第3話 狂える白象 小錦 八十吉(1866-1914)
昭和の小錦ではなく、明治の小錦である。昭和の小錦もユーモラスな言動で人気があり、記憶に残る力士だったが、明治の小錦は人気だけでなく、新入幕から三十九連勝などという、まず更新不可能と思われる記録を持つ、人気、実力を兼ね備えた名横綱だった。
「小錦」と聞くと、昭和生まれはのちにタレントに転進したハワイ出身の巨漢大関のことを頭に思い浮かべるに違いない。しかし、ここで紹介する小錦は幕内最重量を誇った“昭和の小錦”とは全く好対照といっていいほどの豆力士でありながら、横綱まで上り詰めた初代小錦である。
小錦八十吉こと岩井八十吉は、慶応二年十月十五日に千葉県山武郡横芝町に生まれた。実家は「総州楼」という宿屋兼料亭で、彼の死後も八田琴平神社とともに地元の老舗料亭として有名だった。
地元の宮相撲で大関を張った父弥市が、旧知の関取響矢(後に高見山と改名)を通じて八十吉を高砂部屋に預けたのが明治十三年、十四歳の時である。ところが、相撲など全く興味が無く、父が相撲を取るところさえ見たことのない八十吉は、厳しい稽古に耐え切れず、早く暇をとって故郷に帰ることばかり考えていたという。そのうち脚気と皮膚病を病み、様子を見に来た父に頼んで一旦は角界から足を洗っている。
それでも一度は相撲部屋の飯を食った男である。宮相撲などにかり出されて勝っているうちに、相撲の面白さがわかってきた。そうなると居ても立ってもいられない。ちょうど隣の粟生村で相撲興行が打たれたのを幸いに、同地出身の響矢に再び頼み込んで高砂部屋に帰参することが出来た。
八十吉が角界に復帰して間もない明治十七年頃の高砂部屋と言えば、師匠高砂浦五郎が正取締として事実上の協会トップに立つ一方で、関脇西ノ海(最高位横綱)、小結大達(最高位大関)といった役力士のほか、後に大関となる一ノ矢、朝汐など弟子運にも恵まれ、今や新興勢力として日の出の勢いにあった。
元来、小心で甘えん坊なところのあった八十吉も、「今度は一人前になるまで二度と故郷に帰らない」と父に大見得を切っているため後には引けず、荷物運びで日に十里から二十里も歩かされる地方巡業や連中との荒稽古にも耐え抜いた。特に同郷のよしみで熱心に指導に当たってくれた響矢の存在は大きく、小兵ながらスピードを生かした取り口で、みるみるうちに頭角を現していった。
明治二十一年一月場所に十両、五月場所で入幕を果たしているが、この時まだ二十二歳の若さである。年六場所時代の今日ならともかく、年二場所しかない時代としては異例の出世ぶりといえよう。なにしろ、西ノ海、大達ですら新入幕はそれぞれ二十七歳と二十八歳の時である。
ところが小錦の本当の凄さはこれからで、なんと入幕以来土付かずの三十九連勝というとんでもない記録を残している。
新入幕の場所で土付かずというのは、戦後では昭和二十年十一月場所において、千代の山が優勝力士羽黒山と同点の十勝〇敗という成績を挙げたのが唯一の例であり、入幕から五場所もの間負け知らずというのは小錦だけが持つアンタッチャブルレコードである。しかも入幕から四場所連続優勝というのだから恐れ入る。これは江戸時代の横綱雲龍久吉が嘉永五年から六年にかけて記録して以来の快挙だが、雲龍は入幕二場所目に黒星をつけられているため、入幕からの連勝は十五で止まっており、この点では小錦には及ばない。しかも雲龍の入幕以来の十五連勝は史上二位に当たり、三位が常陸山の十四連勝である。三十九という数字がいかに驚異的であるかわかるだろう。
記録は破られるためにある、とはいうものの、この記録ばかりはあまりにも突出しすぎて永久に更新されないように思われる。双葉山の六十九連勝も、白鵬が二位タイの六差まで迫り、大鵬の優勝回数三十二回も千代の富士が三十一回で挫折した後、約四十年ぶりに白鵬に塗り替えられたように、いかなる大記録も更新は出来ないまでもその牙城に迫ろうとする力士が何十年に一度かは現われるものだが、小錦のこの記録だけは百年もの間、誰一人として更新を期待される力士さえ現われていない。
入幕五場所目の明治二十三年五月場所、依然として幕内で土つかずのまま、当時としては史上最年少、二十四歳の若さで大関に昇進した。
奇しくもこの場所は部屋頭の西ノ海も横綱に昇進しているが、小錦が連勝中に唯一優勝出来なかった二十二年五月場所に、九戦全勝で優勝を飾っているのが当時関脇の西ノ海であった。裏を返せば、この両雄が相部屋であったため、お互い星をつぶしあうことがなく、ともに白星を重ねることが出来たとも言える。
とはいえ、当時の勢いからすれば小錦の方に分があったことは間違いない。むしろ横綱昇進を決定づけた二十三年一月場所が七勝二敗だった西ノ海にとって、同時代最強の小錦と競い合わずに済んだからこそ、運よく綱にたどりつけたと言うべきであろう。
また、二十三年五月場所というのは、東京の番付に初めて横綱の名が載った記念すべき場所でもあった。それまでの横綱というのはあくまでも「尊称」に過ぎず、番付上の最高位は大関であったが、この場所以来、横綱は最強力士を表す番付上の地位となったのである。ちなみにこの番付では東の横綱が西ノ海、大関が小錦、関脇が一ノ矢と高砂勢が上位を独占しており、その繁栄ぶりが伺える。
体重こそ当時の力士平均を上回る一三〇キロあるが、身長一六八センチという歴代横綱中最小兵の小錦がこれほどの強さを発揮した理由は、ずばり出足の鋭さにあった。
スピードが重要視される近代相撲と違って、明治・大正期の相撲はがっぷり四つに組んでからの力比べというスタイルが一般的で、互いに相手の隙を伺いながらじっくりと攻め合うため、勝負時間も長かった。
そんな中で、立合いからの鋭い踏み込みで、相手の懐に飛び込みざま、一直線に寄り切るか、中腰のまま、まだ膝が伸びきっていない相手を上から叩き落とす小錦の相撲は、まさに秒殺と言ってよく、他力士とは一線を画していた。全てが悠長な時代だっただけに、小錦戦は「行司がはっけよいの掛け声と同時に軍配を引いた時には、もう勝負がついている」とさえ言われたものである。
現代と比べると動作が鈍重な力士が多い中、色白で小太りの小錦が、息をもつかせぬ怒涛のラッシュで対戦相手を蹴散らすさまは「白象が狂うがごとし」と形容された。
かりに組みとめられても、小回りが利くため、回りこむのが非常に早く、常に自分が有利な体勢に持ち込めた。
稽古場での小錦は、物凄い形相で飽きることなく柱にぶつかってゆくさまが狂気じみていたと言われており、「白象が狂う」という表現もあながち誇張とは言えない。稽古場でさえ尋常ではないほどの気迫が周囲に伝わっていたことを考えると、土俵上で正対した相手力士はそれこそ蛇に睨まれた蛙のように取り組む前から気持ちのうえで飲まれていたに違いない。
また、彼は力士にしては美男であったことから錦絵が飛ぶように売れ、その人気にあやかって小錦織なる織物まで発売されている。日本の相撲文化を紹介する海外向けの書籍でも小錦のポートレートが一番人気だったというから、さしずめタレント力士の開祖とでもいうべき存在だったのだろう。
小錦が横綱に昇進したのは、兄弟子西ノ海が引退した直後の明治二十九年五月のことである。入幕以来、まだ六敗しかしておらず、三十歳という年齢も当時としてはかなり若い部類であった。
ところが、角界の頂点に立った頃にはピークを過ぎつつあった小錦は、押し相撲の宿命とでもいうべきか、動きに俊敏さを欠くようになったたうえ、受けて立つ横綱相撲に徹しようとしたため、格下にも取りこぼすことが多くなった。
新横綱人気で盛り上がった二十九年五月場所初日、前頭十枚目の狭布ノ里に土俵際逆転の突き落としで敗れたのがケチのつき始めだった。立ち合いから一気に土俵際に追いまれた狭布ノ里が体をかわしながら捨て身の叩きこみを見せると、追い詰めた小錦の方が踏ん張りきれずに土俵に横転したが、勝ち名乗りを受けた狭布ノ里の方は自分が先に土俵を割ったと勘違いしたのか、しばし呆然とするほどの際どい勝負だった。
翌日の新聞の観戦記で、相手をみくびって詰めが甘くなったと酷評されたことで、その後は慎重になり、残りの八日間は土つかずで横綱の面目を保ったが、この一敗が響いて優勝は鳳凰にさらわれている。
ところが三十年一月場所初日に新入幕の荒岩に、五月場所も初日に前頭八枚目の小松山に金星を献上と続くと、相手力士も小錦の敗北は偶然ではなく、力量が落ちてきた結果であることを確信するようになった。こうなると金星を挙げて給金を稼ぎたいという若手力士が増え、小錦戦に全力で向かってくるのは必定である。
元来攻めが単調で腕も短い小錦は、長い相撲になると不利である。加えて、なまじ若い頃から無敵ぶりを謳われてきただけあって、小錦を倒して金星を挙げることが若手力士のステイタスになり、小錦戦となると全力で挑んでくる力士が増えてきたことも肉体的な負担となったようだ。
勝ち続けている時は取り組む前から相手力士の方がすくみあがっていたのが、逆に小錦の方が負ける不安に苛まれるようになってはおしまいである。気の弱さが仇となって別人のように勝てなくなってしまった。
当時読売新聞の編集員として相撲評論などを著した小説家の上司小剣は、技量は十分だが、小胆で鷹揚さに欠けるきらいがあり、ここ一番の大勝負で緊張のあまり自分の相撲が取れないことを指摘している。
横綱になってからはファンの期待にそぐわない場所が続いたが、源氏山が太刀持ちを務める横綱土俵入りは、明治期の中でもとりわけ豪華絢爛との評判だった。
小錦の横綱土俵入りは、現存する映像記録としては最も古い土俵入りとして知られており、画像は粗いものの、当時の雰囲気を伝える貴重な史料となっている。
温厚な模範青年で読書家でもあった小錦は、綱を張るようになってからも奢ることなく師匠にも
従順だったため、アクが強く角界の独裁者的存在だった高砂も、小錦のことはわが子のように可愛がっていた。
引退後は年寄二十山を襲名し検査役になったが、大正三年の九州巡業中に筋肉炎を発症し、九州帝国大学病院で入院加療中に亡くなった。
小錦は、現役当時ブロマイドが飛ぶように売れたというだけあって、絵葉書やブロマイドの現存数も多く、気長にヤフオクでも検索していれば、それほど苦労せずに手に入れられるうえ、映像が残っている最古の横綱でもあるため、100年以上も前の力士にしては結構身近に感じてしまう。