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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第28話 奈落の平蜘蛛  玉椿 憲太郎(1883-1928)

小兵の業師というと、小柄な身体とスピードを生かして、大きな相手にはまともに組まずに変化技で仕留めるのが常道だが、玉椿は150cmそこそこの超小型でありながら褌を取って相撲が取れる力士だった。前褌を取って食い下がれば、あの常陸山も手の打ちようがないというほどの重心の低さとしぶとさは一種の奥義と言ってもいいほどだった。


 玉椿こと森野健次郎は、明治十六年十一月十日富山県新川郡下条村の富裕な農家に生れた。

 東京相撲に憧れ一歳年長の友人が上京するのに便乗して小石川で活版屋を営む叔父の家に転がり込んだのが明治二十九年十二月のことである。一五〇センチそこそこの上背で七〇キロにも満たない体重ではまともに取り合ってくれる相撲部屋などあるはずもなく、叔父の知人の紹介で訪ねた浜町河岸の雷部屋でも再三門前払いを食ったが、あまりのしつこさに親方(初代梅ヶ谷)もついに折れ、「相撲取りは身体が元手だが、お前は度胸がいいし力もある。ウドの大木よりましだな」といって入門を許してくれた。

 相当な覚悟で家を飛び出してきただけあって、玉椿は死に物狂いで稽古に励んだが、まるで肥満児童のような豆力士が、体力の限界が近づくにつれ死人のように青ざめた顔になってゆくのを見ているうちに、兄弟子たちも気持ちが悪くなり、胸を貸すのをいやがったという。

 明治三十年に初土俵を踏むと、三十六年春場所後に駒ヶ嶽と揃って入幕を果たした。この場所の十両優勝は二枚目の駒ヶ嶽(八勝二敗)だったが、三枚目の玉椿は本割りで駒ヶ嶽に勝っているにもかかわらず、七勝一敗一預一休でわずかに及ばなかった。

 それにしても年二場所の時代に十九歳で入幕というのは異例の速さである。十両昇進時の十八歳六ヶ月という年齢は、部屋で最も将来を嘱望されていた未来の横綱梅ノ谷(後に二代目梅ヶ谷を襲名)の十八歳九ヶ月さえしのぐものだ。

 玉椿の順調な出世は、現役力士である鬼ヶ谷(最高位小結)の指導によるところが大きい。鬼ヶ谷は五十二歳まで関取を務めた明治の名物力士で、玉椿が付き人になった時はすでに四十二歳の大ベテランだった。角界の酸いも甘いも味わい尽くした鬼ヶ谷は、田舎出の学童同然の玉椿にとっては、相撲のみならずこの世界における処世術までありとあらゆることを教えてくれる専属コーチのような存在だった。

 鬼ヶ谷はその四股名の通り情け容赦のない鬼コーチだったが、指導力に優れ、小柄な身体を生かした相撲を徹底的に叩き込んだ。そういう意味では、この稀代の怪力士の育ての親は鬼ヶ谷といっても過言ではないだろう。性格的に気難しい玉椿は、同郷の先輩で入門時には色々と気配りしてくれた梅ノ谷に対しても時に逆らうことがあっただけに、父親のような包容力で接してくれた鬼ヶ谷のがいなければ、部屋の鼻つまみ者としてとっくに潰されていただろう。


 玉椿の仕切りは、両肘を土俵に触れそうなところまで下ろす極端に低いもので、真上から見ると四本足の蜘蛛のようであることから、俗に「平蜘蛛」と呼ばれる。この低い体勢から相手の前褌に飛びつくや、重心を落として食い下がるといういささか不恰好な取り口だったが、小型軽量にもかかわらず、重量級の力士が揺さぶっても土俵に根が生えたかのようにしぶとかった。

 立ち合いが低すぎて突っ張ろうにも突っ張れず、はたき込みや引き落としもタイミングを間違うと懐に潜られ頭をつけられてしまう。こうなるとさらに厄介だった。常陸山でさえ、玉椿にこの体勢を許してしまうと引き分けに持ち込むのがやっとだった。それは強引に吊れば内掛けが、寄れば下手捻りか頭捻り(ずぶねり)が待っていることがわかっていたからだ。

 玉椿の得意技は内掛けと頭捻り、そしてそれらをミックスした奇手、三所攻めである。

 頭捻りというのは、相手の片腕を抱えた状態で胸か腋に頭をつけて押しながら、相手が押し返した瞬間につっかい棒を外すように頭を捻ると同時に下手投げを打つのである。そのまま横転すれば決まり手は頭捻りとなり、バランスを崩したところにさらに差し手に捻りを加えて勝負が決すれば下手捻りとなる。

 三所攻めは、頭をつけて押しながら内掛けで攻め、それでも踏ん張られた場合はさらにもう片方の足を渡し込むようにする、いわゆる三点同時攻撃の必殺技で、平成以降で有名なのは平成三年九州場所の曙対舞の海戦である。最後は舞の海が掛けた右足が外れたため決まり手は渡し込みだったが、そのまま曙を押し出していれば決まり手は三所攻めになっていた。決まり手以前に、三所攻めを使う力士すら今日ではほとんど見られない。

 玉椿はこの体格からは想像がつかないほどの腕力があったので、ひとたび頭をつけてしまえば巨漢力士も軽々と引っくり返したものだ。入幕後から駒ヶ嶽に歯が立たなくなったのは、相手の懐が深く、得意の体勢になるまでに勝負をつけられていたからだが、うまく潜り込んで頭をつけた時はさすがの駒ヶ嶽の巨体も浮き上がってしまいもんどりうって投げ飛ばされたこともある。

 国技館開館後の第一回掲額者である高見山酉之助(最高位関脇)は何度も頭捻りや三所攻めで仕留められたせいかトラウマになってしまい、玉椿との取組みの日は発熱したという。優勝の場所はたまたま玉椿との取組みがなかったのが幸いしたが、結局玉椿には一度も勝つことが出来ずに土俵生活を終えている。

 常陸山は玉椿に食い下がられたら最後、蟻地獄のような秘技を警戒するあまり、勝負に出ることを避けたが、玉椿の方も当時の幕内随一の怪力を誇る常陸山から差し手を極められてしまうと身動き出来なかった。この両者の対戦成績は常陸山の五勝三引分だが、最後の三戦はいずれも常陸山が引き分けに持ち込むのが精一杯という相撲内容だった。

常陸山は引退後、現役時代に最も強いと感じた力士として玉椿の名を挙げ、こう評している。

 「玉椿が一番強かった。(二代目)梅ヶ谷や荒岩は世間から好敵手と言われていたようだが、別に強いとは思わなかった。玉椿には一度も負けはしなかったが、引き分けがある。引き分けは自分が元気旺盛のときのものであったが、玉椿は五尺二寸の小躯で俺と五分に四つに組み、左で食い下がった。俺は元気に任せて二度も掴み投げを試みたが、ついに勝つことが出来なかった。何分にも左差しで腹のところに頭がきているので、どうにもできなかった。玉椿の食い下がりのしぶとさと腰の強いのには驚いた」

 

 明治四十年春に小結、四十二年夏に関脇と小さい身体ながら上位とも互角に戦い、五場所連続三役の座を守った頃が玉椿の全盛時代である。横綱相手では二代西ノ海に三勝五敗四分三預とほぼ互角に戦ったほか、名大関荒岩とも一勝一敗の成績を残しているように、駒ヶ嶽を除く上位力士にとっては、大物喰いの玉椿は最も警戒を要する相手だった。

 小兵名人として人気があった玉椿だったが、勝つために手段を選ばない力士として仲間うちでの評判は良くなかった。とにかく仕切りが長く、待ったも多いため、相手がいらだってくるのである。

 それだけではない。「引き分けは負けではない」という信念のもと、いざとなれば引き分けでもかまわないという相撲を取るため、強引に勝負に出ようとした方が墓穴を掘ることも多く、こういう往生際の悪さや計算高さが疎まれたのだ。

 五歳年上で同郷の緑島(後の立浪親方)だけはなぜかウマが合い、互いに業師として腕を磨きあったが、出世が早いうえに先輩力士にお世辞も言えず、人に媚びることが大嫌いな玉椿は次第に孤立を深めていった。明治四十四年一月に起こった「新橋事件」は、彼がこの世界で浮いた存在となる決定打となった。

 特別給金の要求を発端に、新橋倶楽部に集って結束を固めた鳳、緑島、両国らを代表とする力士団は一ヶ月半もの長きにわたって協会と反目し、最終的には力士団の要求が通ったが、この時現役力士の中で一人だけ協会側についたのが玉椿だった。

 自分を拾ってくれた雷親方(当時の協会理事長)の恩義を裏切ることはできない、というのが理由だが、これはあくまでも個人的な都合に過ぎず、力士待遇の向上をはかるための労働争議に同調しなかったことは、引退後の冷遇にもつながってゆくのである。


 現役引退後、年寄白玉を襲名した玉椿が、大正七年五月、学生、社会人に相撲を普及させる目的で小石川雑司ヶ谷に開いた「白玉相撲道場」は、三つの土俵と収容人数千人の観覧席の他、貴賓室、娯楽室、浴室を完備した総工費三万円という豪華な設備で、開所当時は大きな話題となった。

 大正八年八月二十五日には、ここで紳士相撲なるものが開催されている。

 明治三十三年頃、作家の江見水蔭(相撲を国技と称した最初の人)が中心となって「相撲愛好クラブ」を発足させて以来、作家たちによる文士相撲は盛んに行われていたが、紳士相撲は満州馬賊の頭目として有名な薄天鬼を横綱格に、実業家、医師といった東京の名士連中が八十名ほど集って行われた本格的なアマチュア大会(もちろん水蔭も参加している)だった。

 当日は大盛況で、白玉がライフワークとした国民的スポーツとしての相撲の普及に大きな役割を果たしたが、現在でいうところの「高級会員制スポーツクラブ」の経営は容易なものではなく、やがて多額の借財を残したまま閉鎖を余儀なくされてしまった。


  玉椿は年寄になった後も、現役時代の名声とは裏腹に平年寄のまま冷遇され続けた。元緑島の立浪は何かと肩を持ってくれたが、筆頭取締として角界を牛耳る出羽海(元両国)が新橋事件を根に持ち続けたため、検査役はおろか木戸部長や桟敷部長の椅子さえままならなかった。役員選挙は白玉に投票しないよう出羽海が根回ししていたからである。

 そんな玉椿に対して生涯師として接したのが出羽海部屋の横綱常ノ花だった。常ノ花は玉椿が引退し協会内で不遇をかこっていた頃でさえ、自身の新弟子時代に熱心に稽古をつけてくれた恩義を忘れず、巡業先から手紙や土産を送り続け、時には相撲のアドバイスを請うほど義理堅かった。

 玉椿と常ノ花といえばこんなエピソードがある。大正四年に大相撲一行がアメリカ巡業に出かけた時のことだ。アメリカに向かう船中で、常ノ花と千葉ヶ崎を頭とする若手力士十名が力自慢のアメリカ人二十名相手に綱引きをして敗れ、師匠の常陸山から大目玉を食った。

 それからしばらくのち、甲板で稽古中の玉椿に巨漢のアメリカ人が試合を申し込んできた。小柄な玉椿を舐めていたその大男は派手に甲板に叩きつけられた腹いせに首を絞めにかかったが、柔道の心得のある玉椿は悠々締めさせておいてから、当て身一発で失神させてしまった。

 綱引きに敗れたことで、船内の外人たちから幾分嘲笑的な目で見られていた力士一行も、玉椿の一件以来、株を上げ、急にもてはやされるようになったという。これで師匠の機嫌が良くなったことは言うまでもない。

 常ノ花は結果的に玉椿に救われたこともあって彼の強さに感銘を受けたが、こういったパフォーマンスを快く思わない力士たちがいたとしても不思議ではない。

 人付き合いの下手だった玉椿はやがて協会から離れ、拓大などでアマチュアのコーチを務めていたが、昭和二年頃から心臓疾患で体調を崩し、翌年慶応病院に入院中に亡くなった。

 晩年は旧友の立浪(元緑島)以外には角界との接点がなかったせいか、かつての贔屓筋の食客になっているとか、昔馴染みの芸妓のヒモになっているとかあらぬ噂を立てられ、死に際しても、野垂れ死に同然などとゴシップ好きが喜びそうな怪情報が乱れ飛んだが、全ては玉椿の悲劇性を強調するためのデマであった。財を失い、妻女から離縁されたため、孤独ではあったが、普通人なみの暮らしはしていたらしい。

 とはいえ、引退場所では、初めて満員御礼となった国技館で弓取り式を行い、惜別の拍手と歓声に包まれた名関脇が不遇のまま世から忘れ去られ、孤独な死を遂げたのははなはだ遺憾なことである。

安青錦が玉椿ばりの平蜘蛛の仕切りと、前褌に食い下がる相撲に徹すれば、腕力は玉椿に匹敵するだけのものを持っているだけに、大の里を正攻法でねじ伏せることができるかもしれない。

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