第30話 悲しき猛牛 九州山 十郎(1889-1927)
九州山という四股名はその名の通り九州出身力士特有のものである。年季の入ったプロレスファンなら、力道山時代から馬場、猪木時代までレフェリーとして活躍した元力士九州山義雄のことを覚えておられるに違いない。九州山義雄は最高位が小結までだったが、大正時代に活躍した九州山十郎は大関まで昇進した福岡出身力士の中では同じ時代きっての大物である。九州山十郎の名が今日地元でもほとんど知られていないのは、まるで線香花火のような土俵人生だったからである。
福岡県直方市出身の魁皇が平成十二年秋場所後に大関に推挙された。江戸末期から大正期にかけて強豪力士を輩出した福岡県も、それ以後はあまりぱっとせず、大関は八十年ぶりのことだった。
魁皇は優勝五回を記録し、昭和以降最強の大関と謳われるまでになったが、その前の大関九州山十郎は近代最低レベルの大関のレッテルを貼られ、同じ四股名で最高位小結の後輩力士よりも地元では知名度が低いのは皮肉なことである。
出世は福岡出身力士の誰よりも速かったにもかかわらず、その輝きは一瞬だった。といっても彼の栄光は他力本願であり、その前半生は稀に見る幸運に恵まれた代わりに、後半生はそのツケを一気に払わされた感が強い。
九州山十郎こと中西十郎(旧姓青山)は福岡県鞍手郡木屋瀬町に生まれ、角界に入る前は遠賀川で船頭をしていた。その一方で地元の素人相撲で大関を張るほどの相撲好きだったため、常陸山一行の佐賀巡業を見物中に両国梶之助からスカウトされるや、さっさと船頭から足を洗って出羽海部屋に入門した。
仕事柄気性が荒く、柄の悪い連中が多かった北九州で喧嘩に明け暮れていたというだけあって、腕っ節の強さだけなら角界でも横綱級で、先輩力士達からも一目置かれる存在だった。
一方で忠誠心も強く、師匠入間川が筋者連中から因縁をふっかけられた時には、その中の一名を殴り殺すほどの大乱闘を演じたこともあるが、おそらく多勢に無勢のうえ相手が先に手を出したため、正当防衛が認められたのだろう、刑事処分は免れている。後日報復にやってきた仲間からドスを抜いて凄まれた時にも、寝転んだまま相手をギロリと睨んで「斬れるもんなら斬ってみやがれ」と啖呵を切り、全員を追い返してしまった。
すでに二十二歳になっていたが、目方も馬力も先輩力士に引けを取らなかったせいか、幕下付出しという好待遇で初土俵を踏んでいる(明治四十四年六月)。
大正二年五月場所に幕下優勝して十両に上がると、これを三場所で通過し、四年夏場所には早くも入幕を果たしている。これは先輩の大錦、同期の栃木山より一場所遅いだけであり、未曾有のスピード出世を続ける大錦、栃木山、九州山は出羽の三羽烏と称された。
新入幕でいきなり七勝一敗一預、翌五年一月場所も八勝一敗一分と大暴れし、入幕以来一度も負け越すことなく六年五月場所後、所要四場所で小結に昇進している。
三役昇進は大錦と栃木山の出世が早すぎて上位が詰まっていたため彼らより遅れたが、関脇に昇進するまでの五場所の通算成績は三十四勝十三敗一分一預で、三十二勝十五敗三分の栃木山を上回っていた。
大錦の上半身をごつくした感じの九州山の武器は、素早い立ち合いからのぶちかましで、頭から突っ込んで左差しから一気に寄り切るのが勝利の方程式だった。
出羽の三羽烏はいずれも速攻相撲を得意としたが、取り口は三人三様で、大錦が相手を研究し緻密な相撲を取る頭脳派力士なら、栃木山は強烈な追っつけと筈押しで褌を取らせずに勝負を決するタイプだった。
面白いのは三人揃って四つ相撲が苦手なことで、立ち合いのスピードと当りの強さが生命線だったが、大錦が相手の動きを読みながら攻め、栃木山が身軽さを活かした臨機応変な相撲が取れるのに対し、九州山は攻めが単調なため、ある程度慣れられてくると思い通りの相撲が取れなくなってきた。特に逞しい上半身のわりに下半身が細く、腰にねばりがないのは致命的とも言えた。
入幕前からこの三羽烏に注目していた相撲記者の中に九州山が一番強くなると予想した者がいたのは、あの太刀山が後ずさりするほど当りが強烈で、筈押しの強さも栃木山以上のものを持っていたからだ。何より稽古熱心で、部屋では大錦、栃木山を尻目に九州山が率先して稽古に励んでいたという。
大関昇進までの上位の対戦は、太刀山には健闘しながらも二戦二敗だったが、鳳(横綱)に三勝一敗、伊勢ノ濱(大関)に三勝一敗、朝汐(大関)に一勝二敗と、上位陣とはほぼ互角であった。
受けて立つタイプの上位には強い反面、叩かれたり投げを打たれると足がついてゆかず、格下相手に勢い余って自爆同然の負け方をすることがしばしばあった。この取りこぼしの多さが祟って、三役昇進後は優勝争いに絡むこともなくなった。
おそらく実力的には三役クラスがいいところだった九州山に降って湧いたような幸運が舞い込んできた。七年一月場所を最後に太刀山が引退し、栃木山が横綱に昇進したことで東方の大関が空位になってしまったため、関脇で四勝三敗一預(二休)の九州山が大関に推挙されたのである。
一月場所の時点では関脇は三人いたが、勝ち越したのは九州山一人であり、横綱鳳に勝っていることも評価されたのであろう。それにしても前場所小結で七勝三敗ということを考えると、常識外れの昇進であることは間違いない。しかも、大甘昇進の恩恵を受けたのは彼だけではなかった。入幕からまだ三場所の小結千葉ヶ崎が三役一場所だけで西方の大関に同時昇進を果たしているのだ。
西正大関朝潮は全休、張出大関伊勢ノ濱も完全に下り坂とはいえ、平幕で六勝三敗、小結で八勝二敗の千葉ヶ崎の飛び級昇進も現在ではありえない。横綱大錦に唯一の土をつけたことを考慮したとしても時期尚早もはなはだしい。何としてでも九州山を大関にしたい出羽海理事長(元常陸山)が、非難の矛先を逸らすために別系統の千葉ヶ崎の同時昇進も画策したのであろう。
大正七年二月、九州山の新大関昇進祝いは新横綱栃木山の初土俵入りと合わせて出羽海部屋に三百数十名の参会者を集めて盛大に行われた。この時新大関の誕生を祝って常陸山後援会幹事を務める東京弁護士協会副会長三宅硯夫が次のような和歌を朗読した。
筑紫より名だたる人の多しとも 君のほまれにしくものぞなし
果たして実力を伴わない昇進は、二人のタナボタ大関の土俵生活に泥を塗ることになった。
千葉ヶ崎が計九場所の大関在位中五度もの負け越しという屈辱を味わったのもさることながら、九州山に至ってはわずか二場所で大関陥落という歴代ワーストタイ記録を残すことになったからだ。
大関昇進当初は馬力のある力相撲に期待を寄せられていた九州山も、この頃から自信過剰に陥ったのか、元々好きだった酒を浴びるように飲み続けた結果、腎臓を病んでしまった。
当時の医学では腎臓疾患を完治させるのは難しい。新大関で迎えた七年五月場所は一勝一分で三日目から休場。翌八年一月場所は何とか皆勤したものの五勝五敗と振るわず、負け越したわけではないにもかかわらず、一気に小結まで陥落という理不尽なまでの降格を味わっている。
この時の九州山は出羽一門ではあっても、彼をスカウトした両国が独立して興した入間川部屋所属となっていた。角界最大規模を誇る出羽海部屋には関脇に常ノ花、対馬洋という有力な力士が控えていたため、彼らを早く昇進させるためには、自己管理能力に欠けた孫弟子はさっさと見切った方がよいという御大の判断があったと思われる。
九州山と入れ替わりに小結で六勝二敗二預、張出関脇で六勝一敗三預の対馬洋を大関に昇進させたのはその証といってもいいだろう。
対馬洋は一九〇センチを超える巨漢で、稽古場では横綱大錦をころころ転がらせるほど強く、まともな練習相手になるのは栃木山一人という状態だったが、すでに三十歳を超え脱臼癖もあったため、将来性には疑問符が付けられていた。案じられていたとおり、期待外れもいいところで、大関二場所目に負け越すと、たちまち関脇に下げられ、後輩の常ノ花が大関に昇進している。
この時期の過去の定石を無視したかのような番付の乱高下を見れば、大関昇進も陥落も出羽海の匙加減一つだったことがわかるはずだ。常陸山は現役時代こそケレン味のない相撲が持ち味で、一門以外の力士にも平等に接する親分肌の男だったが、角界における最高権力者になってからは、次第に横紙破りなところが目立つようになった。
優遇されたのも束の間、あっさり見捨てられた九州山と対馬洋はその最大の被害者といっていいかもしれない。
自らの傲慢さが招いた失態とはいえ、大関からいきなり小結に落とされ、その場所を全休したため、そこから一気に平幕と番付落下スピードも記録的なものだった。
これほど短期間に栄枯盛衰を経験すると虚無感を覚えるようになるのもやむをえないだろう。豪気な九州山も、大関陥落時には隅田川に身投げしようと思ったほど落ち込んでいたという。
彼の名誉のために付け加えておくと、異例のスピード昇進は多分に作為的であったにせよ、好角家からブーイングを浴びるようなものではなかった。それどころか雑誌で特集が組まれるほど期待感の方が大きかった。というのも、九州山の仕切りは周囲に殺気が伝わるほど闘争心がみなぎっており、まるで出入りを控えた侠客のような佇まいに観客の視線が釘付けになってしまうほどの独特のオーラがあったからだ。
勝敗という数字よりも常に真剣勝負に臨む土俵態度こそが九州山の魅力だった。策を弄さない愚直な相撲であっても、全力で相手にぶつかってゆくその姿はまるで闘牛士に対峙した猛牛だった。
彼の不運はまだ終わらなかった。
初土俵時、幕下付出という優遇措置を受けていた九州山は、部屋では先輩にあたる宮城山が三段目に昇進したのを機に大銀杏を結って得意気にしているのを見るや、分不相応と難癖をつけて鉄拳制裁を加えたあげくに、部屋から追い出してしまったことがあった(三段目までは栗髷を結うのが慣例だった)。
部屋を脱走した宮城山はそのまま力士を廃業するつもりだったが、その才能を惜しんだ師匠出羽海は大阪相撲で再出発できるよう計らってやった。宮城山はその後相撲道に精進し、大正十年三月に開催された東西合併相撲初日、大阪方の大関として東京方の平幕九州山との対戦を迎えたのである。
この因縁の対決を制したのは次期横綱の呼び声も高い宮城山の方で、負けた九州山がもはや完全に立場が逆転したかつての兄弟子に昔の無礼を詫び、両者はめでたく和解に至ったという。
宮城山はその後大阪で横綱に昇進すると、東西合併に際しても東京相撲での横綱を承認され、二度の賜杯を手にしている(大阪では優勝四回)。
宮城山が久々に東京相撲に帰参した昭和二年一月場所は、張出横綱として大阪力士の意地を見せ、十勝一敗の好成績で優勝を飾っているが、闘病中だった九州山は場所が始まる一週間前に三十七歳の若さでこの世を去っていた。
九州山にとってはかつて自分がないがしろにした宮城山の晴れ舞台を見ることなく逝ったのはある意味幸運だったと言えるかもしれない。
九州山が引退したのは大正十一年一月場所後のことだが、その一場所前には同時期に活躍し、大関の座を競い合っていた同郷の大潮も、大成することなく土俵を去っている。
大正の中頃は福岡県出身のこの二人が地元では梅ヶ谷以来の大物として騒がれていただけに、揃いも揃って酒で身を持ち崩したというのは同県人のファンにとってはなんともやるせないことだったろう。しかし、エキセントリックな性格が災いして角界に居場所がなくなった大潮に比べると、粗暴なところはあっても、義理堅い熱血漢だった九州山の方は、師匠常陸山の急死後、急遽部屋を継ぐことになった元両国の出羽海梶之助から親方の補佐役に抜擢されるなど、引退後は厚遇されている。
惜しむらくは、すでに健康を害しており梶之助の期待に応えられなかったことであろう。
何事も時期尚早というのは大きなリスクを伴うものである。大相撲ロンドン公演までに空位の横綱の席を埋めるために、協会が半ば強引に昇進させた豊昇龍が全く冴えないのもその一例である。白鵬のように横綱相撲にこだわらず、エルボースマッシュをぶちかましたり、変化したり、勝つために手段を選ばなければ、あの気迫と運動神経を考えれば、安青錦や伯桜鵬にあれほど一方的に負けることはないと思うのだが、横綱相撲で勝ちたいというプライドが実力の伴わない地位とかみ合っていないがゆえの現状なのだろう。九州山も男気があって一途な性格ゆえに、そういう陥穽にはまってしまった可能性がある。




