第29話 土俵の神童 照国 萬蔵(1919-1977)
令和七年秋場所は、安青錦が十五日制“定着後”初となる入幕から四場所連続二桁勝利という驚異的な記録を作ったことが、スポーツ報道では大きく取り上げられたが、“定着後”という付帯条件がミソである。なぜなら、昭和十四年からの“十五日制採用後”となると、安青錦すら比較対象にもならない別格の記録が存在するからである。その記録の持ち主こそ、ここに紹介する横綱照国である。照国の新入幕からの連続二桁勝利は十一場所にも及び、その全てが十一勝以上と危なげなく二桁をクリアしている。安青錦がこれを更新するにはさらに一年以上二桁勝利を続けなくてはならないが、今の勢いを継続できれば、我々は歴史の生き証人になれるかもしれない。
大鵬、北の海以前の横綱昇進最年少記録の持ち主である。
年六場所制が定着した昭和三十三年以降は、種々の最短記録、最年少記録、通算記録など場所数が少なかった時代の偉大な記録のほとんどが塗り替えられてしまったため、かつては何かの記録更新のたびによく取り上げられていた照国の名が聞かれなくなって久しい。
照国が横綱に推挙されたのは二十三歳の時で、二十一歳の北の海、大鵬、二十二歳の柏戸、貴乃花、朝青龍、白鵬がいる今となっては驚くほどの若さというわけではない。ただし幕内での所用場所を比較すると、戦後最短である大の里泰輝の九場所を下回る七場所しか要していない。
これは歴代最短である大錦卯一郎の五場所には及ばないものの、栃木山と並ぶ史上二位の記録である。スピード出世の代名詞的存在の羽黒山ですら九場所を要していることを考えれば、異例の速さといえよう。もっとも、年二場所時代は現在より番付の上下動が激しかったことから、同列に比較は出来ないという意見もあるが、勝率を見れば必ずしもそうとは言えないことがわかる。
まず、最短記録保持者の大錦だが、新入幕から横綱昇進までの成績は四十二勝七敗、勝率にすると八割五分七厘ですば抜けて高い。それに続くのが照国の八割ちょうど、栃木山が七割七分三厘で、この三力士は、東富士の七割四分八厘、大鵬の七割四分三厘、羽黒山の七割四分を遥かに凌ぐ高勝率で番付を駆け上がってきたことがわかる。ちなみにかの双葉山でさえ七割ちょうどである。
また、照国の時代は一場所十五日制採用以降であるため、場所ごとの成績は現代の力士の記録と並べて比較することが出来る(但し十九年五月から二十四年一月までの日程は変則的)。すると、昭和以降の新入幕からの連続二桁勝利は、令和七年九州場所までの時点で五場所連続が安青錦ただ一人で、三場所連続が阿武咲と大の里、二場所連続ですら豊島、千代の山、若乃花(初代)、玉乃海、佐田の山、白鵬の六人しかいない中、照国は何と十場所連続で他を圧倒している。それも全ての場所が十一勝四敗以上と安定感も申し分ない。
惜しかったのが入幕二場所目に七勝八敗と負け越した後、九場所連続二桁勝利で横綱に推挙された大鵬だが、照国の記録は誰もそれを意識するところまで記録を伸ばせなかったため、話題にのぼることさえなかったのだ。入幕は二十歳の時だったが、童顔で高校生くらいにしか見えなかったことを考えると、まさに怪童というにふさわしい力士だった。
新入幕の昭和十四年夏場所は、場所中に虫垂炎と診断されながら強行出場を続け、十一勝四敗の好成績を挙げたものの、無理が祟って患部が悪化していたため、手術後に重篤になり、再起不能説も飛び交った。それでも秋巡業には腹にガーゼをあてがった状態で参加するなどベビーフェイスに似合わず根性があった。
十五年一月場所は病み上がりとは思えぬ活躍ぶりで(十二勝三敗)見事再起を果たし、場所後に早くも関脇に昇進した。この場所十日目には横綱男女ノ川を下して初金星を獲得しており、これに匹敵するのは、同じく新入幕二場所目の十四日目に千代の富士から金星を獲得したハワイ出身の小錦だけである(初土俵から初金星までの所要場所数は小錦、友風、安青錦の二十場所が最短記録だが、友風、安青錦ともに入幕から三場所目である)。
関脇二場所目となる十六年一月場所は、風をこじらせて四十度の高熱に見舞われながら十二勝三敗と大関への足がかりを築き、五月場所後には入幕から所用五場所で大関という超スピード出世を遂げた。これは大錦卯一郎の三場所、前田山英五郎の四場所には及ばないまでも、羽黒山と並ぶ史上三位の早さである。
昇進前三場所で三十六勝九敗(勝率八割)というのも、一場所十五日制以降では豊山、北天佑の三十七勝八敗(勝率八割二分二厘)に次ぐ文句のつけようがない好成績である。
前田山や羽黒山の時代は十三日制から十五日制への過渡期であり、勝ち星での比較はできないが、勝率は明らかに照国の方が上である。ちなみに昭和以降の力士で大関昇進前三場所の最高勝率記録は武蔵山の八割七分五厘(二十八勝四敗)となっている。
照国は一七三センチの短躯ながら一五〇キロ超のあんこ型で、一見動きが鈍そうであって、動作に無駄がなく、テンポのよいリズミカルな攻めは「桜色の音楽」と形容されるほど芸術的だった。
肥満体型にもかかわらずバランスがよく、いなしやはたきでも前に落ちないため、長身の力士にとってはやりにくい相手だった。また、足が短いわりには外掛けも巧みで、前田山、東富士、吉葉山、千代の山、若乃花といった後輩横綱たちが軒並みこれで苦杯を舐めている。
四つに組んでも寄り身だけでなくタイミングの良い投げ技にも定評があった。不利な体勢になっても、連続して投げを打ちながら相手のバランスを崩しつつ、自分の重心を下げて磐石の体勢に入れ替えるさまはまさに名人芸だった。そのため横からの攻めも苦にせず、ほとんど欠点らしい欠点がなかった。似たタイプの力士を挙げるとすれば全盛時の北の湖が最も近いかもしれない。
北の湖はあの巨体からは想像がつかないほど出足が速く腰も重かったが、横綱昇進当初は勝負を急ぎすぎて攻めが強引になる欠点があり、輪島にじらされて墓穴を掘ることが多かった。これといった欠点のない照国も同様の傾向があり、長丁場になると相撲が雑になった。
頭脳派の笠置山は、照国の攻めの裏をかくような相撲を取り、若きホープを困惑させた。昭和十六年五月場所では、笠置山に散々かき回されて潜り込まれ、頭捻りの奇手でひっくり返されたこともある。
昭和十七年五月場所後、ライバル安芸ノ海とともに横綱に推挙される。二十三歳四ヶ月での昇進は、当時史上最年少だった。
昇進前の二場所、安芸ノ海が十三勝二敗、十三勝二敗(優勝同点)で連続準優勝だったのに対し、照国は十二勝三敗、十三勝二敗(優勝同点)で今日の昇進基準であれば見送られてもおかしくなかった。それでも入幕以来の勝率が一流横綱をも越える八割に達している抜群の安定感と、五月場所の優勝力士双葉山に土をつけていることが高く評価されたのだ。それほど双葉山に勝つのが至難の業だったということだろう。
新横綱として迎えた十八年一月場所は終盤まで四横綱によるデッドヒートが展開された。なにしろ双葉山、羽黒山、照国の三横綱が十二日目まで全勝という安定ぶりで、一敗の安芸ノ海まで誰が優勝してもおかしくない展開だった。
十三日目に全勝の羽黒山が直接対決で安芸ノ海に敗れて一歩後退したため、いよいよ十四日目結びの一番、双葉山対照国の全勝対決が事実上の優勝決定戦となった。というのも、この日大関前田山に打棄りで敗れた際に左足親指に裂傷を負った安芸ノ海が千秋楽を休場するのが決定的であったため、安芸ノ海戦の不戦勝が決定している双葉山は最低でも十四勝一敗となり、同部屋で直接対決のない羽黒山が仮に千秋楽に勝っても十四勝一敗で番付上位の双葉山を越えることは出来ない。つまり、照国がここで負ければ、双葉山の全勝優勝が事実上決定するのだ。
結びの一番は初優勝の悲願に燃える照国が得意の右四つになるが、不利な左下手でも円熟期にある双葉山の守りは堅く、水入りの大熱戦となった。水入り後も膠着状態が続き、行司が二度目の水入りによる引き分けを宣せようとした瞬間、肩で息をしていた照国の疲労がピークにきたのを見計らったかのように双葉山が強烈な下手投げで照国をぐらつかせるや、両腕で挟み込むように一気に前に出た。
重心の低さには定評がある照国は徳俵を背負ってもまだ若干の余裕があった。右に反りながら寄ってくる双葉山を太鼓腹に乗せて打棄ろうとしたところ、左の差し手を抜いた双葉山に胸を突かれそのまま寄り倒された。双葉山は打棄りの達人だが、それを防ぐ技術も一流だったのだ。
負けたとはいえ、勝負を裁いた第十八代式守伊之助が「軍配を持っていてあんなに力のこもった一番は後にも先にもありませんでした」と後日感慨深げに回想したこの一番、起き上がった照国の胸には双葉山の手形がくっきりと残っていたほどの力相撲だった。多くの好角家からも「梅ヶ谷、常陸山戦以来の好勝負」と絶賛され、照国も大いに自信をつけた。
千秋楽、照国は羽黒山を寄り倒して十四勝一敗とし、堂々たる準優勝でこの場所を終えた。
これといった苦手もなく安定感抜群の照国がなかなか優勝に手が届かなかったのは、戦前は双葉山、戦後間もない頃は羽黒山という近代十傑に入るような大横綱が立ち塞がっていたからである。
照国自身はこの両者に対しても対双葉山三勝二敗、対羽黒山六勝八敗とほぼ互角に渡り合っているのだが、双葉山と羽黒山が同部屋のため対戦がないのに比べると、この両者と対戦しなければならないのは大きなハンデだった。
双葉山の引退後数年間は、羽黒山の全盛時代に当たり、戦後体調を崩していた照国には厳しい土俵が続いた。ようやく初優勝できたのは昭和二十五年九月場所で、横綱に昇進してすでに八年も経過していた。
翌二十六年一月場所は全勝で連続優勝を飾ったが、これが最後の輝きだった。
横綱在位十年で優勝二回(全勝一回)は、場所数が少ない時代とはいえ羽黒山の在位十二年で七回(全勝四回)とはかなりの隔たりがあり、記録の上からは羽黒山が圧倒しているようにも見えるが、苦手力士がいないことではこの二人が同時代の双璧であることは間違いない。
むしろ部屋での稽古では羽黒山でさえほとんど歯が立たなかった双葉山に本割りで勝ち越していることを考えると、横綱対決では双葉山に全敗の武蔵山、男女ノ川は言うに及ばず、生涯一度しか勝つことができなかった安芸ノ海や前田山よりは明らかに存在感は上である。
現役中に師匠楯山(元幡瀬川)の養女と結婚して大野姓となり、引退後は伊勢ヶ浜を継承した。
大関清国を育てあげるなど、親方としても実績を残し、昭和四十九年の理事長選に推された時は、予備選の段階で一票差で惜敗するほど人望も厚かったが、争いを好まない性格から、本選を辞退して理事職に留まる道を選んでいる。
予備選直後に心筋梗塞に見舞われてからは体調を崩しがちになり、五十二年の理事会出席後に急逝した。五十八歳没。
九州場所開催中ということもあって相撲エッセイが続いたが、安青錦の感動的な奮闘に免じてご容赦願いたい。安青錦の優勝は戦災に苦しむウクライナ国民にとって一服の清涼剤であると同時に大きな誇りになったに違いない。小柄な安青錦が大型力士を蹴散らすさまは大国ロシアとがっぷり四つで戦うウクライナを象徴しているようだからだ。安青錦は大の里が塗り替えた数々の記録にタイ記録として名を連ねることになったが、来年度の初場所、春場所の成績次第では、大の里を抜き、照国に並ぶ横綱昇進までのスピード記録も夢ではない。前傾姿勢で腰が重く取りこぼしに少ない安青錦は照国に通じるところがあるので、今後も照国の記録を意識して精進してほしいものだ。




