はなかなか訪れなかった。

 昭和十四年一月場所からは四場所連続小結を務めたが、二枚鑑札ゆえの激務が祟って体調を崩し四場所目の十五年五月場所には途中休場を余儀なくされている。

 前頭六枚目まで落ちた十六年一月場所は奮起して十一勝四敗、翌五月場所は小結としては歴代最高の十三勝を挙げ、ようやく大関獲りが現実を帯びてきた。

 昇進のかかった十七年一月場所は東関脇で十勝五敗と昇進基準はクリアしたものの、安芸ノ海と照国が大関の座を占めていたため、西関脇で同じく三場所連続二桁勝利した名寄岩ともども昇進は見送りとなっている。

 セカンドチャンスとなった五月場所は、感冒に倒れて十二日目から休場し、三役の座も失ってしまう。


 玉ノ海は羽黒山をややスケールダウンした感じの筋骨逞しい身体つきで、軽量ながら大型力士にも力負けしない腕力を有しているため、大負けのない力士だった。

 入幕以来、皆勤での負け越しは二場所だけで、そのうち十三年一月場所は千秋楽の磐石戦における水入り後の棄権によって負け越したものだから、引き分け制度がある時代であれば六勝六敗一分の五分で、関脇の座を守ることができていたはずだ(引き分け制度はその後復活)。

 この負け越しで平幕に落ちることがなければ、九場所連続勝ち越し、七場所連続三役ということになるから、この間に最初の大関獲りの機会が訪れていた可能性もある。

 しかし磐石戦で自ら棄権を申し入れたように、常に全力で相撲を取るせいか、初日から千秋楽まで好調を維持するだけの体力に乏しいうえ、見かけとは違って身体も弱かった。

 丹毒に罹患した左腕が使えなくなった十三年一月場所は、右一本で七勝四敗と乗り切れたが、十五年五月場所は現役と親方業の兼務という多忙な日々が続く中で胃腸炎を患い、一勝八敗六休という散々な成績に終わっている。

 昭和十六年からは酒と煙草を断つなど体調管理に気を配る一方、右一本に依存した一気呵成の取り口から自分有利な体勢に持ち込むまで無理をしない臨機応変なものへと取り口を変えていった。

 その結果これまで一度も勝てなかった前田山に連勝し、安定して二桁勝利を挙げられるようになった一方で、じっくりと構えると強い男女ノ川には連敗を喫している。

 大関獲りに失敗した後は、体力的な問題もあって休場しがちになったが、皆勤の場所は全て勝ちこしているように、体調が万全の時の玉ノ海は相変わらず上位にとって最も油断のならない力士だった。

 十九年三月の大阪場所(準本場所)では十三勝〇敗(優勝同点)と、この時平幕とは思えないほど力強い相撲を見せている。すでに番付で逆転され、一月場所では玉錦以来の優勝を二所ノ関部屋にもたらした弟弟子の佐賀ノ花に対する意地のようなものもあったのだろう。

 番付のうえでは昭和二十一年十一月場所を最後に親友双葉山に殉じる形で土俵を去っているが、実際に土俵に上がったのは十九年五月場所までである。

 この場所は初日から七連勝と羽黒山に並走する五ツ海を一方的に下して初黒星をつけたほか、双葉山に勝った大関候補の豊島も右差しから一気に寄り切るなど右を差せば無敵で、千秋楽も新鋭清美川を右差しからの寄り切りで下し、この場所六勝四敗と有終の美を飾っている。


 引退後の二十五年五月には協会理事に推され、元双葉山の時津風取締とともに協会の改革に邁進したが、出羽海理事長と折り合いが悪かったうえ、協会に対する不信感もあって嫌気が差し、翌年九月には部屋を部屋頭の佐賀ノ花(最高位大関)に委ねて廃業した。

 その後協会は三十二年に時津風が理事長になり、懐刀の秀ノ山(元笠置山)とともに部屋別総当り制の実現、茶屋制度の廃止など近代的に刷新されていったが、時津風は外部有識者として玉ノ海の意見には耳を傾け、全幅の信頼を置いていた。

 野に下った玉ノ海は現役時代の四股名のまま相撲評論家となり、後に弟弟子の神風正一とともにNHKの名解説者として戦後の世代にもその名は広く知れ渡った。

 解説者としての玉ノ海は特徴的なダミ声と辛辣な批評で人気があったが、時津風没後の相撲協会からは疎んじられた。それは玉ノ海自身が経験者であるという立場から八百長撲滅を主張したからである。八百長と縁がなかった時津風はともかく、それに加担していた出羽海部屋出身の武蔵川理事長(元出羽ノ花)にとっては耳の痛い話である。

 玉ノ海によると、双葉山の連勝が止まった十四年一月場所、長らく優勝から遠ざかっている出羽海部屋としては、優勝争いのトップに立っている出羽湊を何が何でも優勝させたいという一心で、大関に推挙するという条件付きで玉ノ海に八百長を持ちかけてきたという。

 事実上協会を仕切っている出羽一門の総帥からの依頼を断りきれなかった玉ノ海はこの要求を飲んだが、このことを後々まで後悔し、以後の依頼は全て断っている。“角界の暴君”とも謳われる師匠玉錦の存命中は、八百長嫌いの師匠が目を光らせていたため、いかなる条件を出されようとも絶対に首を縦に振ることなどありえなかったが、師匠の急死により、現役のまま親方衆の仲間入りを果たしたばかりの新入りの立場で、協会トップである当時の出羽海理事長(元両国)の意向に逆らえなかったのは仕方のないことかもしれない。

 玉ノ海が大関になれなかったのは、以後の八百長依頼をことごとくはねつけたことに対する理事長からの圧力ということも十分に考えられる。

 時津風の理事長在任中は、八百長は全くといっていいほど行われていなかったが、柏鵬時代の終わり頃から再び蔓延するようになり、玉ノ海以外からも角界を糾弾する声があがり始めた。

 時津風、秀ノ山がともに早逝したためこの問題は抜本的な解決には至らなかったが、玉ノ海が協会に残っていれば、時津風の下で副理事長という線もあっただけに、角界もがらりと変わっていたかもしれず、早期廃業が惜しまれる。

舞の海は北の富士と組んでいただけあって解説は上手いと思うが、ややスパイスが足りない気がする。そういう意味では貴闘力のトークはある種の危険性も伴って面白いのだが、相撲協会の覚えが悪すぎてNHKから声がかかる可能性は低いだろう。

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